2, 始まりの朝



ショウが帰ったことを見届けるとシャルは少し肩を落としながら家を出た時に同様に静かに玄関の扉を開け家に戻った。外套を脱ぎ、履いていた草鞋を外そうと屈んだ瞬間、奥の扉が開く音が聞こえた。どうやらシャルが外に出ている間に両親が起きていたようだ。二人とも既に寝間着から仕事着に着替えている。


「あら今日は随分と早いのね、シャル。草鞋まで履いて。散歩でも行くつもり?」


「い、いや違うよ、母さん。丁度その散歩から帰っていたところだよ。今日は大仕事だって思っていたらやたら早く起きちゃって。それで少しでも気を紛らわせようと…」


別にショウと出会っていたことを正直に話したところで咎められるようなことは無いが、今朝のショウとのやり取りのせいでシャルは彼の名を出すのをついついためらってしまった。


「はっは!気張るのは良いが緊張しすぎるのも良くないぞ。今まで通りにやれば大丈夫だ」


「う、うん父さん…」


起きたばかりとは思えない大きな声で笑いながら話す父チムの言葉をシャルは話半分で聞いていた。どうやら夜明けに抜け出していたことは二人には気づかれていないようだ。


「さ、シャルの言う通り今日は忙しくなるわよ。村の皆もそろそろ起きてくるだろうからもう朝食にしましょ。二人ともさっさと座った座った」


こちらも起きたばかりとは思えないほどはきはきとした口調で二人を居間の食卓に座らせると母のセナはせかせかと台所に移動し朝食の準備を始めた。セナに促され食卓にドカッと座ったチムはシャルにもったいぶった様子で話し始めた。


「さて息子よ。昨日皆と十分に話したが改めて今日の仕事を確認する。昨日の暮れに村を出た行商の話によれば商隊は今日の昼頃には村に着くらしい。積み荷は東ノ国(ルウ・ゼン)産の大量の火豆とその粉末、干し魚、綿花、そしてテル―帝国から送られてきた宝飾品で、これを運ぶ行商と積み荷を護衛する兵士で百人規模の大所帯となっているそうだ。隊が村に着いたらまずは俺が商隊長と湯場の利用と滞在時間について尋ねる。西ノ国の宮廷に献上するための荷だから長居はしないだろうが兵士も含め多くの者は湯に浸かって旅の疲れを癒すはずだ。そこでお前は…」


「わかっているよ、父さん。俺は父さんたちが積み荷の交渉をしている間に湯場を動かす。それと今日の客はただ大人数なだけじゃなく皇帝の勅令で荷を動かす『帝の足』だから決して粗相のないように」


「うむ。特に衣の扱いには気を付けろよ。彼らが身に着ける衣はいずれも帝が直接賜ったものだからうっかり汚したり傷をつけたりでもすれば皇帝を侮辱したとして最悪絞首刑だ。まぁ頭の固い都の役人や近衛兵とは違って例え『帝の足』であっても行商って奴は皆気さくだからそんなことを咎めることは無いと思うがな」


「分かっているよ、父さん」


「うむ。その他には…」


そうして父と仕事の話をしばらくしているとやがてセナが三人分の朝食を作り終え居間に戻ってきた。


「はい、出来たわよ。お米を炊いている時間は無いから今日は乾酪とタハ(米粉で作られたパンのようなもの)ね。どっちも戸棚の奥にあったのを引っ張り出してきたからちょっと傷んでいたけど、乾酪は火を入れちゃえば問題ないし、タハは悪くなったところは外してあるからまぁ食べても大丈夫でしょう!」


そういうとセナは三人分の食事を食卓においた。それぞれの皿には少し硬くなったタハに、溶けて熱々になった乾酪がトロリとかけられたものが置かれており、乾酪のコクのある濃厚な香りが皆の食欲をそそった。タハが不自然に欠けているのは恐らくセナが傷んだ部分を切り取ったからだろう。


「むぅ。お前の作る食事に文句を言うわけではないが、こう何日も草ノ大陸のものを食べ続けているとさすがに少し飽きてくるな」


そう言いつつも、チムはタハに豪快にかぶりつく。


「そうねぇ。いくら火豆の力が凄いとはいえ、お魚はお米や乳製品ほど日持ちはしないからね。それにここ最近はずっと山を越えてきた行商さんしか来ないから西ノ国(ルウ・バロ)産の食べ物しか手に入らないのよ。とはいえあなたの言う通りそろそろ海ノ大陸のものも口にしたいわね」


夫に続き、セナも食事を口に運ぶ。山間の裸地に位置するケハノ村では作物を育てることは不可能であり、故に村の食糧は村を訪れる行商から買うか、村を下りて都まで買いに行くか、湯場を提供する代わりに行商から譲ってもらうほかないため、食事を選り好みすることはまず出来ない。だがそんな生活に慣れている身であっても不満がこぼれてしまう程、今のケハノ村の食糧には偏りがあった。


「東ノ国からの行商がこないのは最近東ノ国がテルー帝国との貿易を広げるのに力を入れているせいだろうな。聞いたところでは何でも最近は若いやつが皆交易船団の船員になりたがるせいで行商や漁師の後継ぎが減っているそうじゃないか。海の向こうの国がどんな良いものかは知らんが、自分の故郷や親の仕事を大切にする気持ちも忘れんで欲しいものだな」


朝食をつまみながら二人の会話を聞いていたシャルはふと昔の出来事を思い出した。


(そういえば昔テルーから来たっていう石彫刻を運んでいた行商が村に来た時にショウは大興奮していたっけ。この村を出たらショウも行きたがるのかな…。)


「ショウ君も来年村を出るし、最近の若い子はこの広い世界を自分の目で見て、自分の足で歩きたいって思う子が多いのよ、きっと。若い時は好奇心に追いつけるだけの体力があるんだから変に柵を作ったりせずに自由にさせるのも間違ってないと思うわ。かといってシャルのような子を否定するわけじゃないけどね」


「その通りだ。皆が皆自由に外に出て行ったら国であれ村であれいずれそこは老人だらけの地になって滅びるだろうからな。ショウ君のように自由気ままにいたいという者もいればシャルのように故郷にじっくり腰を据えたいと思う者もいる。何事も中庸が肝要だ。そうだろうシャル?」


「え?あ、そ、そうだね父さん。俺は俺、ショウはショウだよ」


急に話を振られたことに驚いたシャルは曖昧に答える。


「うむ。今日の仕事、期待しているぞ。息子としてだけでなく、将来の村長としてな」


少し得意顔でそういうとチムは食卓を立ち、息子の頭をわしゃわしゃとなでると仕事に向かう時のいつもの癖で肩を軽く回しながら玄関に向かった。その様子を見たセナが彼の背に言葉を投げかける。


「あなた!外に出る前に自分の食器を片付けろっていつも言ってるでしょ!自分の嫁に叱られているんじゃ息子の前で恰好なんかつかないわよ!」


 


罰が悪そうに肩をすくめながら食器を台所に運んだあと外に出た父を見送ると、シャルは自分の部屋に戻り仕事着に着替えた。布団をたたみ部屋を軽く掃いて床に転がっている小石を片付けた後、父を追って家を出る。外はもうすっかり明るくなっており、夜明けの寒さは既に無く、代わりに暖かい日の光がケハノ村を包んでいた。ぐっと背伸びをし、軽く深呼吸をすると村の上の方からわずかに腐った卵のような匂いが漂ってくる。当番の者が既に湯場を開けたらしい。


(いつもの景色だな…。なんだか明け方ショウに会ったのが夢みたいだ)


そう思いながらぼんやりと湯場の方を眺めていると下からがやがやとした声がいくつも聞こえてきた。既に皆起きて集会所前の広場に集まっているようだった。駆け足で村を降り広場に着くとチムを中心に村の皆が既に集まっていた。シャルが着くなりチムの隣にいた髭面の男が話しかけてくる。


「おっ、来たなシャル君。今日はどうかショウをよく見ておいてくれよ。昨日散々シャル君の邪魔だけはするなと言い聞かせてはあるが俺の息子のことだ、いつ君の目を盗んで足を滑らしたふりをして客に湯をぶっかけるか分からないからな…」


そう告げた男はシャルの叔父、ショウの父であるケムであった。村一のやんちゃ坊主の息子に制裁を叩き込むのは専ら彼の役である。もっともシャル自身もまだ幼かった頃はショウと一緒に悪さをして彼からのゲンコツをいくらか喰らったことはあるが。


「へへん、悪いな親父。あいにく今日の俺はいつもの悪ガキじゃないぜ。なんてったって今日はシャルにとって大事な日だ。今日の俺はシャル様の忠実な右腕として働かせてもらうぜ」


そういって集会所の陰から出てきたショウは既に上半身は裸、下半身には麻でできた腰巻を身に着け頭には同じく麻製の布を巻き付けた、湯場で働く際の恰好をしていた。


「また調子に乗りやがって…。いつもそのくらいの気概で働いてくれたらいいんだがな。全く、従弟同士だっていうのにシャル君とは本当に大違いだな。なぁ兄貴?」


「まぁそう言うなケムよ。むしろシャルにはショウ君の気概を少しは見習ってもらいたいものだよ。最近はずっとましになったがショウ君と一緒にいる時以外のシャルは内気で引っ込み思案だからな。これで将来この村の頭が務まるのか俺は心配だよ」


そう言いつつ、チムは近くにいたシャルの頭をむんずと掴むと、そのままわしわしと頭をなで始めた。幼い時からシャルのことを彼がいる状態で誰かに話すときにチムはいつもこうする。シャルは褒められた時にこれをされるのは少し恥ずかしいながらも嬉しい気持ちになるが、自分の短所や愚痴を言われる際にこれをやられるとかなり不愉快な気分になる。


「ほら父さん、村の皆が待っているよ。こんな時まで息子の愚痴言っているなんてそれこそ村の頭として『恰好がつかない』よ」


父の言動にむっとしたシャルは「恰好がつかない」という言葉をあえて強調し二人の会話を止めた。控えめ、と評されたシャルだが身内に皮肉を言えない程小さい心臓はしていない。


「はっは!どうだ兄貴!シャル君も随分言うようになったじゃあないか!この調子なら今日の仕事も大丈夫そうだな!」


ショウの父親でありチムの弟であるケムはこれを聞くと兄譲りの大きな声で笑った。シャルの狙い通り、家を出る時にセナに言われた言葉がよぎったのか、チムは息子と同じように少しむっとした態度を見せたが


「う、うむ。確かに二人の言うとおりだな…」


と呟いた後は何も言わずにシャルの頭から手を離すと、今度は広場で待機している村人に向かって話し始めた。


「すまない、皆を待たせてしまったな。では朝礼を始めよう。皆も知っての通り今日は久方ぶりに『帝の足』率いる商隊が山越えを行うべくこの村を訪れる。護衛の兵士も合わせると数百人の規模で積み荷にも大量だ。とても忙しい一日になるだろうが上手くいけば今日の夕食にはしばらくぶりに美味い魚が並ぶだろう」


そこで村人達の中からいくつか喜びの声が聞こえる。最近の食事に不満が溜まっていたのはシャルの家族達だけではない。


「他の行商によると商隊は昼頃に到着する予定だそうだが昨日今日と雲が無く落ち着いた天気が続いているため恐らくもっと早くに到着するだろう。そこで皆には今からそれぞれ役に分かれ備えをしてもらいたい。まず昨日招集した者の内、交渉を担う者は朝礼が終わった後私の下に集まれ。昨日の時点では現在村にどれだけの食材や資材が必要か把握しきれなかったからな。そしてそれ以外の者はこれから湯場の管理に移ってくれ。当番の者によれば、少し硫黄の匂いが気になるとのことだ。少しでも異常があればすぐに私に…っとそうだったな。改めて言う必要は無いかと思うが、今日一日湯場の管理は私の息子であるシャルに任せる。湯場に関することは私ではなくシャルに伝えるように。朝礼は以上だ。では今日もお祈りをしてから仕事を始めるとしよう」


そしてチムは朝礼を終えると自分達がいた集会所の前とは反対側の、広場の中心に存在する一つの石碑に皆と向かい、その周りを皆で囲った。だだっ広い広場の中心に不自然にぽつりと立つぼろぼろの石碑にはかすれた文字で以下のように彫られていた。


 


『女神の怒りをその身に受け、己の命をもって罪を贖った貴き命達、ここに眠る』


『努々忘れるなかれ。女神は例え罪人であってもその命に意味を与える』


 


チムは皆が石碑の周りに集まったことを確認すると石碑に一歩近づき


「わが村の先祖達よ、今日は村総出での大仕事です。東ノ国の者達に最大限の奉仕が出来るよう、どうか見守っていて下さい。かつてのあなた方のように、我々にも女神テリ・ハイラの加護と祝福があらんことを」


と簡単な言葉を綴り、目をつむり静かに合掌を始めた。他の村人もチムに続いて手を合わせ、黙祷をする。これが朝のケハノ村のいつもの光景だ。


数十秒程の沈黙が広場を包んだ後、チムはゆっくりと目を開けて合わせていた掌を話すと石碑に向かって仰々しく一礼をした。


「さて、これでお祈りは終わりだ。これで女神様もご先祖様も今日の我々の仕事を手助けして下さるだろう。後は我々の頑張り次第だ。それでは始めるとしよう」


そしてチムはテムを含んだ数人の村人を連れ集会所に入っていった。そして広場に残された者達は皆シャルの下に集まる。自分の下に集まった者達を見て、シャルは心臓の鼓動が大きくなるのを感じた。ケハノ村は老若男女合わせて五十人程の大きさの村だが、父に連れられた者以外のほぼ全ての村人が彼の下に集っていたのだ。彼らの中にはここ最近になって仕事を覚え始めた少年や少女だけでなく自分よりもずっと経験豊富な大人も多数おり、そんな人々が皆、彼の言葉を待っていた。


(よし、それじゃあ行こう。気合を入れろよ、シャル)


心の中でそうつぶやくとシャルは皆に向かい自分を奮い立たせるように大きな声で指示を出した。


「それじゃあ皆、湯場に行こう」

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