第8話 お坊ちゃまの初スーツ

「す、すみません、ここでスーツを作れるって聞いて…」


店のドアをおずおずと開けて入ってきたのは、どこか頼りなさげな若い青年だった。彼は一目でそれとわかるお坊ちゃま風の格好をしており、綺麗に分けられた髪型ときちんと整えられた姿が、まるでお人形のようだ。


数子は彼を見て、思わず眉をひそめた。


「アンタ、ちょっとこの店には似合わないね。お見合い写真の撮影か、パーティーの途中かい?」


青年は顔を赤くしながら首を振った。


「い、いえ、違います…。実は僕、初めてスーツを作ることになって、それで…どうしたらいいかわからなくて」


「初めてだって? 今までスーツを持ってなかったのかい?」


「はい…。僕、ずっと実家暮らしで、父も母も僕にスーツなんて必要ないって言って、着せてもらえなかったんです。でも、今度、友達の結婚式に出ることになって…それで、どうしてもスーツが必要なんです」


数子は驚いた表情を浮かべた。


「結婚式ねぇ…。それじゃあ、アンタにとっては一大イベントだね。でも、お坊ちゃま風じゃあ、普通のスーツを作っても面白くないか」


青年は困惑した顔で数子を見つめた。


「え? 普通のスーツじゃ、ダメなんですか?」


数子は軽く笑いながら、青年の肩に手を置いた。


「アンタ、初めてのスーツを着るんだろ? だったら、普通のスーツじゃなくて、自分らしさが出る特別な一着にしなきゃもったいないよ。どうだい、ちょっと冒険してみないか?」


「ぼ、冒険ですか? でも…僕、あんまり派手なのは怖いし…」


「ふん、派手にしろとは言わないさ。でも、せっかくの初スーツなら、少しぐらい冒険した方が面白いだろ?」


青年はしばらく考え込んだ後、意を決したように頷いた。


「わ、わかりました! 数子さんにお任せします。僕に似合う、特別なスーツを作ってください!」


数子は満足そうに頷き、青年の体のサイズを測り始めた。細い腕、痩せた肩、少し猫背気味の姿勢。それを見て数子は、ふと微笑んだ。


「アンタ、姿勢が悪いねぇ。スーツは身体のラインが大事だから、背筋を伸ばして堂々とすること。これもスーツの着こなしの一つだよ」


青年は顔を赤らめながら、慌てて姿勢を正した。


「す、すみません…。ずっとパソコンばかりやってて、姿勢が悪いってよく言われるんです」


「パソコンかい。ま、今どきの若者はみんなそんなもんだ。でも、これを機に、少し背筋を伸ばしてみな。スーツを着た時、姿勢が良ければそれだけで印象が変わるからね」


数子はそう言いながら、青年のサイズを丁寧に測り終えた。彼女は少し考えた後、濃紺の生地を選び、光沢のあるシルバーの刺繍糸を取り出した。


「よし、これでいこう。シンプルだけど品があって、どこか遊び心のあるスーツだ」


数子は早速、ミシンに向かって作業を始めた。シルエットは青年の細身の体に合うように調整し、肩や腰のラインを強調してスタイルよく見せる。さらに、内ポケットには小さな刺繍で彼のイニシャルを入れ、遊び心を演出した。


「初めてのスーツは、着る人の自信を引き出すものじゃなきゃね」


数子はそう呟きながら、最後の仕上げを終えた。数日後、青年が再び店に現れると、数子はスーツを手渡した。


「さあ、これがアンタの初スーツだ。着てみな、気分が変わるよ」


青年は緊張した面持ちでスーツを受け取り、更衣室へと向かった。しばらくして、彼はまるで別人のような姿で姿を現した。濃紺のスーツは彼の体にぴったりとフィットし、少し不安げだった表情も、どこか自信に満ちたものに変わっている。


「これ…本当に僕ですか? すごい…! なんだか自分が大人になったみたいです!」


数子は満足そうに頷いた。


「そうさ、アンタはちゃんと大人の男だ。スーツを着てるからって、ただの着飾りじゃなくて、その中身も堂々としなきゃダメだよ」


青年は鏡の前で自分の姿をまじまじと見つめ、何度もポーズを変えてみた。


「本当にすごい…! これで結婚式にも胸を張って行けます! 数子さん、ありがとうございます!」


「ま、あんたの初めてのスーツを作るってのは、私にとっても特別な仕事だったからね。でも、これで安心しちゃダメだよ。これからは、もっといろんなスーツを着こなせるように、自分を磨かなきゃね」


青年は真剣な表情で頷いた。


「はい、これからも頑張ります! 僕、スーツを着ることにこんなにワクワクするなんて思ってもみませんでした。これからは、もっと自分に自信を持って生きていきます!」


数子は微笑みながら、彼の肩を軽く叩いた。


「その意気だよ。スーツは自分を飾るためじゃなく、ありのままの自分を見せるためのものだからね。自分らしく、堂々と生きること。それがスーツの本当の意味さ」


青年は感謝の言葉を繰り返しながら、晴れやかな表情で店を後にした。数子は彼の後ろ姿を見送りながら、ふっと息をついた。


「若いってのは、いいもんだねぇ。何もかもが初めてで、どんな小さな変化にも喜びを見つけられる」


彼女は再びミシンの前に座り、微笑んだ。


「さあ、次はどんな客が来るのやら。スーツ作りも、人の成長を見守る仕事みたいなもんだね」


数子の店には、今日も新しい物語が生まれようとしている。笑いと感動のスーツ作りは、まだまだ続いていく。

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