ミザリー
しゅんさ
生涯最高のラーメン
俺の名前は日野浩二、都内で働く社会人だ。仕事は情報誌のライターで、趣味と実益を兼ねたラーメンオタクだ。
今日の俺は会社に近い、いつもの馴染みのラーメン屋に行って昔ながらのラーメンを食べることにした。
店内は混んでいて並ぶ必要があったが、それだけの人気店だということだ。俺は15分くらい並んでからだろうか、店内に入り馴染みのアルバイトに声を掛けてオーダーを入れた。
すると後ろから声を掛けられたのだった。
「ぴのこさんですか?」
振り返ったところにあったのは知らない顔だった。
「ぴのこ」という名前に俺は懐かしい記憶を刺激された。それは大学生の頃、俺が文芸部のサークルで使っていた筆名である。
最初はサークルでは普通に名字で呼ばれていたが、童顔の俺のことを先輩が弄って「ヒノコ」と呼ぶようになり、夏にアイスのピノを食べていたら「ピノコ」と呼ばれてしまい、以来それを筆名にしてしまったのだ。
大学の部室には機関誌のバックナンバーが全て揃えてあった。熱心な部員にはそれをみんな読み返す奴が少なくないため。卒業してからも2回参加したことがある飲み会で、直接関わりのない後輩から声をかけられることも少なくなかった。しかしもう何年も顔を出していないサークルだったから、目の前の男がその時に出会ったことがある人物なのか記憶にはまったく覚えがなかった。しかしそんな名前で呼ぶのはそこの関係者だけである。だから俺は言ってしまったのだ。
「うん、そうだよ。」
その一言で声を掛けてきた青年の顔は喜びに染まっていた。彼も確証はなく、そうかも知れないと思って声を掛けたのだろう。しかし、俺の胸にはよく知らない人物から一方的に知られているという、拭えない不気味さが芽生えていた。
「あなたのことを尊敬していて、会うために、ずっと探していました。今日は会えて、凄く嬉しいです」
「濃厚牡蠣らぁ麺のお客さまぁ」
突然、カウンターの向こうから店員の声が投げられた。ここは大学ではない。ラーメン屋なのだ。
男は慌てたように、どうぞ、食べてください。会えただけで満足です。などと述べて、そそくさと自分の席に座っていった。店内は混んでいたから隣り合うということはなかった。俺は変な奴に絡まれながら食べることにならなかったことに少し安堵した。
彼が誰だったのか?そんな疑問は残ったが、ラーメンを食べているうちにそんなことは忘れてしまった。いつも通りの濃厚な出汁に支えられた名ラーメンであり、週に2回はこの店に通うようにしている。俺はこのメニューが天下に名を馳せていないのが不思議でたまらないと常々思っている。納得がいかない。こんな旨味を知らないで死んでいくなんて世にもつかない愚行だとすら思っている。
そんなラーメンを食べているところだったので、彼のことはすぐに頭から消えてしまった。食べ終わった後にふと思い出して店内を見たが、彼の顔はもう店内に並んでいなかった。いいさ、どうせ二度と会うこともないだろう。俺はそう思って、彼のことをすっかりと忘れることにした。
よく起こることではないが、起こらないとも言えない小さな話だった。もしも事件がなければ、そんな事があったことすらすぐに忘れてしまっただろう。
監禁1日目
俺が目を覚ましたのは廃墟になったホテルの一室だった。奴〈がらどんどんと名乗った〉は、俺のことを「ぴのこ」だと呼んでいた。奴は俺に「トドノベル」を書かせるために拉致・監禁をしたのだと言う。何を言っているのかまるで分からなかった。
どうやら俺のことをTwitter(今はXと言うらしい)で有名なアカウントの人間だと勘違いしているらしい。まるで身に覚えのない話だから解放してほしいと訴えたが、訴えるほどに奴の情緒は乱れて大声を上げて暴れ出してしまった。身の危険を感じた俺はしょうがなく話を合わせることにして、情報を集めながら脱出の機会を伺うことにした。
聞いた話からオレなりにトドノベルというもの解釈して再現して見たが、読むなり奴は原稿を床に投げ捨てて踏みにじった。破り捨てた。大声で泣き出した。こんなのぴのこさんのトドノベルじゃないです。何があったんですかなどと言う。俺は「ぴのこ」じゃない。フザケている。
監禁2日目
いつかは人が来るだろうという望みは早々に絶たれることになった。いくら廃墟とはいえ、管理人がいて見回りとかをしているはずである。しかし奴自身がその管理人だったのだ。
窓は板に釘、扉は外側に南京錠。俺は首輪をされていて鎖が寝台に結びつけられている。部屋の中を自由に歩くことは出来るがそれまでだった。扉にだって行くことすら出来ない。
ペットボトルに入った水を飲み、与えられたコンビニの弁当を食べている。執筆用のノートパソコンはインターネットに繋がっていないので、助けを呼ぶことも出来ない。せめて日々あったことを記し、いつか奴が逮捕された時の記録にしてやろうと思っている。
今日もトドノベルらしきものを書いて渡したが「トドオカさんのいないトドノベルがありますか。書き方忘れちゃったんですか?」などと言われた。ふざけるな、そんな男のことは知らん。
監禁3日目
書き方を忘れたんだという話をして、トドノベルの実物を見せて欲しいと頼んだ結果、奴は分厚いバインダーにプリントアウトしたそれを渡してきた。なんなんだこの量は?
本物のぴのこ氏が書いたものと、それ以外にも有象無象のたくさんの人がトドオカという人物を中心に話を書いているみたいだ。
そのトドノベルを書いている人々−トドノベルによるとその人々のことをトドションシボラーというらしい。俺はそれを見た時に頭のオカシイ奴らがこんなにも集団になっているものなのかと頭がクラクラと来てしまった。−の中でもぴのこ氏という人物は目立つ人物であったらしい。文章が上手く、アイデアは豊富で、そして何よりも速筆である。人が物語を綴る速度は本当に様々だが、この投稿ペースは常軌を逸している。ほとんど毎日書いているのだ。果たして本当に仕事をしているのだろうか?専業でトドノベルを書いているのか?日本はもう滅んだ方がいいんじゃないか?
そして、俺のことを監禁している"奴"は、彼の大のファンであったらしい。SNSの中で作家とファンが直接交流し、日々意見を交わし合って過ごしていたと言う。そんなぴのこ氏が、1週間前からTwitterに姿を現さなくなったらしい。奴はぴのこ氏のことを心配し、何度もメールをしたらしい。そしてあろうことか誤解したまま俺のことを拉致したらしい。ぴのこ氏のトドノベルを読まないと禁断症状が出て体調が悪くなると言う。
馬鹿なことを言っていないで俺のことを解放しろ。と言いたくなる気持ちはあったが暴れ出されても溜まったものではないからグッと飲み込んだ。奴の両手はその爪で掻き毟った跡がメチャメチャに残っており、かさぶたと出血でぐちゃぐちゃになっていた。それを見た俺には生理的な恐怖が訪れた。背中に冷水をぶっ掛けられた気分だった。狂っている。そして、そんな人間の上に俺の命が転がっている。それが俺には不快でならない。
飯を食いながら思ったのだ。もしも奴が心臓発作とかで突然死したとする。すると誰が俺に食事を届けるだろうか?誰が俺を見つけてくれるだろうか?
もしもそんな日が来た場合、俺はこの数メートルの鎖の範囲で悶え苦しみながら飢え死にすることになる。そんな恐ろしい事があるか?憎き犯人は死にました。哀れな被害者も死にました。クソ喰らえだ。
監禁5日目
奴に脚を傷つけられた。
奴は大きなトンカチを持って現れた。
そして鎖を持って俺のことを引きずり倒すと俺の上に馬乗りになってから、両脚を滅多打ちにした。それは内出血をしているのだろう、赤黒く腫れ上がり、身体は熱を帯びて頭が痛い。殺されると思って恐怖した。
「ぴのこさんに必要なのは恐怖なんですよね?書かなきゃ死ぬと言う必死さ、それがあなたには足りなかった。たから僕があなたの恐怖になります。心を鬼にします。あなたに素晴らしいものを書いて欲しいから」
そう言って俺の脚を殴り続けた。俺はラーメンの情報誌の編集者だ。文芸なんて何年も書いていないし、ホラーなんて書いたこともないし、トドオカなんて奴のことはまるで知らない。たくさんの人が書いたトドノベルを読ませて貰ったがまるで意味がわからない。なんで極道だったり女子高生だったり化物だったりするんだよ?まるで分からないものをまるで分からないままに書いているんだ。原稿を捨てられる度に心が痛む。奴が憎い。殺してやりたい。
監禁12日目
この環境に何か引っかかると思った。
これはスティーブン・キングの「ミザリー」みたいな状況じゃないか。
人気作家の主人公が事故にあって意識を失い、目覚めると自分が民家で治療を受けていた。女主人は作家のファンで、まさか自分が助けたのが人気作家だと思わなかったという。
雪に閉ざされた山の中で作家のことを女主人は甲斐甲斐しく看護するが、この生活はやがて女のことを狂気に導いていく。自分の監視下で自分好みの物語を書かせ、思い通りにならないと癇癪を起こして作家のことを虐待するのだ。
俺との違いは、まず俺は人気作家なんかじゃないし、奴が求めている作家本人ですらないということだ。
みじめすぎて死にたくなる。
がらどんどんは焦っていた。
ぴのこさんの消息がTLから消えて3週間になる。
ぴのこさんが与太話をしない。
ぴのこさんがいいねしてくれない。
ぴのこさんがトドノベルを投稿してくれない。
まるで魚にでもなったような気分だった。
陸に上がった魚。溺れる魚だ。呼吸が出来ない。苦しくて死にそうだ。
びのこさんが消えてからずっと全身が悲しんでいる。
トドノベル欠乏症候群。あるいはトドノベル禁断症状だと思った。
アーカイブを読み返してみたりしたが、一時的に満たされるだけでまたすぐ苦しくなってしまう。
その解消方法は単純明快だった。
ぴのこさんにトドノベルを書いてもらえばいいのだ。
だからぴのこさんを誘拐した。
だからぴのこさんにお願いした。
どうかお願いします。トドノベルを下さい。
トドノベルを読ませて下さい。
息が出来なくて苦しいんです。
ぴのこさんの書いたトドノベルが読めなくて気が狂いそうなんです。
ぴのこさんと街で会えたのはまったくの幸運だった。言葉を交わし、握手までしてもらえた。
店を出たびのこさんの後を付けて自宅を確認し、それからは暇を見つけてはカーテンの向こうにいるぴのこさんを思いながら感謝を捧げ続けた。
ぴのこさんの住居の向かいのマンションが、その屋上がほとんど立ち寄り自由だったのは僥倖だった。
ぴのこさんの生活を眺めながら読むトドノベルは最高のエンターテインメントだった。
それが失われてもう3週間だ。まったく理由が分からなかった。
双眼鏡の向こうのぴのこさんはそれまでとまったく変わらない生活をしている。
なのにツイートをしてくれない。トドノベルを読ませてくれない。そんなの、そんなことは、許されていいことじゃありませんよ?
ぴのこさんにリプライをした。
「新作待ってます!」
返信はなかった。
「ぴのこさん、お身体が悪いんですか?」
返信はなかった。
「ぴのこさん?」
返信はなかった。
「トドノベルが読みたいです!」
返信はなかった。
「書いて、トドノベル…」
返信はなかった。
「書け」
返信はなかった。
「お願いします!一万円課金しました!」
返信はなかった。
「助けて下さい!お金送ります!」
返信はなかった。
「トドノベルを…」
返信はなかった。
書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書け書いてくださいお願いします苦しいんです助けてください読ませて下さい書いてください
頭の中が新しいトドノベルを求める言葉で満たされた。息ができなかった。眠れなかった。食事が喉を通らなかった。
だからぴのこさんを保護した。
ぴのこさんをトドノベルから遠ざける全てから守るために。
トドノベルしか書けないようにするために。
トドノベルを書いてもらうために。
なのに、ぴのこさんは書いてくれなかった。
トドノベルを書いてくれなかった。
ひどいことだった。裏切りだった。僕に対する虐待だとしか思えなかった。
「ぴのこさんを見つけたので、いま新作を書いてもらえるように交渉しています!」
そうツイートした。
タイムラインにいるみんなに応援してほしかった。ぴのこさんのために頑張る自分を応援してほしかった。
覚悟を決めるために、なんとしてもぴのこさんの文才を蘇らせるために。世に出る新しいトドノベルのために。
ぴのこさんは書き方を忘れてしまったのだ。ぴのこさんに必要なのは、本当の恐怖。
脚を砕くくらいじゃダメだったんだ。
もっと、もっと、もっと。
深い傷が。痛みが。絶望が必要だったのだ。
トドオカさんのようになれ。
ぴのこさんの描く、極道トドオカのように。
残忍になれ。それがぴのこさんのためになるんだ。
道を極めるんだ。トドノベルのために。
そうして僕は決めた。
ぴのこさんを唸らせるようなラーメンを作り、トドノベルの執筆が滞るなら僕がそれを目の前で食べてしまうのだ。きっとぴのこさんなら発狂してしまうに違いない。
そう思ってからは3食の提供を全てラーメンにすることにした。思えばぴのこさんのガソリンはラーメンなのだから、それを与えないで書かせても何も良いものが出てこないのは当然の帰結だった。
ぴのこさんの満足するラーメンを僕が作る。この廃ビルで。
幸いここは人家から離れている。どんなに臭い豚骨を炊いても誰かから文句を言われる心配はない。
最初は上手くできなかったけれど、日々作り続けている内に美味しいラーメンが作れるようになってきたと思う。
ぴのこさんも褒めてくれた。
最初に出したラーメンは乳化も何も出来ていないただの汁麺だった。そんなモノをぴのこさんの前に出してしまったのはまったく恥ずかしい限りだった。料理なんて初めて作ったのだ。
それが今では、ぴのこさんは僕の作ったラーメンをとても静かに食べるのだ。集中しているらしい。
美味しかったと言って貰えた時は本当に嬉しかった。
ぴのこさんは毎日トドノベルを書くために頑張ってくれている。
だから僕はぴのこさんのためにラーメンを作ろうと思う。
昨日よりと美味しく、ぴのこさんに満足して貰うために。
そうして厨房に立って、スープを作り込んでいた時、TwitterからDMの通知が来た。見ると差出人は、なんとトドオカさんである。
ぴのこさんはがらどんどんにとってはメシア、キリストのようなものであるが、トドオカさんはその神様であるヤハウェと同義である。
胸が高鳴る。トドオカさんがなんだろうか?
「お前、いまどこにおるんや?」
トドオカさんが聞いてくれていた。だから住所を送った。
返信はあった。
「ほな、いまから行くわ」
「おーおー!君が偽ぴのこくんかー!?元気にしとるかー!?」と大男が突然部屋に押し入って来た。
それは山のような男だった。身体が単純にデカい。昔、力士にあった事があるが、その時は「意外に小さいんだな」と思ったものである。だが男の身体は筋肉に膨らみ、とても巨大だった。
そしてギョッとしたのは男がマスクをしていたことだった。頭に動物のトドのマスクを被っている。あのドン・キホーテなんかで売っている馬の奴みたいだ。顔が知られたくない事情があるのだろうか。
「あなたは誰なんですか?」と俺は聞いた。
「ワシか?ワシはトドオカや。よろしゅーな」
トドノベルという訳の分からないものに題材とされているその男本人のようだった。
「どうもワシのトドンパが兄ちゃんに迷惑かけたらしいな。ごめんちゃい」そうおちゃらけて言いながらも男は、私の首に繋がっていた鎖を両手で引き千切った。私がどんなに外そうと努力しても外せなかったものを、男はいとも容易く破り捨ててしまった。その肉体は見せかけのものでは決してないということだ。
ほな行こか。と男は言った。
「ま、待ってください、脚が痛くて、とても歩けないんです、何があったんですか、奴はどうなったんですか?」
「アレはワシが潰した」
「ワシな理由あって数週間前にぴのこって奴のこと処刑したんよ。なのにがらどんの奴はぴのこが生きてるとか言うてるからな、何言うとんのやと思って確かめに来たんよ。そしたらそこには兄ちゃんいるやん?もうワシ大笑いしてもうたわ。まさかしぶとく生きてたんかなんて思ったら、ぜんぜん違うんじゃもん」
男はマスクの下で笑っているのかも知れない。でもその表情はトドのマスクに遮られて何も見えない。トドの無機質な目が、真顔でまっすぐと俺のことを見ている。明るい声が余計に不気味だった。
「カタギに手を出すのはルール違反やからな。あんちゃんには気の毒なことやった。偉い迷惑掛けたみたいやけど堪忍な。でもこれを警察に垂れ込んだらワシ本気で兄ちゃんのこと追い込むからのぉ、絶対に黙っとるんやよ。トドオカお兄さんとの約束や」
「分かりました。言いません。助けては、くれるんですね?」
「結果的にはそうなったかな。別に興味はないんやけど。笑えた分の御駄賃や。もしも兄ちゃんがここで死んでもうたらそら偉い気分悪くなるわ。ナンマンダブー」
「助けて貰えたことには感謝します。でも、あなたは一体何なんですか?何なんですかトドノベルって?アイツは何だったんですか?ぴのこって誰のことだったんですか?」堰切ったように俺の中の疑問が溢れ出した。助かった安堵が身体を包む。一体この酷い経験は何だったのか…。
「じゃかしいぞ。なんでワシがお前なんぞの質問に何でも答えてやらなきゃならんのじゃ。ブチ殺すぞ」トドオカと名乗る男は私を見下ろして言い放った。瞬間、ただでさえ大きな男の身体が膨らんでいるように見えた。その背後には怒りのオーラが見えた。喜怒哀楽の転換が早すぎる。俺はこの男の存在に改めて恐怖した。
「ま、お前さんのことはもう知らん。興味もないわ。ほなな」
そう言って男は消えた。
まるで嵐で、まるで嘘のようだった。私のことを数週間監禁した奴は居なくなり、鎖は千切れ、扉は開いている。
俺は痛む足を引きずり、立てるかどうかと試してみた。しかしとても無理だった。だからホテルの外まで這いずって進むことにした。まったく惨めな思いだった。自分の命がまったく尊重されず、虫けらのように扱われたのだ。芋虫のように暗いホテルの中を這いずって、外の明かりが見えた時には知らないうちに泣いていた。
人のいる通りに出るまではさらに大変だった。倒れたままでは扉を開けるのがこんなにもシンドいことだとは思わなかった。それから通行人に見つけてもらい救急車を呼び、病院に搬送された。
俺は編集部に連絡を取って貰い、部長に来てもらった。無断欠勤でほぼ一ヶ月社会から消えていたのだ。
明らかに事件性のある状態で保護されたわけだが、会社の法務部長と弁護士にだけ真実を告げて、警察には強引に事件性はないと言って押し通すことにした。下手な通報をして反社の恨みを買うのは適切ではないし、話の通りならば通報したとしてそれで何かが得られる訳でもなかった。触らぬ神に祟りなしという結論だった。
退院してからの俺は普通に出社をして、毎日ラーメンを食べて、毎日記事を書く生活に戻った。
それまでとまるで変わらない生活だった。あの日々は俺の中で暗い記憶となっていて、思い出すことを望まれない日々となっている。
あのホテルのあった観光地にも二度と行くものかと思っている。
しかし、ふとした時に思い出す事があるのだ。奴が作ったラーメンの味を。あれはどの店でも食ったことのない、本当に美味しいラーメンだった。
もしも彼が真っ当にラーメン職人として生きていたのならば、俺は喜んで彼の店に取材に行っただろう。
なんてことだろうか。生涯最高のラーメンが、あんな監禁生活の産物になるなんて。
まったく、惨めな気持ちだった。
そう呟いても、それを分かってくれる人は誰もいなかった。
(完)
ミザリー しゅんさ @shunzai3
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