第7話 子爵邸での一件

 カフェー・ピエットで裕也ひろなりたちと会ってから二週間が経った。

 今日は頂いた招待状を手に夜会へと向かう日。

 会場となる桜庭おうば家が洋館ということもあり、洋装に身を包んだ雅月あづきは、夕暮れ時の庭に翔和とわを見つけると、遠慮がちに声を掛けた。


「翔和? 準備できました…よ?」


 一足先に着替えが済んでいた彼は今、池を泳ぐ鯉に熱心に餌をやっている。


「また鯉に餌ですか? あんまりあげすぎると太っちゃいますよ?」

「ん? でも食べたいものを我慢するのはよくな……わ、かわいい」


 すると、癖のある黒髪をほんの少し撫でつけ、燕尾服に白手袋まで嵌めた翔和の、紳士然とした姿を見つめる雅月に、彼は優しく笑いかけた。

 途端、傾いた餌入れから餌がさらさらと零れ落ち、水面が音を立てて揺れ始める。


「……」


 この家に来たときから思っていたけれど、翔和の甘やかしにより、池の鯉たちはこういうあやかしなのではと疑いたくなるほどに丸い。

 毎日甘味を摂取しようがちゃんと引き締まっている翔和とは大違いだと思いながら(先日、半裸でうろつくお風呂上がりの彼を不覚にも目撃してしまったのだ)雅月は息を吐いた。


「過剰摂取に良いことはありません。それより、自動車の準備ができたそうです」

「分かった。……あ、ちょっと待って」

「……!」


 と、褒め言葉にも礼を言いつつ踵を返す雅月に、翔和は思い出した顔で呼び止めた。

 そして衣嚢ポケットから何かを取り出し、彼女の首元にすっと手を回す。途端、間近に覗く青みがかった黒い瞳と甘い香りに、雅月の瞳が大きく見開かれた。


「はい。紅玉の首飾りだよ。うん、似合っているね」

「……! あ、い、いえ、こんな高価なもの……!」

(びびびびっくりしたわ、とんでもないことをされるのかと! いえ、翔和に限ってそれはないわよね。でも、びっくりしたわ……)


 だが、呑気な笑顔で褒める翔和の一方、突然の出来事に、雅月は動転しながら口ごもった。

 彼に心を許していこうと決めたせいか、はたまた相変わらず親しげに接してくる距離感故かは分からないけれど、あまりにも近い相貌につい変なことを考えてしまった。

 この甘党がそんなことをするわけもないと、分かっていたはずなのに。


「いいから。華族たちの夜会できみに何かあったらいけないし、お守り代わりの加護を紅玉に~って、精霊木に願掛けしておいたからさ。僕は一旦鯉の餌、片してくるね」

「……っ」





 洗練された燕尾服姿と言い、不覚にもどきどきしてしまった自分を不甲斐なく思いながら、翔和のエスコートを受けた雅月は、彼と共に桜庭子爵家へとやって来た。

 美しいアールヌーヴォー建築の洋館には、新聞社を経営する子爵をはじめ、作家である裕也の友人と思われる政治家や文化人、そのご令嬢らが集まり、とても華やいだ様子だ。


「……翔和、私、やはり場違いではないでしょうか」


 すると、シャンデリアが輝き、ご令嬢や紳士が行き交う会場で、雅月は困ったように呟いた。立ち振る舞い自体は堂々としているものの、周囲に目を遣る彼女の瞳には、わずかな困惑が滲んでいる。


「どうして? 全然見劣りしてないよ?」

「いえ、そうではなく。没落華族の身ではやはりこの場に不釣り合いですし、何より翔和と一緒という時点で視線が……。社交界で不用意な噂が立たぬよう私は……」

「なんだ、そういうこと? 大丈夫、言いたい奴には言わせておけばいいのさ。それよりあっちに甘味があるよ。洋はもちろん和菓子もあるって。楽しみだな」


 だが、翔和の立場に気を遣い、小さくなる雅月をよそに、彼は会場の端にある甘味の円卓へと誘った。

 どうやら翔和にとって社交界での噂など、甘味の前では些末なことらしい。

 それはそれで大問題だと思うのだが、大丈夫と言われた手前何も言えずにいると、彼女の目の前に大量の甘味が見えてくる。


「まさにより取り見取り。どれからいただこうかな~。でもその前に紅茶が欲しいよね。清酒もいいけど、甘味には紅茶が合うよ」


 そう言って笑う翔和の目の前にあったのは、和洋折衷様々な甘味だった。

 甘党にとってはこれ以上ない幸せな円卓に、翔和は今にも歌い出しそうな声音で目を輝かせ、周囲に視線を走らせる。

 各円卓には様々な種類の酒が用意されているものの、流石に紅茶はないようだ。

 彼と一緒になって辺りを見回し、それを認めた雅月は、プチケーキをつまむ翔和に言い出した。


「翔和もお酒を飲まれるのですね。ならば私が紅茶をお願いして参ります」

「うん少しね。それより一緒に行くよ? 雅月一人じゃ心配だもの」

「このくらい一人で平気です。私、子供じゃありませんのよ?」


 翔和の進言にわずかにむくれ、給仕を見つけた雅月は、彼を制すると靴を鳴らし歩き出した。

 途端小豆色の長い髪がふわりと揺れ、幾人かが振り返る。

 その後ろ姿をビスケットと共に見送った翔和は、


「そういう意味じゃないんだけどなぁ……」


 無意識に呟くと彼女の帰りを待った。





「素敵な甘味ですね。貴公子様も甘いもの、お好きなのですか?」

「……!」


 雅月が傍を離れ数分が経った。

 仕方なく小物をつまみながらひとり待っていた翔和は、華美な赤色のドレスに身を包んだ少女の声に目を瞬いた。

 気付くと彼の横には黒い釣り目に派手な化粧を施した少女がいて、一心に翔和を見上げている。


(ああ……雅月がいないから変なのが来ちゃったじゃないか)

「そうだね。きみも食べたらどうだい?」


 だが、少女の声掛けにひとりごちた翔和は、穏やかな笑みを見せると淡白な調子で呟いた。

 これまでも翔和の相貌や御代家の財産に惹かれ、気を惹こうとするご令嬢は少なからずいたものだが、彼は誰になびくこともなく一分と待たずに黙らせている。それこそが甘味にしか興味がないと言われる所以ゆえんなのだが、その話を知らないのか、少女はなおも食い下がって、


「甘味も素敵ですけれど、私は甘味が好きな貴公子様にも興味がありますわ。どうかあちらでお話しませんこと?」

「………」


 上目遣いに媚びを乗せ、少女は翔和を誘うように手を伸ばす。

 しかし翔和を相手にしたいなら、この選択は逆効果と言えるだろう。なぜなら彼は、最優先事項である「甘味の堪能」を阻害してくる人種が一番苦手なのだ。

 もちろん一緒に甘味を楽しんだり、ただ傍にいてくれる人を嫌だとは思わないけれど、大抵の女性は甘味よりも、翔和との会話を優先したがる。


 それが何より嫌なのだ。


 誰も甘味への情熱を理解してくれないのなら、せめて黙っていて欲しい。どうしてみんな、雅月のように穏やかに傍にいてくれないのだろう。

 そう思った途端、無性に彼女に会いたくなった。





「お久しゅうございますね、高取たかとり様。斯様かような場所でお会いできるとは光栄ですわ」


 同じころ。

 紅茶を待つ雅月は、声を掛けてきた幾人かの知己と共に他愛のない会話に興じていた。

 どうやら今回の夜会には、帝都に住む多くの華族たちが招かれているようで、雅月の父と交流のあった当主やご子息の姿も窺える。

 だがその中の数人、さらに途中で加わった裕也も含め、親しげな視線を向けてくる彼らと挨拶を始めた矢先、不意に頭上から不機嫌そうな声が聞こえてきた。


「――どこが一人で平気なんだい? 変な虫に集られているじゃないか」


 その声に驚いて振り返ると、雅月のすぐ後ろに眉根に皺を寄せた翔和が立っていた。

 どうやら少女から逃れた矢先、男どもに囲まれている雅月を見つけ、一目散に飛んできたらしい。

 しかし、そんなことを知る由もない雅月は、首を傾げると不思議そうに言った。


「翔和? 紅茶でしたら、今淹れてもらっていますので、もう少々お待ちくださいませ」

「うん。紅茶も大事だけれど、やっぱり一人で行かせない方がよかったよ。ヒロもここで何をしているんだい?」


 おもむろに彼女を抱き寄せ、先日釘を刺したはずの裕也に、翔和は圧のある笑顔で問いかけた。その暗に「雅月は僕のものだから」と訴えるような視線に、しかし裕也は笑って言う。


「怒るな翔和。ただ挨拶をしていただけだ。それに変な虫とは失礼だぞ? 高取殿も谷川やがわ殿も困っているじゃないか」

「ふぅん。あなた方も雅月の知り合いで?」


 翔和の圧にも全く堪えない様子で笑う裕也はさておき、ようやく二人にも視線を向けた翔和は、静かにそう呟いた。

 高取と谷川と言えば、どちらも武家出の子爵家で、それなりに名の知れた家柄だとは記憶している。もっとも社交に興味のない翔和にとっては知らぬ相手だが、雅月とはどんな関係だろう。


「え、えっと、天宮あまみや家とは父の代から交流があり、雅月様とも縁付きの打診をされて……」

「私もそうです。尤も子爵は雅月様の縁付きに相当拘っておられましたので、女学校の卒業までは、結論が保留となっておりましたが……」


 すると、恐る恐る慎重に、富豪と名高い伯爵家の機嫌を損ねないよう、二人は正直にそう告げた。

 確かにそこまで縁があったなら、雅月が会話を受け入れるのも理解できる。

 だが、分かっていながらも、どこかもやもやした気持ちを抱えた翔和は、彼らを見つめたままハッキリと宣言した。


「なるほど。かつて縁があったと。それは失礼した。でも雅月は今や僕のものだ。勝手に近付かれるのはあまり気持ちの良いものではないよね」

「……!」

「誰にも渡さないよ、雅月。きみは僕のものだ」


 口説くような甘い口調に意思を乗せ、翔和は周囲が目を見張るその眼前で、額にそっと口づけた。


「ひゃっ!?」


 柔らかい唇の感触がして、突然限定された視界に事態を悟った雅月は一気に頬を赤らめる。

 翔和は平然としているけれど、なぜ、今ここで、口づけを……!?


(な、なんてことを……っ! え? と、翔和って女の子に興味がないのよね……!?)


 額に残る甘い余韻に戸惑いながら目を瞬いた雅月は、思わず心の中で絶叫すると、困ったように立ち尽くすのだった。

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