Chapter Ⅰ◇2

 それと気づいたのは夕刻だ。

 日が沈みかけた頃になって、ルシエンヌは恐る恐る窓を開け、家の外を覗いてみた。しかし、夕日に染まる森はいつもと変わりない。ルシエンヌにだけ、一体何が起こったのだろう。


 ためしに、床に転がっているハープに奏でよと命じる。けれど、悲しいくらいの無反応だ。何も起こらない。


「じゃ、じゃあ、こっちは――」


 ティーポットから紅茶が溢れることもない。シィンと静まり返っている家。カラスの声だけが虚しく響いた。


「…………」


 カラスは魔女の家の窓辺に泊まり、カァと鳴いた。


『どうしたんです、魔女殿?』


 カラスの言葉が聞こえる。不幸中の幸いと言うのか、ルシエンヌの力はほんの僅かに残っていたのだ。動物の声が聞けたのだから。

 ほっとしたけれど、すぐに考えを巡らせる。この力もすぐに消えてしまうかもしれない。ルシエンヌはカラスに助けを求めた。


「おかしいの。力が出なくて」

『力が出ない? それは困りましたねぇ』


 黒いカラスからは表情が読めない。ひたすら首をかしげている。

 こうなっては日が沈む前に行動しなくてはならない。時間が惜しい。

 ルシエンヌは家の中をバタバタと走り回りながらカラスに頼んだ。


「ねえ、グリフィンかヒッポグリフを呼んでもらえないかしら?」


 カラスはルシエンヌの頼みにぎょっとして、翼を大げさに羽ばたかせる。


『無茶を言わないでくださいな! ただのカラスが御歴々に声をかけられると思いますか!』

「急ぐのよ。お願い!」

『無理です、無理! あの鋭いくちばしで八つ裂きにされてしまいますよ! ご自分でお頼みくださいませ』


 冷たいものである。魔力を失う前はもう少し敬っていてくれたはずだが。カラスはバッサバサと羽音を立てて去った。


 それからルシエンヌは気を取り直し、今現在、家にあるものをもっとかき集めようとして諦めた。そんなに持てやしないのだ。


 魔力を失った以上、それを知られてしまえば捕らえられる。それは確実なことだと思えた。だから、すぐにでもここを離れなくてはならない。

 ただし、生まれてこの方、荷造りなどしたことがないから、何を持って出ればいいのかもわからなかった。


 焦って冷や汗が滲んできたが、金さえあれば足りないものは買えるはずだ。そこに思い至ると、ルシエンヌは絹のスカーフに大きめの宝石をいくつかと、あとは――自作の貴重な薬が入った小瓶を包み、それを捻って腰にくくりつけた。


 普段から高飛車な態度を取ってきただけに、無力になったルシエンヌを人間たちがどう扱うのかは目に見えていた。今までの憂さ晴らしをされる前に逃げなければ。



 このラウンデルの森は、ルシエンヌが生まれ育った地である。

 北のアージェント王国、南のセーブル帝国の国境にある森で、正確にはどちらにも属さない。独立した魔女の土地とされている。


 豊富な薬草が育ち、魔女を慕う幻獣たちが寛ぐ居心地の良い森なのだが、今はここにしがみついてはいられない。


 ルシエンヌは久しぶりに扉を手で開けると、まず第一歩を踏み出し――転んだ。


「い、痛い!」


 受け身も取れず、見事に横倒れになった。目撃者がいなくて、威厳はまだ保たれていると思いたい。

 いつもフワフワと宙に浮いていたから、歩行すら久しぶりなのだ。いきなり足がもつれたのは予想以上にひどかったが。


 それにしても、痛いなんて感覚を前に味わったのはいつだっただろう。物心ついてしばらくして、魔法を使えるようになった後にはなかったような気がする。

 擦り剥いた手の平から赤い血が滲んでいた。念じたところで傷は塞がらない。痛みも引かない。


「これじゃあ、ただの人間だわ……」


 自分でつぶやいてゾッとした。それでも、これは現実だ。

 ルシエンヌは頼りない足で立ち上がると、再び歩き出した。


 これから先、この家に戻ってくることができるのかどうか、それはルシエンヌにも見通せなかった。

 それどころか、ルシエンヌ自身に何が起こっているのかさえわからないのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る