第2話「感情がお金に」



「綺麗~、ありがとう! 定臣君!」


 希花の細く長い薬指で、指輪にはめ込まれた白い宝石がキラキラと輝く。いつも家事やアルバイトを頑張ってくれているお礼にと、僕はフィーリングを彼女に贈った。見た目は一般的な指輪だから、彼女は警戒することなく喜んで受け取ってくれた。


 ただ、昨日魔女が言っていたことは本当なのだろうか。






 バリンッ


「んもう! いつになったら分かるの!!!」


 またしても希花がグラスを床に叩き付ける。根は優しい女の子なんだろうな。大声で怒鳴り散らすか、物を破壊して轟音を出すかの二択しか、怒りを表現する方法がない。可愛らしさを感じながらも、僕は呑気な思考をすぐに投げ捨てる。体が震えている。どこかで恐怖は感じているのだろう。


「外で食べる時は連絡してって言ってるのに……私、ご飯作って待ってたんだよ!」

「ごめん……サークルの先輩に強引に誘われて……」

「何!? 私のこと大切じゃないの!?」

「そ、そんなことないよ! でも、付き合いが悪い人って思われたくないし……」


 僕もつい悪い癖が出てしまう。彼女の怒りを抑え込もうとするあまり、つい言い訳を並べて抵抗する。こんなことをしても火に油を注ぐだけだと分かっていながら。完全に何度も連絡を怠る自分の方が悪いのに。


「もう知らない!!! 定臣君なんか……あっ……」

「のっ、希花……?」


 すると、泣き怒る希花の動きが突如として制止する。喉に何かつっかえてしまったように、彼女の怒鳴り声が途切れる。そして微かに聞こえる弱々しいうめき声。悪魔に生気を吸いとられているようで、とても苦しそうだ。


「あっ……」


 僕は視線を下ろした。希花の付けている指輪が鮮やかな赤い光を放っている。眩しすぎないほどの優しい光だった。フィーリングが発動したんだ。魔女の道具がその効果を発揮したんだ。


「はぁ……はぁ……」

「の……希花? 大丈夫?」

「う、うん……大丈夫……」


 指輪の光が弱まり、希花は苦しみから解放されてぐったりとその場にしゃがみこむ。僕は心配そうにそばに駆け寄る。どこにも外傷は見られない。どうやら電気や毒を流されたとか、そんな物騒な現象が起きたわけではなさそうだ。ただ、痛みは伴わなかったものの、彼女の額に少々汗がこびりついていた。


「ごめん、定臣君……ちょっと怒りすぎた。定臣君も友達付き合いとか大変なのに、一方的に怒鳴り付けちゃって……」

「ううん、僕の方こそちゃんと連絡しなくてごめんよ」


 先程までの希花の怒りは綺麗に消えており、彼女は僕に謝ってきた。僕は希花の肩にそっと手を乗せる。つい数秒前まで怒りが確かに残っていたことを示すように、彼女の体から若干暖かみを感じた。だが、違和感を抱いていない様子から、どうやら指輪の効果が働いたことには勘付かれていないようだ。


「残りは明日の朝ご飯に回すね」

「ああ」






 僕は風呂に入るために、自室へパジャマを取りに行く。クローゼットを開けてパジャマを用意する前に、僕は財布にしまっていたキャッシュカードを取り出す。昨日、魔女から借りたもう一つのアイテムだ。


「きゅっ、9046円!?」


 キャッシュカードに付いている小さな液晶パネルに表示された数字を見て、僕は驚愕の声を上げた。9046という四桁の数字。これは、僕の持っている口座に振り込まれたお金の額を示している。

 目の前の現実が信じられなかった。低賃金のアルバイトで身を粉にして働く学生にとって、一瞬でこの額のお金が手に入ることなど、幸運以外の何物でもない。偶然先輩に飲みに付き合わされ、希花に夕食は要らないという連絡を忘れたからとはいえ、こんな大金を受け取ってもいいのだろうか。


 このアイテムの力は、本物だ……。


「希花を怒らせれば、お金が貰える……」






 魔女が提供してくれたフィーリング。これは、身に付けた人間の感情を抑え込み、感情の強さに応じてお金に変換する道具だ。そして、変換されたお金は指定された口座に振り込まれ、付属のキャッシュカードで残高を確認したり、お金を引き出したりすることができる。

 魔女はこの二つのアイテムを手に抱え、含みのある笑みで僕にそう説明した。お試し期間で数ヶ月ほど無料で貸してくれるという。






「うっ、うまい!!!」


 僕はキャッシュカードで引き出した現金を握り締め、長い間行っていなかったステーキレストランへと一人で突っ走った。スペシャルデミグラスハンバーグステーキセット……舌を噛んでしまいそうな長い名前だけど、とにかく僕はこの肉を再度味わってみたかった。

 平均的な賃金を得ている人にとっては、手を伸ばせばすぐに楽しめるものだろう。だが、僕はこの日本を代表する貧乏学生。油まみれの上級ステーキにかぶり付く余裕なんて、これまでの僕には更々なかった。


「最高だぁ……本当にこれが食べられるなんて……」


 希花の怒りから変換したお金で、僕は思う存分ステーキの味を噛み締めた。噛む度に肉汁と旨味がにじみ出てくる。僕の瞳からも対抗するように涙が溢れて出てきた。




“美味しいね! 定臣君!”


 ふと、口に運ばれるフォークが、希花の優しい声で止められた。僕は思い出した。この店は今日初めて来たわけではない。過去に希花と一度訪れたことがある。しかもここは、彼女と知り合って初めて外食を共にした店だった。

 当然スペシャルセットなんか注文するほどのお金もなくて、二人でミニサイズのハンバーグを頼んだんだっけ。それでも彼女が美味しそうに頬張っていた。あの時の彼女の笑顔が、今になって急に甦る。


「……」


 彼女を誘って来ればよかったかな。この店は僕達にとって、ある意味一番の思い出の場所でもある。彼女は知らないのだ。その思い出の場所で今、僕だけが豪華な料理を一人で楽しんでいることを。


 またお金を稼げば一緒に来れる……よね。








「定臣君、いい加減にしてよ!!!」


 翌日、またしても僕は希花の怒りを浴びせられた。今日のベランダの花の水やり当番は僕だったが、うっかり水やりを忘れてしまい、昼間の強い日差しで花がしおれかけていた。今や希花の怒鳴り声の勢いで花びらが吹き飛ばされてしまいそうだ。


「ごめん……うっかり忘れて……」

「うっかりで忘れていいと思ってるの!? 同棲始めてから一緒に育てようって約束したのに、その約束なんてどうでもいいの!?」

「そうじゃないけど……」

「もう、定臣君なんか……あっ!?」


 希花の怒りが遮られ、指輪に全て吸いとられていく。そして、彼女は落ち着きを取り戻す。二度目だけど早くもこの光景に慣れてしまった。明らかに怒りの感情が失くなってしまっているが、自信は指輪のせいだと気付けないところが不思議だ。


「ごめん……また……」

「いいんだよ。僕の方こそ悪かった」


 ごめん、希花。今日は僕が水やり当番であることを、本当は分かっていた。希花の怒りを爆発させようと、大金を手に入れようとわざと怠ったのだ。罪悪感を影に隠すように、僕は両腕で希花の小さな体を抱き締めた。

 後でキャッシュカードを確認すると、口座には7980円振り込まれていた。普通の人間の怒りなら大した強さではないが、情緒障害を抱えた希花であれば莫大な強さを誇る。そんな彼女だからこそ、振り込まれる金額も規格外だ。


 このお金で次は何をしよう……。




「希花、好きだよ。ずっと一緒にいようね」

「もう……どうしたの、急に」


 希花が嬉しそうに僕に身を寄せる。僕は彼女の左手をぎゅっと握る。薬指にはフィーリングが小さな輝きを放っている。このアイテムがあれば、僕の人生は一変する。希花には悪いけど、貧乏な生活から脱却するためには利用させてもらうしかない。


「ううん、何でもないよ」


 僕は希花に精一杯微笑みかけた。きっと今の僕の笑顔は、水やりを怠ってしおれた花よりも醜いのだろう。


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