石喰み
えんがわなすび
お守りのこと
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本日最後の電車が頭上を駆け抜けていく余韻を頭の隅っこに掠めながら、心の中ではどうしようという感情と、もうどうでもいいという感情が混ざり合っていた。
終電を逃すことは、この仕事に就いてから珍しくなくなった。それでもすぐにタクシーを拾わずにこうやって高架下の薄暗いこの場所をとぼとぼ歩いているのは、きっと疲れすぎていたんだと思う。
このご時世に当たり前みたいに残業する社風。昭和の泥沼から抜け出せない頭の固い上司。へらへらしているくせに自分より評価の良い同期。どれももう嫌になった。
駅から離れていくにつれて喧騒もなくなり、深夜の高架下という暗い空間は今の自分にはむしろ安心できるくらいだった。何の音もしない、犯すものがないその道はズタズタに裂かれた心には癒しに違いなかった。
「どうするかな……」
溜息と一緒にそんな言葉が出た。
どうするかなんて頭では分かっていた。タクシーを拾って、家に帰って、飯を食って、風呂入って寝る。そうしたらまた同じ朝が来て仕事に行ってぼろぼろになる。無限ループだ。
それかもう一つ。もういっそ全てを終わらせて――
「おにいさん」
目の前が一層暗くなっていく瞬間、静寂だった空間にしゃがれた音が紛れ込んできた。びくりと体が跳ね、音のした方に視線を彷徨わせると、高架下の闇に紛れるように更に濃い闇の塊みたいなものがもそりと動いた。
「ひっ……」
「あれぇ、驚かせちまったかねぇ」
「あっ、え……人……?」
もそりと動いたものがゆっくりと瞬きをする。濃い闇のようなそれは布切れを纏った老人だった。しわくちゃの顔面に濁った目がギラリと光っている。
こんなところに人がいるとは思っておらず、不意打ちのようなそれに沈みかけていた心臓がばくばくと早鐘を打っていた。けれどよく考えると高架下は雨風を防げる場所だ。浮浪者がいてもおかしくない。咄嗟に物乞いかと思い、顔が引き攣る。人に与えられるものなんて、自分は何も持っていない。
「すまないねぇ。でも、警戒しなくてもいいよ。物乞いなんかでもない」
視線を逸らし、早々に踵を返そうとした足が止まる。こちらの心を読んだようなその言葉にぞわりと鳥肌が立った。思わず振り返ると老人は――よく見ると老女は闇の中で不気味に笑っている。
「こう見えて私は占いをやっててねぇ。おにいさん、あんたは随分つかれているね。仕事も人間関係も締め付けられて、もうどうにもならなくなってる」
その時、自分にはこの老女が天から遣わされた救いの象徴に見えた。誰にも言えない、誰にも分ってもらえない気持ちに差し伸ばされた光に見えた。知らず、足が一歩踏み出る。
「その状態でよく頑張っている。でもねぇ、もう危ないところまで来ているねぇ」
「どうすれば……どうすればいいんですか……」
靴底が擦った小石がじゃりっという音を立てて闇に消える。いつの間にか手を伸ばせば触れるほど自ら老女に近づいていた。もそりと動く彼女は、自分の背丈の半分程だった。その前に膝をつく。
目線の高さに合った彼女の口から空気と共にひひっという笑みが零れた。布切れの間から枯れ枝のような腕がこちらに伸ばされる。
「これを」
「これは……?」
「お守りさねぇ」
あんたを守るための。
そういって、彼女は自分の手にそれを握らせた。
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