感情勘定

KMT

第1話「壊れた彼女」



      KMT『感情勘定』



 僕は床に散乱した皿の破片を慎重に拾い集める。彼女は僕に対する怒りを床にぶちまけ、トイレに閉じこもってしまった。こうなってしまったら、最低2時間は出てくることはないだろう。


希花ののか、僕が悪かった。次から帰りが遅くなったら、ちゃんと連絡するから」

「……ほんと?」


 希花がトイレのドアを開け、ゆっくりこちらを見つめてくる。よかった。今回はそんなに長くは続かなかったようだ。しかし、怒りの感情に身も心も奪われ、子供のように拗ねる彼女の特性は、正直しんどい。


 それが僕の恋人、菰江希花こもえ ののかだ。




 彼女との出会いは、確か昨年の4月頃だった。当時、僕は土宮学園大学とみやがくえんだいがくに通っている大学2年生だった。当時は漫画家を目指していて、講義中にもよく漫画を描いていた。何度教授に見つかり、叱責されたことだろう。

 だが、特に勉強したいこともやりたいこともない僕だ。周りがこぞって進学すると言い出したことによる、焦りの大学受験だった。

  

 ひとまず適当な大学に入学し、一人暮らしを始めた。人並みに講義を受けて単位を獲得していき、ある程度自由な時間を確保できた。そこで、小学生の頃に漫画にハマっていたことを思い出し、実際に自分でも描き始めたというわけだ。

 当然、興味本位で始めた素人が、それで食っていけるほど世の中は甘くない。当初は本気で目指そうと考えたが、コンテストにかすりもしない自分の才能に絶望し、プロへの道は諦めた。


「……」


 それでも今も趣味として描き続けてはいる。夢も現実も曖昧になった僕には、趣味に生きるしか道が残されていなかった。当然、友人なんて輝かしいものはできやしない。ただひたすら孤独の世界をさ迷った。そんな生きる屍のような存在の僕を、大学の連中は嘲笑う……ように見えた。




「……ぷぷっ」 


 そして、彼女もまた笑っていた。でも、明らかに他の連中と違うのは、彼女の笑みには邪悪な心が宿っていないことである。なぜなら、彼女の腕には僕が描いた漫画が握られており、彼女の高らかな笑い声に対し、僕の耳が心地よさを感じているからだ。


「あははははっ、これ、本当に樋口ひぐち君が描いたの? もう……腹がよじれて……ぷふっ、あははははっ!!!」


 偶然漫画を入れていたトートバッグを講義室に置き忘れ、気付いた彼女がそれを読んでしまったというのが経緯だ。慌てて取りに戻った時には、既に笑い転げている彼女がいた。

 ここまで笑ってくれた人は初めてだ。何かに取り憑かれたとしか思えない過剰な反応に、僕は唖然としてしまった。僕が考えたギャグ展開が誰かのツボにはまるなど、想像もできなかった。入選しない漫画など価値のないものだと思っていた。

 

「そうだけど、えっと……」

「はぁ……はぁ……あ、ごめんごめん、勝手に読んじゃって。別に馬鹿にしてるとかじゃなくて、本当に面白くてつい……」


 彼女に侮辱の意図がないことくらい、言われなくても分かっている。勝手に漫画を読むのは非常識だが、それを問い詰める前に感激してしまった。誰にも認知されることのなかった僕の才能が、誰かに伝わったことが嬉しくてたまらなかった。


「えっと、私、菰江希花こもえ ののか。あなたは樋口……」

定臣さだおみ樋口定臣ひぐち さだおみ……」

「よろしくね、定臣君!」


 初対面から名前呼びで距離を詰める彼女と、僕は秒速で知り合いとなった。






 そこから恋人の関係へ飛躍したのは、そう遅くはなかった。彼女はよく笑い、よく泣き、よく怒った。天候のように目まぐるしく変わる彼女の表情に、単純な人間の僕が惹かれてしまうことは必然だった。


 僕らは「せーのっ」で線路に飛び込むように恋人同士になった。


「私、定臣君と出会えて毎日幸せなんだ」

「僕も、希花と一緒に暮らせて楽しいよ」


 だが、同棲を始めるまで恋仲が発展するとは思わなかった。僕はかつて住んでいたアパートを引き払い、希花が住んでいた高層マンションに移った。元々実家も貧乏で、家賃を払えるかどうか危うい状況の中で契約したアパートだ。

 住居選びに尽力してくれた両親には申し訳ないけど、希望も絶望も構わず運命を共にすると決めた僕の心は、完全に彼女に奪われていた。




 そんな幸せにヒビが入り始めたのは、一体いつからだろうか。僕の平穏な日々を破壊するかのように、希花の感情が増幅し始めた。


「定臣君! 靴下は脱ぎっぱなしにせずに、洗濯機に入れてって言っておいたじゃない!」

「ご、ごめん、慌てて着替えてたんだ。バイトの時間に間に合わなそうだから……」


 土砂降りの中、傘も刺さずに最寄りからマンションへと戻った。バイトの時間に遅刻しそうになり、慌ててずぶ濡れの靴下を脱ぎ散らかしたまま着替え、外に出てしまった。後から帰ってきた希花がそれに気付き、怒りが爆発した。


「そんなの言い訳にしかならないじゃん! いつもそう! 都合が悪くなると言い訳ばっかり!」

「ちょっ、たかが靴下くらいでそんなに……」

「たかがじゃないでしょ! 大体定臣君はいつもずぼらなんだよ! 洗濯する私の身にもなってよ!!!」


 怒りに身を任せながら、ズカズカと僕に歩み寄る希花。彼女の怒鳴り声が僕の耳の鼓膜を突き破ろうとする。ここまで喚いてくると隣の部屋にまで聞こえてしまいそうだ。彼女は本気で怒ると手が付けられない。


「定臣君の馬鹿ぁぁぁ!!!」


 バリンっ!


「お、おい!」


 希花はあまりの怒りに我を忘れ、食器棚に置かれていた皿を振りかざし、思い切り床に叩き付ける。当然、皿は粉々に砕け散り、細かい破片が床に散乱する。彼女はそのままリビングを飛び出し、トイレの個室に飛び込んで鍵をかけた。




「……」


 これが希花の本性だった。彼女の両親から詳しい事情を聞いたところ、彼女は高校生の頃から『情緒過敏症』という病に悩まされているという。

 「喜び」「怒り」「悲しみ」などの一時的に抱く感情が、過剰に表出してしまう障害の一種らしい。明確な治療法は確立しておらず、精神安定剤を服用して経過を見ているらしい。当然効果はない。

 

 事情を聞いて納得した。普段から笑う時は腹がよじれるほど笑い、怒った時は手が付けられないほどに怒り狂う。更には、よく可愛がっていた親戚のペットが亡くなった時は、自殺を図ろうとするまで悲しみに暮れていた。僕が全力で止めなければ、今頃どうなっていたことか。

 喜びなどの明るい感情ならさほど困ることはないが、怒りや悲しみなどの後ろ向きな感情まで過剰に表現されてしまったら、とてもではないがこちらの気が滅入る。自分の意思で感情の制御ができないため、周りに誤解を能えたり危害を加えてしまう可能性に生活を脅かされる。


 そんな彼女を支えながら生きていく人生に、僕は早くも疲れ果ててしまった。






「ハァ……」


 アルバイトの帰り道に、僕は重い足取りで希花のマンションへと向かう。毎日彼女の機嫌を損ねないよう細心の注意を払う生活だ。感情が制御できない彼女は、まさに壊れたがらくたのようだった。これから彼女とどう向き合えばよいのだろうか。


 せめて、あの無駄に溢れ出す感情をどうにかできないものか……。




「お兄さん、お困りのようだねぇ」


 ふと、横から声をかけられた。僕は商店街の一角に、見覚えのない露店商を見つけた。この商店街はバイト先へ向かう途中でよく通るが、こんな露店商など存在しただろうか。


「よかったら見ていってよぉ。お兄さんの悩みを解決する品が見つかるかもしれないよぉ~」


 そこでは魔女の格好をした怪しげな女性が、これまた怪しげな物品を販売していた。こんな古ぼけた店で時間を潰している暇はない。急いで帰って家事の手伝いをしなければ、またもや彼女が怒り狂って何をしでかすか分からない。


「ほう……感情が爆発しやすい彼女ねぇ……」

「はい……って、え!?」


 突然、魔女が僕が頭の中で思い浮かべていた希花の姿を的中させてきた。何だこの女は……まさか僕の心を読んだとでも言うのだろうか。いやいや、そんな非現実的なことがあってたまるか。


「だったら、こんなものはどうだい?」

「何ですか……これ」

「フィーリングとキャッシュカードさ」


 魔女は僕に小さな白い宝石が付いた指輪と、薄っぺらい一枚のカードを手渡した。あからさまに胡散臭い商品を押し付けてきて、一体何のつもりだろう。詐欺を働くにしても、僕のような若者を相手にしていると素人だと思われるだけなのに。




 そんな不信感満載の魔女がくれた二つのアイテム。まさかこれらが鬱憤に満ちた僕の生活を、いい意味でも悪い意味でもガラリと変えてしまうなんて、夢にも思わなかった。そして、希花の心さえも……。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る