11.雨垂れ
「お主はほんに水が好きじゃのお」
プールに浮かんで休んでいる僕を見て、玉津姫は呆れたようにつぶやいた。
「うん、正直水の中にいたほうが楽かもしれない」
一流の水泳選手は、一日に水中で過ごす方が長く、その方が楽だと聞いたことがあるが、果たして僕にもそれぐらいの才能が眠っているだろうか。夏のインターハイまであと一週間を切った。今日は自主練でいつもの市民プールに来ていた。
「呆れたやつじゃ」
ずっと泳いでばっかの僕に飽きたのか、玉津姫はジャグジー付きの温水プールへと向かう。
「それに入るともう出れなくなるぞ」
「いいのじゃあ、わしも年だからのう、養生が必要じゃ」
……都合のいい時は年寄りになるんだな。
「お、湊人じゃん」
「さわちゃんも来てたのか」
「おお今来たとこよ」
同じ部活の佐和田も来ていたようだ、気さくに話しかけてきた。
「お前、いつからいたんだ」
「えぇっと、2時間ぐらい前かな」
「おいおい、マジかよ」
佐和田もプールに入ってくる。
「すげえけどよお、練習しすぎじゃね。大丈夫か」
「ああ、問題ないよ。インハイまで後一週間だし、追い込まないと」
「ふぅん、ならいいんだけど。怪我とか気をつけろよ」
眉をひそめながら佐和田は言った。佐和田とは小学校からの付き合いだが、いかつそうな見た目に反して、結構面倒見がいい。いわゆるお節介だ。
「うん、そうするよ。一緒に泳ぐ?」
「いいぜ、泳ぎっぱなしの湊人になら勝てるかもしれん」
水泳部二人、意気揚々とプールサイドへと移動した。
自主練を終え、施設から出ると、夕立ちで滝のような雨が降っていた。
「げっ!ゲリラ豪雨かよ」
「しばらく止みそうにないね」
「ダッシュで帰ってもビショビショになるなぁこりゃ、さっきまで水に浸かってたわけだけど、雨に濡れるのは何か違うんだよな」
「服着てるしね」
くだらない会話をしながら鉛色の空を見上げていると、折り畳み傘を持っていることを思い出しバックから取り出した。
「傘持ってたけど、入る?」
「いつでも持ち歩いてるんだな、俺は大丈夫だわ。折り畳み傘に二人は仲良しすぎる」
「ふふっ、そうだね」
このまま雨宿りすると言う佐和田を残し、僕は折り畳み傘を差して先に帰った。
「確かにこの傘に三人は、ちと狭いの」
街中を歩いていると傘の下から顔をのぞかせ玉津姫が上目遣いに話しかけてくる。
「たまちゃんはなくても平気じゃないの」
「何を言うか、己で水を纏うのと雨水引っ被るんでは気分が違うわ」
「そんなもんですか」
「そんなもんじゃ」
玉津姫となら、この小さい傘はちょうど良かった。
他愛もないことを話しながら街中を歩いていると、工事現場の脇に通りかかった。
――まさにその時だった。
雨に濡れ、滑りやすくなったのだろうか、突風が吹き風を煽られてしまったのだろうか。工事現場のクレーンから吊るされた鉄骨がバランスを崩し、まだ仮組み中だった骨組みにぶつかった。それはまるでボーリングのピンを弾くように連鎖的に骨組みは崩れ、鉄骨の滝は、湊人らがいる歩道へ流れ落ちてきた。
「ミナト!!」
玉津姫が叫ぶ。玉津姫の真剣な声に、僕も事態を飲み込んだ。
「湊人よ民たちよ、伏せておれ」
玉津姫の容姿が童女のままに獣のそれへと変化する。目には金色の光を帯び、口に牙が生え、頭部にある角もいよいよ木立のように生えてくる。そして、落ちてくる鉄骨の雪崩をひと睨みし手を向けた。水流がほとばしった。25メートルプールに溜めた水をひっくり返しても足りないほどの水の塊が鉄骨へとぶつかった。
「ふん他愛もない」
玉津姫が手を振りかぶると、鉄骨は水の流れに乗り、横へと反れて道路脇に落ちた。辺りは何事もなかったように静まり返り、ただ雨がコンクリートを打つ音だけ。
「大事ないか、湊人よ」
伏せていた僕に玉津姫が駆け寄って来る。すでに龍へと変身した姿から戻っていた。
「ああ、僕は平気だ」
――玉津姫から伸ばされた小さな手を取ろうと、見上げた時だった。
一本の鉄骨がゆっくりと――大きいがゆえに
「危ない!」
コンクリートと金属がぶつかる轟音が街中へ反響した。
僕はとっさに玉津姫をかばっていた。よじよじと僕の腕の中から玉津姫が抜け出る。
「湊人……湊人よ!返事をせえ」
「た……たまちゃん、良かった無事で」
「阿呆かお主は!わしなぞは傷づいたところでたかが知れておる、じゃがお主は――人の子じゃぞ」
「……守られてばかりじゃ、かっこ悪いからな」
湊人の足元から血が流れ、雨垂れに入り混じり、溶け消えた。
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