Chapter Ⅰ◇1

 春一番が吹く、国境をまたぐ〈ラウンデルの森〉の中。

 ここは、どんなに風が吹きつけてもびくともしない一軒家。


 破風はふが低くレトロな風情漂うけれど、可愛らしくもある小さな家だ。

 見た目は小ぢんまりとした木造の家でしかないが、その実、中は広々としている。何故そんなおかしなことが起こるかといえば、この家が魔女の住処だからだ。

 一歩中へ踏み入れば、そこは貴族の屋敷に引けを取らない造りになっている。


 その寝室で魔女のルシエンヌは、豪奢な縁飾りの鏡に映った自分の頬をペタペタと撫でた。

 顔立ちは昨日と変わりない。完璧な美しさだ。

 しかし、目の色が少し違った。強い魔力を秘めた金色の双眸は輝きを失い、柔らかな春の野花のような色に見えた。


 視力は問題なくあるが、これはどうしたことかと首をかしげる。

 心当たりがまったくない。

 この時ふと、己から欠け落ちてしまったものの大きさに気づいた。


「ま、まさか――っ」


 信じがたい気持ちだった。けれど、叫んだところで何も変わらなかった。


 大陸を揺るがすほどの魔力を持つ、世界最強の魔女。

 それが一体どうしたことか、体中のどこにも魔力を感じられないのだ。


 今までこんなことは一度たりとてなかった。病気か、それとも、何か他に原因があるのだろうか。

 魔女であるルシエンヌが、何ひとつ魔法を使えなくなるなんて。


 ルシエンヌはゆっくりと昨日のことを思い起こしてみる――。



     ◆



 ルシエンヌは昼過ぎに目を覚ました。

 のっそりとベッドから起き出すと、魔法を使って瞬時に髪を巻き、着替え、身支度を整える。

 人と違って呪文の詠唱も必要としない。人が使う魔術の固定された術式とは無縁の、それこそ夢のような技だ。


 ルシエンヌは望むだけですべて叶えられる。侵略者を撃破することも、国を護ることも、意中の相手の心を奪うことも、敵を呪うことも――。

 それが魔女というものである。


 ルシエンヌはいつも漆黒の、足元までを覆うロングワンピースを好んで身に着ける。それが自らを一番輝かせる色だからだ。夜空のような黒いワンピースに淡い金髪を垂らすとよく映える。朝から姿見かがみに自分を映して、ルシエンヌは満足した。


 食事もイメージしたものを魔法で再現できる。料理などせずとも魔法で食べたいものを食べたいだけ作り出すのだ。

 この日も優雅に、発酵バターが香る焼き立てのクロワッサンとカフェオレで朝食を済ませた。白と金のテーブルセットは王室御用達級であるが、この物体のもとはすべてルシエンヌの魔力だ。食事もそうだから、ある意味自給自足だろうか。


 食後には、弦楽器が宙に浮かぶ。自動演奏の音色に耳を傾けてソファーに身を沈めると、こちらに向けて近づいてくる人の気配を感じた。

 この気配は、いつもの、である。

 拒むつもりもないが、馴れ合うこともない。


 来訪者が玄関先に立った時、ルシエンヌは手を使わずに扉を開けてあげた。いい加減に慣れたのか、来訪者は驚かない。硬い表情で挨拶をする。


「魔女殿、本日もご機嫌麗しゅう――」

「前置きは要らないわ。何か用?」


 ソファーから立ち上がり、ルシエンヌは腕を組んで来訪者たちに目を向ける。

 いつものことだが、彼らに対して敬意など欠片も抱いていない。冷え冷えと、蔑みすら浮かべている。


 来訪者たちはこの森の北に位置するアージェント王国の軍人である。灰色の制服に身を包み、皆、二、三十代で筋骨逞しいが、頭脳はお粗末そうな顔立ちばかり並んでいる。もちろん、ルシエンヌに武力は通用しないのだから、軍人だろうと魔術師だろうと民間人だろうと、誰が来ても同じだ。


「ええ、そ――」

「技術者の指導、戦争時の協力確約、それが叶わないのなら他国への協力も同様にしないこと。魔族襲撃の際にのみ防衛の手助けを――以上かしら?」


 言葉を遮り、先を読んで言った。


「は、はい」


 失礼極まりない態度だが、軍人たちも魔女を相手に緊張している。憤りは見せない。

 ルシエンヌは手短に済ませたいと思っている。彼らもそうだ。ここへ来なくてはならないのは、彼らにとっても面倒な仕事だろう。


「私はこれからも、誰にも従わないわ」

「承知致しました。では、またご機嫌伺いに参らせて頂きます。これは陛下からの贈り物にございます。どうぞお納めください」


 そう言って、軍人は金細工の施された宝石箱を差し出す。ルシエンヌはそれを宙に浮かせ、手を使わずに受け取った。軍人は頭を下げると、一度も振り返ることなくルシエンヌの家を去った。


 ルシエンヌは宝石箱を手元に寄せ、今度は手を使って蓋を開けた。中にはシルクの台座に収まった美しい宝石が収まっている。胡桃くるみほどの大きさで、蛍石フローライトだろうか。晴天に似た色の石の中に虹が閉じ込められたような、複雑な光を持っていた。


 ルシエンヌはアクセサリーではなく宝石そのものを好むのだと、アージェント国王がようやく学んだ末の貢物である。


「まあ、悪くないわね」


 光に翳しながらルシエンヌは独り言つ。

 大きな魔力を持つルシエンヌを、いかに国王であろうとも従わせることはできない。だからこそ、敵対しないことが最良なのだ。そのための貢物であり、ご機嫌伺いである。


 ルシエンヌがどこかに肩入れしてしまえば、それ以外の国を滅ぼすこともできるのだから。

 彼女はいつも、畏怖をもって人々から敬われていた。

 ――しかし。


 魔女は突然力を失ったのだ。

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