傘と魔女
だいふく
一
ざぁざぁと、雨が窓ガラスを叩く音が耳障りなくらい響いている。
今朝は晴れていたのだが、昼頃からどんどん天気が悪くなり、一時間ほど前から降り始めた。天気予報通りではあったので、杏理を含む大半の生徒は傘を持ってきているが、そうでない者は帰りが大変だろう。
授業はもう全て終わっており、いまは終礼の途中である。
いつもはプリントなどの配布や行事などの連絡で終わるのだが、今日は少し様子が違っていた。なにやら物騒な事件があったらしい。
ここ数日、学校近辺で猫や鳩の死体が幾つも発見されているという内容だった。獣に食べられたような形跡があり、人間の仕業ではないだろうとのことだが、見かけたら通報するようにと、警察からのお達しがあったらしい。そういうことを担任が話している。
とはいえ、自分には関係のないことだろうと思い、杏理は話を半分聞き流していた。
窓の外から視線を戻し、右隣の席を見る。
肩ほどまで伸ばされた髪は、濡れた
ここが女子校でさえなければ、異性からの好意を多く寄せられたことだろう。とはいえ、性別の壁を越えて恋慕する者も世の中には、特にこういう学校には多くいるため、美麻は高嶺の花のような存在として扱われている。
いや、高嶺の花というには、彼女は少し異質であるかもしれない。
杏理が美麻のことを知ったのは一年と少し前。ちょうど、この高校に入学したときのことだった。
中高一貫の女子校であるここは高校募集も行っており、杏理はそれで入学したひとりである。
一年生のときは美麻とは違うクラスだったが、入学してすぐに彼女の存在を知った。中学から内部進学してきた美麻は、学内では既に有名人だった。
ただ美人というだけで有名だったのではない。
彼女には常に、《魔女》という異名が付きまとっていた。
実際に彼女が魔女とか、そういう話ではない。
烏城美麻という人間は、どこか普通の人とは違う、近寄りがたい雰囲気を纏っていた。
杏理達と彼女の間には明らかな境界線がある気がするのだ。そのせいか、彼女は中学の頃から敬遠される傾向にあったようで、高校でも人と話しているところは殆ど見かけない。当然、杏理が美麻と言葉を交わしたことは一度もない。クラスが違ったこともあったが、彼女との間にある境界に触れるような勇気がなかったのだ。
けれど、杏理は美麻に密かな憧れを抱いていた。
中学までは人との付き合いをそれなりにうまくやれていた杏理だったが、この高校は内部進学グループが既に出来ており、その雰囲気にうまく馴染めなかった。部活に入らなかったこともありいまでも友達はそう多くなく、孤独なことの方が多くて、それを苦痛に感じていた。
だから、誰とも関わりを持たずに生きている美麻に
いつの間にか、美麻がこちらに顔を向けていた。彼女の色素の薄い瞳が杏理を見つめている。
杏理が慌てて視線を教壇へ戻すと、ちょうど終礼が終わったようで学級委員が号令を掛けていた。心臓をばくばくさせながら立ち上がり、号令に従い挨拶をする。
礼が終わると、生徒は少しずつ教室から出て行く。部活に急ぐ者もいれば、友達と駄弁りながら帰路につく者もいる。
帰宅部の美麻はすぐに教室を出る生徒のうちのひとりだ。杏理が隣の席を見たときには、彼女は既に姿を消していた。
杏理は部活に所属する友人と少しばかり話してから、教室を出た。
杏理は下足室でローファーに履き替えて、傘立てからお気に入りの臙脂(えんじ)色の傘を引き抜いて外に出る。庇の下から空の様子を伺う。雨脚は先ほどよりも少し勢いを増しているようだ。
横を見ると、いつもの冷めた表情で外を見ている美麻がいた。忘れてきたのだろうか、その手に傘は握られていなかった。少しの間彼女のことを見ていたが、鞄から折り畳み傘を出す様子もない。
杏理は少しびっくりした。
杏理の中の美麻は何でも出来る完璧な人で、傘を忘れるなんてことはないと思っていた。
声を掛けようか、迷った。
杏理の鞄の中には折り畳み傘がある。いま手に持っている傘を美麻に差し出しても、雨に濡れずに帰ることは可能だ。
美麻に一歩歩み寄り、恐る恐る口を開く。
「あの……烏城さん」
杏理が美麻に掛けた、初めての言葉だった。
美麻が杏理を見る。杏理は思わずびくっと肩を強張らせた。睨みつけられているというわけではないのに、身動きがとれなくなる。
「鴇塚さん、だっけ」
彼女に名前を覚えられていたことにまず驚いて、杏理は頷くことすら忘れていた。
杏理の返事を待たずして、美麻は言葉を続ける。
「わたしに、なにか用?」
「あ、えっと、いや」
返答に困って、杏理は口ごもった。
「何もないの?」
そう言って、美麻が会話を打ち切ろうとするものだから、杏理は慌てて手に持った傘を差し出した。
「あの、もし傘ないんだったら、これ、どうぞっ」
美麻は目の前の傘と杏理の顔を交互に何度か見比べた。
「貸してくれるってこと?」
「えっと、迷惑だったらいいんだけど……」
やらかしたか、と杏理は不安に思った。
あれだけ他人を寄せ付けない彼女だ。傘を差し出すなんて、過干渉にも程がある。突っぱねられて終わりどころか、逆鱗に触れた可能性すらある。
「ありがとう」
返ってきた言葉は意外にもお礼だった。
「でも、いいわ。貸してもらいたいけれど、あなたの傘がなくなるでしょ」
「あ、いや、わたしは折り畳み傘があるから大丈夫……です」
思わず丁寧語を使ってしまう。年齢は同じはずなのに、大人の女性と話しているような感じだ。
「じゃあ、折り畳み傘の方を貸してもらっていい?」
「わたし駅から家近いし、こっち使って……ください」
杏理は押しつけるようにして美麻の手に傘の柄を握らせた。そう言うなら、と呟いて、美麻は渋々という感じでそれを受け取った。
「ありがとう、助かるわ。これは明日返すわね」
「あ……はい」
「同じ学年なんだし、畏まらなくていいわよ」
「あ、うん……」
美麻と会話をしているという夢のような現実に、杏理は緊張で心臓が破れそうだった。
「それじゃ、行きましょ」
そう言って、美麻は傘を開いて庇の下から出た。一瞬、自分が言われていると気付かず、杏理は我に返ったように鞄から折り畳み傘を取り出して後に続いた。
美麻の横に並んで歩く。背が高いぶん、彼女の歩調は杏理よりも少しばかり早くて、杏理はいつもよりも早足になる。
雨の中、会話もなく横を歩いているのに耐えられず、杏理は口を開いた。
「烏城さん、傘は忘れたの?」
「……盗られたのよ」
少しむすっとした表情を見せて、美麻が言う。
思いがけない反応だった。烏城美麻がこのように感情を表に出すところを初めて目にした。人間らしい、と言うと失礼かもしれないが、彼女もこんな表情をするのだという発見が、他の人は知らないであろう一面を知れたことが、杏理にはなんだか嬉しかった。
「どうかした?」
表情に出ていただろうか。美麻が怪訝そうな表情で杏理の顔を見つめていた。
「……っ、ううん、なんでもないの!」
ぶんぶんと首を横に振って誤魔化す。傘が盗られたと聞いて喜んでいると思われたらたまらない。しかし、美麻も同じ人間には違いないのだと思うと、杏理はなんだか少し肩の力が抜けた気がしていた。
「そういえば、終礼で言ってたあれ、怖いよね」
ふと思い出したことを話題に挙げてみる。猫や鳩が噛み殺されていたという事件の話だ。
「ああ、あれね。気をつけた方がいいわよ」
「……? なんで?」
美麻ならば「そうね」の一言くらいでさらっと流すと思っていたのだが、意外な反応だった。
「キツネとか、野良犬とかじゃないの? ほら、山近いし」
そう言って、杏理は北の方を指差した。この街はそれなりに栄えてはいるが、自然が身近だ。
「野生動物なんてどんな菌持ってるか分からないし、そもそも人間の仕業かも知れないわよ」
「あー、それは確かに怖いかも……」
殺人犯が動物虐待をしていたような話はよく聞く。二十年くらい前に殺人事件を起こした中学生も、猫を殺すのが始まりだったという。もしかしてこの街にも似たような殺人犯予備軍が潜んでいると思うと、ぞっとする。
「夜はひとりで出歩かない方が良いかもしれないわね」
「うん……そうする……」
そんな話をしているうちに、駅前のバス停まで来たところで美麻が立ち止まった。
「それじゃ、わたしはここで」
「あれ、烏城さんバスなの?」
「ええ」
バスそのものは学校の前からも出ているのだが、路線は限られてくる。わざわざ駅前から乗るということは、彼女の家は街中から少し外れた場所にあるのだろう。
「それじゃ、また明日」
そう言って、美麻が臙脂色の傘の下で手を振る。つい先日までの杏理には考えられなかった光景だ。
また明日も美麻と話せるのだと期待に胸を膨らませながら手を振り返して、杏理は駅の改札へ向かった。
***
顔の違和感と、僅かな吐き気を覚えて目が覚めた。
真っ先に認識できたのは、いつも見ている自室の白い天井。次に知覚したのは、口の中にじわりと広がる鉄の味と、生臭い臭いだった。
ばっと飛び起きて口元を手で拭うと、赤い何かが剥がれ落ちた。それが乾いた血であることを杏理はすぐに理解した。
立ち上がろうとしたが、強い目眩がしてうまく身体を動かせない。ベッドから這い出すようにして手鏡のもとへ向かい、顔を見る。口と鼻の周りに、まるで紅いマスクを着けているかのように血がこびりついていた。
恐らく、寝ている間に鼻血が出たのだろう。ベッドを見ると、枕の周りにも幾らか血がついていた。
鼻血が出たことは何度かあるが、何かにぶつかったようなことが原因だ。切っ掛けもなく寝ている間に、それもこんな量が出ているのは初めてのことだ。
自分の顔を鏡越しに見た直後、杏理は胃袋からこみ上げてくるような強い吐き気を催した。ふらふらする足取りで、ゴミ箱に飛びついた。
「んグ……げェッ!」
吐いた。胃を裏返したのではないかというくらい盛大に吐いた。吐瀉物も紅色だった。知らず知らずのうちに鼻血を飲み込んでしまっていたのだろう。口の中が胃液の酸っぱさと血液の生臭さでいっぱいで、それが余計に吐き気を誘った。
結局、吐き気が治まるまでの数分間、杏理はゴミ箱から離れることが出来なかった。
部屋中に、吐瀉物の饐えたような臭いと血生臭さが充満している。杏理はどうにか血のついたベッドに戻って、横になっていた。ゴミ箱の中のモノを自分で処理するだけの気力がない。全身が気怠くて、目眩も嘔吐する前より酷くなっている。正確には分からないが、体温も高そうだ。
――病気、かな……。
大量の鼻血に、原因不明の目眩と嘔吐。少なくとも身体が正常ではないことははっきりしている。
学校は休むしかない。杏理のこの体調では、そもそも学校に辿り着くことすらままならないであろう。
せっかく昨日、美麻と話が出来たのに。今日学校に行っていれば、彼女が貸した傘を持ってきてくれていて、また言葉を交わすことが出来ただろう。彼女が独りで昼食を食べていることは知っているから、誘えば一緒に食事が出来たかも知れない。
まるで恋する乙女だなあ、と杏理は自嘲気味に笑った。
しかし、これが恋愛感情ではないことを、杏理はよく理解していた。
顔についた血をティッシュペーパーで拭い取って、枕元のスマホを手に取る。階下にいるであろう母親に現状を伝えるメッセージを送り、既読がつくのを確認することもせず、杏理は目を閉じた。
***
月曜日。
杏理は依然、気怠さを感じながらも通学路を歩いていた。
先週末のどんよりとした天気とはうって変わって、気持ちのいい晴天だ。体調がそれに伴ってくれないのは憂鬱だが、天気も悪いよりはよっぽどいい。
結局、杏理はその後三日間熱を出して寝込んだ。その間はまともに食事も喉を通らず、味のしないお粥を少し食べたくらいだった。
母親が心配して病院にも連れて行ってくれたが、血液検査などをしても異常が見当たらず、風邪という診断を下された。処置といえば解熱剤と吐き気止めの処方くらいのものだった。
とはいえ吐き気そのものは初日で治まったし、軽い目眩と食欲のなさは残るものの、鼻血もあれ以降一度も出なかったので、熱が下がったところで登校することにしたのだ。学校を休んだのは鼻血を出した金曜日と午前授業の土曜日だけなので、授業についていけないということもないだろう。
校門を抜けるときに、杏理は後ろから声を掛けられた。
「おはよう、鴇塚さん」
声音だけで、それが誰だか杏理には分かる。
立ち止まって振り返り、彼女の名前を呼ぶ。
「烏城さん、おはよう」
笑顔を作ったつもりだったが、体調の悪さのせいか、ぎこちないものになってしまった。美麻はそれを敏感に悟ったのか、眉間にしわを寄せた。
「あんまり具合良くなさそうだけれど、大丈夫?」
「あ、うん。ちょっと目眩がするくらい。ただの風邪だし、もう平気だよ」
「そう……ならいいんだけど」
そう言って、美麻は校舎へ向かって歩いて行く。杏理も彼女の横に並んで歩き始める。
「そういえば、傘を返せてないわね。明日は来られるの?」
「多分、大丈夫だと思う……」
確証はないので、歯切れの悪い返事になってしまう。
「じゃあ、明日改めて持ってくるわね」
「うん、お願いします」
下足室で靴を履き替えながら、そんな約束を交わす。
それにしても、こうして美麻と共に登校できることがまるで夢のようで、杏理はふわふわした気持ちになる。美麻の方はまったく気にしてはいないのだろうけど、それでも嬉しかった。
朝からこんなに良いことがあるなんて、三日間寝込む不幸の反動だろうか。占いみたいなものはあまり信じてはいない杏理だが、今日は良いことがあるかもしれないと思ってしまう。
せっかくだから少しだけ勇気を出してみようと、杏理は腹を決めて美麻に訊ねる。
「烏城さん、今日は放課後空いてる?」
「ええ、大丈夫だけど、どうして?」
美麻は不思議そうな顔をする。
「駅前にモンブランが美味しいケーキ屋さんがあるんだけど、一緒に行かない?」
そこは、いつだかに杏理が駅前を散策してたときに見つけたお店だ。味のわりにそこまで有名ではない、隠れた名店である。
「いいわね。わたし、甘いもの好きなの」
「ほんと!?」
まさか二つ返事で誘いに応じてくれるとは思わなくて、杏理は思わず声を大きくしてしまった。断られるだろうと思っていたのに了承してくれるなんて、やっぱり今日は良い日だと噛み締める。
「それじゃあ放課後、約束ね!」
「ええ」
美麻は相変わらず淡々とした口調だったが、それでも杏理は嬉しかった。
浮かれていると、いつの間にか教室に着いていた。
美麻と共に中に入ると、既に教室にいたクラスメートたちからの視線が集中する。《魔女》である美麻と、冴えないいち学生である杏理が連れ立って教室に入ってきたことが余程驚きだったようだ。
美麻は気にしていないようだったが、杏理はこれ以上クラスメートの前で話し掛けるのがなんだか彼女に悪い気がして、そのまま自分の席に向かうのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます