Rain

しえる

夜の子供

第1話

夜は好き。




物心ついた時から、暗闇が怖かった。


なんとなく、闇の中から得体のしれないお化けが襲い掛かってくるような気がして。


『アリゲーター』という古いホラー映画を深夜のテレビで見てしまってからは、自分の部屋のベッドの下に巨大なワニが潜んでいたらといつも怖かった。だから私はベッドから手や足をはみ出さないようにするというオリジナルのルールを幼い自分に課した。もしもはみ出しているときにベッドの下の凶暴化した大きなワニががぶりとかみついてきたら、私の手足を引きちぎって食べてしまうかもしれないから。



闇は私に恐怖心だけでなく、哲学ももたらした。



真っ暗な部屋である夜突然、あまりにも唐突に、「自分もいつかは死ぬんだ」と思いついて、眠れなくなったことがある。確か、小学二年生くらいだったと思う。夜の闇に取り込まれてしまったら、もう二度と朝目覚めることはできない。呼吸が止まったらどうしよう。意識しだすと唾液の飲みこみ方も忘れてしまい、ますます混乱した。



それなのに、中学生になる頃には、闇が好きになっていた。


いろいろなことを考えたり想像したりするのは、夜の静けさの中が一番都合がよいとわかったからだ。私は考えすぎるくらいたくさん考えてしまうような子供だった。


夜の闇は私に、たくさんのことを教えてくれた。想像の中でならば何にでもなることができたし、何でもできた。その点では、私の情緒は夜の闇の中で育てられたと言っても過言ではないかもしれない。



そして「死」を考え始めると、さまざまな人生に興味を持つようになっていた。



家族が寝静まった夜中に、私は自分が生まれるはるか昔の古い洋画をこっそりと鑑賞するようになっていた。中学二年生になる頃には、フランスやイタリアの白黒映画にはまっていた。フェリーニの『道』で号泣し、アヌーク・エーメやブリジット・バルドー、カトリーヌ・ドヌーヴ、エレン・バーキンにあこがれて、ロジェ・バデムやトリュフォー、ゴダールの映画を取りつかれたように見まくった。ハリウッド映画もかじり、オードリー・ヘプバーンやイングリット・バークマン、リタヘイワード、グレース・ケリーやヴィヴィアン・リーにも心酔した。彼女たちが女の生きざまを教えてくれたのだと思う。だからなのか、私にはすでに「かわいい」と言われるよりは「かっこいい」と言われたいという願望が強く芽生えていた。



映像だけではなく、音楽の好みも夜に育てられた。


夜の静寂に、ひとり聴き入る音楽。


生まれて初めて感動したのは、ビリー・ホリデイ。「しびれた」という言葉がしっくりくると思う。私のミューズは彼女とニーナ・シモンとサラ・ボーンだった。日本のアイドルとかには全く興味が持てず、英語の授業中には辞書を片手に彼女たちの歌の歌詞を訳すことに心血を注いでいた。おかげで先生たちからは、私が英語を熱心に勉強しているように見えたらしい。歌のおかげで発音もよかった。


 

早く大人になりたい。そんなことばかり考えていた。



大人になって、好きな世界に行きたい。みんなと同じでなくてもいいと認められる世界に。好きな髪形をして好きな化粧をして、好きな服を着て、好きなことをする。制服とか学校とか団体行動とか集団心理ピアグループプレッシャーとか関係なく、自由になりたい。そんなことばかり考えていた。毎日感じるある種の焦燥感。早く、大人になりたい。一日でも早く。



映画や歌で到底体験しえないいろいろな人生を知るようになると、もっと知りたくなって昼も夜も文学にはまり込んだ。


高校一年生になると、学校の図書館の本を片っ端から読み漁った。一番はまり込んだのはフランス文学だった。人生の矛盾や不条理、悲しみの昇華法ややり過ごし方があふれていて、私の知識欲を大いに刺激した。なかでも心酔したのはサガンとデュラス。夜が明けるまで読みふけることも多く、すっかり寝不足の不健康な子供になっていた。私はサガンのデビュー作の早熟な主人公のまねごとを始め赤ワインやたばこを覚えたけれど、常習ではなかったし俗に言う不良になったわけではなかった。成績は常に上位だったので、人前ではするなとしか両親は言わなかった。


大学に入ると、一人暮らしをするようになった。私は夜に外出することを覚え、アルコールと香水のにおいの漂う夜に慣れていった。一度も強制されてどこかへ行ったことはない。気の合う人たちと出会い、好きな空間に身を置く。夜だけしか会えない、魅力的な知り合いもたくさんできた。いろいろな言葉、いろいろな文化、いろいろな考えの人々。夜は私の社交場となり、私はその人口の光あふれる中で水を得た魚のようにいきいきとして、学生ながら仮の「夜の住人」であることを心地よくさせた。


 

それでも、時々、夜は私を不安にさせることもある。これは虚構だ、お前はこの中でずっと生き続けていくことは危険だと、無言の警告を与えてくる。

 

社会に出て働くようになってずいぶん経った今では、たまに夜に外出する程度だが、それでも飽きることもおぼれることもなく適当にうまく泳いでいると思う。


 

結局のところ、私は夜が好きなのだと思う。






「なんですか、そのはがき?」


 

フルートグラスに黄金色のシャンパンを注いでカウンターバーの春香の前に美しい長い指で置きながら、若いバーテンダーは彼女が手にしているはがきを一瞥して片方の眉をつり上げる。


 

グラスから離れる長い指をぼんやりと見つめながら、春香はやわらかく苦笑する。


「同窓会のお知らせ。高校の時のね。実家の母が荷物に入れて送ってきた。ミカにも持ってくるように言ってあるの。一緒に記入しようと思って」


「へぇ」

 

バーテンダーは片眉を吊り上げていたずらっぽい笑みを浮かべる。


「ちょっと、リョウ。今、私のトシを逆算して想像しようとしたんでしょう?」


「え、いや、そんなことは」


「十四年。いつの間にか、十四年経ったのよ、十七歳だった時から」


「おれは……八年ですよ」


「それって、嫌味?」


「あ、いや、春香さんはイケてます」


 

必死に首を横に振るバーテンダーに春香はくすりと笑う。





夕闇が降りてきてまだ間もない時間帯の店内は、春香のほかに客はまだ一人もいない。


夏の夜は遅めに始まる。


高い天井には木製のファンがゆっくりと回っている。通りから一本路地を入ったコロニアルスタイルの地下のバーは、まるで隠れ家のようだ。


モルトウィスキーのようなこっくりとした色のやわらかな明かりが、薄暗い店内をぼんやりと照らす。


大声を出すような客はいない。


春香は大学のころからこの店の常連だった。もっとも、そのころは目の前のバーテンダーは中学生だったから、まだここでは働いてはいなかったが。彼は五年ほど前から働いている。シェイカーもろくに振れなかったバイトの大学生のころから、春香は彼を知っている。

 

腕時計を見る。七時をニ十分ほど回ったところ。




「ミカさんと待ち合わせですか」


 

グラスを磨きながら首を傾げるバーテンダーに春香は頷いた。


「たぶん、八時くらいでしょうね。外資系は時差があるから。どうせ遅れてくるから、先にのんびりと一杯やっておこうと思ったの」


「ミカさん、同じ高校でしょう? あのひとが高校生だったなんて、想像できないな」

 

バーテンダーは春香の手元のはがきを見た。


「かわいかったよ、地味地味で。私も地味地味だったけど。たぶん、クラスでは印象薄かったんじゃないかな。気配消してたしね。それにね、今夜はもう一つ、特別」


「うん? どっちも、誕生日じゃないでしょう? ミカさん、また昇進したとかですか?」


春香は寂しそうに首を横に振った。


「ううん。高校の同級生の、四十九日なの」


若いバーテンダーは一瞬目を見開いた。そして目を伏せるとそれ以上は何も訊かずに春香のそばをそっと離れた。






海の見える教室。



小さな港町の、小高い丘の上の高校に私は通っていた。


そのころは、本ばかり読んでいて、高校生活を謳歌するよりも早く卒業して田舎を出たいと、そればかりを考えていた。早く卒業したくて早く自由になりたくて、ひたすら勉強ばかりしていたように思う。




十七歳。


高校三年生になったばかり。



 

学校生活にはあまりこれといった記憶はない。誰かを好きになったとか、なにかが名残惜しかったこともない。


でも、深く焼き付いて消えない思い出ならある。


いつまでも心の中に熾火おきびがくすぶっていて、決して消えることのないような思い出が。

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