「また、明日お礼をさせてください」
住宅街の道に入ると、吾妻さんが申し訳なさそうに分帰路を振り返った。
「誠也さんの帰りが遅くなってしまいますね」
「遅くなってもいいよ。急いで帰らないといけない用事もないから」
本心では帰宅してさっさと家着に着替えたいが、吾妻さんの怪我のことを考えれば優先順位ははっきりしている。
「人が良いですね。誠也さんは」
そう言って嬉しそうに笑った。
莉乃さんからも同じ評価を貰ったことがあるな。
人が良い、と褒められても実感は湧かない。
「吾妻さんの家まで、あとどれぐらいあるの?」
気恥ずかしさから逃れようと話題を変える。
「分かれ道から十分くらい歩きます。アパートなので見つけるのはそんなに難しくないはずです」
「吾妻さん、アパートに住んでるんだ?」
真面目で大人しそうな印象だから育ちのいい家庭だと思ってた。
それにこの辺には集合住宅のイメージがない。
「意外ですか?」
「けっこう厳しく育てられたのかと思ったから。一軒家の豪邸でもおかしくないなと」
「近所はみんな一軒家です。この辺でアパートは私の住んでるところぐらいです。一人暮らしに一軒家は必要ありません」
一人暮らしなのか。
今年からの編入らしいから吾妻さんだけ引っ越してきた、という家庭事情だろうか。
「あっ。見えてきました」
吾妻さんの弾む声を聞き、彼女と同じ方向へ目を移した。
道路に面した土地に、特徴らしい特徴のない三階建てのアパートが一般住宅に囲まれるようにして建っている。
「あのアパートの中の一部屋に吾妻さんは住んでるんだ」
「ここまで来てしまえば、もう大丈夫です」
アパートの駐車場に着くと、吾妻さんは俺の肩から手を退かした。
足首を気にしながらも真っすぐに立って俺と向かい合う。
「送っていただきありがとうございました。また明日」
怪我した脚で階段を昇るのは大変な苦労だろうなぁ。
「吾妻さんの部屋は何階?」
俺は自然と尋ねていた。
不意打ちの質問に吾妻さんはきょとんとしている。
「へ。なんですか急に?」
「部屋は何階にあるの?」
「……いっ、一階です」
どうしてそんなこと訊くの、という顔で答えた。
答えるまでの間は何だったんだろう。
「そうなんだ。また明日」
吾妻さんの返答に信じきれず帰る素振りを見せながらも、その場に留まっていることにした。
本当に一階ならば、すぐにでも入ればいいのに。
「えーと。何か?」
困ったように吾妻さんが俺を見ている。
「なんでもないよ。一階なんでしょ、部屋に入らないの?」
俺は地上階に並ぶドアを指差す。
ええと、と吾妻さんが目を泳がせてあきらかに動揺している。
「すみません。嘘つきました」
目を泳がせるのをやめると、申し訳なさそうな顔をして謝った。
「本当は三階の隅の部屋です」
そんなことだろうと思った。
吾妻さんなら気遣いの嘘ぐらい使う、となんとなく予想できていた。
「ここまで来たら最後まで付き合うよ」
「でも……」
「気にしないで。さっきも言ったけど俺には怪我をさせた責任もあるから」
「わかりました」
嘘を見抜かれて開き直ったのか、吾妻さんは俺の介助を了承した。
俺が再度肩を貸すと、躊躇なく肩に手を置いて体重の半分ほどを預けてくる。
「そこの階段から上がるのが一番近いです」
肩に置いていない方の手で斜め向かいにある階段を指差した。
なかなかの急こう配に加え、三階のため折り返しの踊り場が二か所はあるだろう。
「今の脚であの階段を昇るのはツラいだろうね」
「はい。なのでこのまま肩を貸してくれるとありがたいです」
「そう。じゃあ昇るよ」
感謝の言葉が照れ臭く、わざとぶっきらぼうに返した。
俺がゆっくり階段を昇り始めるのに合わせて、吾妻さんは傍で密着した状態で随伴する。
息遣いを感じるほど近くに女子の身体があると思うと、莉乃さんを前にした時とは違う言い知れない緊張を覚えてしまう。
恥ずかしくて吾妻さんの顔が見れない。
特に踊り場を曲がるときは吾妻さんが慎重になるせいか、なおさら密着度合いが高くなっている気がする。
女子特有の芳香に鼻腔を撫でられて落ち着かない。
……あまり意識するな。三階にある部屋までの辛抱だ。
我慢を自分に言い聞かせて階段を一段ずつ昇っていく。
吾妻さんも多少恥ずかしさがあるのか、階段を昇り始めてから黙っている。
――――――
――――
――会話のないまま三階に到着した。
「ここまで来てしまえば、さすがに大丈夫です」
三階の通路に出た途端にほっとした声音と共に吾妻さんの重みがなくなった。
肩から手が退かされて身体が軽くなったような感覚だ。
「部屋はすぐそこ?」
通路の端を指差して訊いた。
「はい」
「俺は戻っていいかな?」
「ここまで付き添ってもらってありがとうございました」
俺に向かって深々と頭を下げる。
律儀だな、吾妻さんは。
「誠也さん」
俺の名前を呼びながら頭を上げて、慕うような喜色を含んだ笑顔を見せる。
「また明日。お礼をさせてください」
「いいよ。お礼なんて」
「明日の昼休み。図書室に来てください」
こちらの遠慮を聞き流して一方的に告げてくる。
「図書室。どうして?」
「お願いしますね」
念を押すように言うと微笑を湛えて身を翻した。
通路の端へ脚を庇いながら歩いていく。
ドアの前で止まり、横顔を見せるように振り向いた。
「それでは誠也さん。また明日」
「……また明日」
何と返すのが適切かわからずオウム返しすると、吾妻さんはドアを開けて部屋の中に入っていってしまった。
……昼休みに図書室か。
図書室を選んだ理由は何だろう?
行かないのでは吾妻さんに悪いので、明日の昼休み図書室に顔を出してみよう。それにお礼というからには意地悪はされないだろう。
明日の昼休みの予定を決めて僕はアパートを後にした。
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