地導の使者 覚醒編
空を飛ぶジンベエザメ
序章
明朝のハイラ山脈をトルク達は歩く。それは山に出現した「試しの泉」を訪れる為であった。そして彼に連れられた「帝の腕」達は、そこでハイラの山の神秘を目の当たりにすることになる。
ザッ…ザッ…ザッ…。
ハイラ山脈から絶えず吹き降ろされる風に耐えながら彼らは一歩一歩を踏みしめるように歩いていた。時刻は明朝、東の空がうっすらと白み始めてはいるが彼らが歩く地面は未だ薄暗く、先頭の男が持つ淡い光のが後続の道標として何とかその役割をはたしていた。彼らは山脈の中腹付近の道なき道を歩いていた。ここは尾根や山頂付近に比べればかなり平坦で歩きやすいが、ゴツゴツとした大小の岩石が多数存在しており、うっかりこれに蹴躓きでもすれば鋭い岩に体を晒すことになるであろう。またこの周辺は火山活動が活発なこともあり、毒素を含んだ蒸気を吹き出し続ける噴気孔が点在している過酷な環境だ。自分の命が惜しい者ならば、少なくとも足元すらおぼつかなくなる明け方に自らこんな場所を訪れることは決してしないであろう。もし訪れる者がいるとするならば足を滑らせでもして道に迷った哀れな行商くらいであろうが、現在ここを歩く彼らの様相は決して行商のそれでは無かった。彼らは一列になって歩を進めていたが、先頭の二人を除く数人の男達は全身に鎧を身に纏い、手には槍や盾、ましてや登山用の杖ではなく祭祀に使うようなきらびやかな装飾品を握っていた。纏う鎧は重厚かつ細かな装飾が施されたものであり、皇帝直属の兵でなければこのような逸品を身に着けることは許されないだろうが、登山の装備としては極めて不相応であり、手に持った装飾品も相まってちぐはぐな雰囲気を醸し出していた。一方先頭を歩く二人は鎧兵達以上に異様なものだった。二人の内先頭で松明を持つ男とそのすぐ後ろを歩く男は背丈がほぼ同じくらいで、更に重装備の兵士達とは違い二人は薄手の皮服に純白の外套を羽織、その腕には一切の汚れの無い真白の包帯がきつく巻かれていた。背後の兵士達よりかははるかに動きやすそうであったが日の出ていない時間のハイラ山脈は吹き荒れる風の影響もあり極寒となるため、このような軽装ではすぐにでも体温を奪われるだろう。幸いこの周辺には高温の噴気孔がいくつもあるためある程度は暖かいがそれでも風が吹く度に彼らは肩を僅かに縮こませていた。いずれにせよ、このような装備でハイラ山脈を移動することは自ら命を捨てに行くことと大差ないと言えることには違いない。
不意に最後尾の兵士が強くむせ込み、胸元を抑えながらその場に座り込んだ。周囲の噴気孔から漂う孵卵臭を伴った熱い蒸気を吸い込んだのだ。彼は苦しそうに咳き込みながらも風の音にかき消されないよう出来る限り大きな声で先頭の男に叫んだ。
「ゲホッゲホッ… トルク殿、一体あとどれくらい歩けば目的の地に着くのでしょうか!これ以上進むのは危険すぎます。せめて明け方まで待たれては如何ですか。このままでは我々は岩に蹴躓いて頭を打つか、山の毒にやられるか、風に体の熱を奪われて死ぬだけです!」
トルクと呼ばれた男は足を止めて後ろを振り向くと、座ったままの兵士に向かって風に負けないように叫んだ。よく見ると男の顎からは白く長い髭が伸びており、追随する兵士達よりもずっと高齢であった。にもかかわらず彼の足取りはとても軽やかで、鎧を着込んだ兵士よりも軽装であることを考慮しても、とても高齢の男とは思えなかった。
「ならぬ!『試しの泉』はまさに神出鬼没。次またいつどこに泉が現れるかは女神、テリ・ハイラの知るのみだ。夜明けまで待つ暇は無い!それに心配せずとも泉はもうすぐだ。ほれ、『帝の腕』ならば弱音を言わずにさっさと立たんか!」
叱を入れられた兵士はトルクに聞こえぬように愚痴をぼそぼそと呟きながら鎧で重くなった体を持ち上げふらつきつつも再び歩き出した。トルクと最後尾の兵士の間にいた者達は、他の兵士は勿論、トルク以外の外套の男も何も言わずに二人のやり取りを聞いていた。
やがてトルク一行はとある窪地にたどり着いた。先程よりも日が昇ってきており先程よりもずっと明るくなってきてはいるが、この日は雲が厚く日の光を遮っており周囲は未だ薄暗かった。大人数十人で輪を作れば囲めてしまいそうな程の大きさの窪地には、薄暗さと大量に出てくる水蒸気の煙で詳細はよく分からないが、その中心からゴボゴボと湧き出る熱水によって熱水泉が形成されており、もし付近を歩いていて足を滑らせこの窪地に転がり落ちれば、たちまちにゆでガエルになってしまうだろう。そんな窪地の周りをトルクは一周した後に窪地に向かって手を伸ばししばしの間何かを呟いていたが、やがて確信したかのように強くゆっくりと頷き、兵士達と外套の男二人に窪地の周りに立つよう命じた。
「トルク殿。大変恐れ多いのですが、この窪地が件の『試しの泉』なのでしょうか。我々には唯の泉にしか見えないのですが…」
先程咳き込んだ者とは違う兵士が恐る恐るトルクに問を投げかけた。他の兵士も同じ疑問を持っているようで、それぞれいぶかしげな態度で横の者と話したり泉をのぞき込んでいたりしていた。確かに明朝の危険な登山をしてまでたどり着いたのがこんな窪地というのは不可解だ。しかし外套の男だけはここまで来た時と変わらず、何も喋らず窪地の中にある熱水泉をじっと見つめている。
「こう暗くてはまぁ無理もない。だがもう少し日が昇ればすぐにでも分かるだろう。おっとそんなことを言っていたら、ほれ、雲が切れるぞ」
長い顎髭を撫でつつ空を一瞥したトルクがこう話した途端、雲の切れ間から日が覗き、ハイラ山脈の荒れた黒い山肌と一行を照らした。周囲が一気に明るくなったことで兵士達はここぞとばかりに泉を覗き込み、そして皆驚きのあまり息を飲んだ。
泉は七色に美しく染まっていたのだ。
まるで墨汁を水面の垂らした際に出来る波紋のように、泉を中心に円状に広がる七つの色は、中心から空に浮かぶ虹と同じ順で紫、藍、青、緑、黄、橙、赤の美しい層を形作っていた。また、外縁に浮かぶ赤い色によって泉の際に転がる石や岩は赤く染まっている。このことから泉の底の地面が色づいているわけではなく、泉から湧き出る地下水そのものに色が付いているようだ。しかし驚くべきことに湧水が生み出す波によって色同士が混ざり合うことは決してなく、常に一定の間隔で色の層を保っていた。
「では、試しの儀を始めようか」
目の前の神秘の現象に驚き動揺する兵士達を尻目にトルクは外套を被ったままの男を連れ慎重な足取りで窪地に入り七色の泉に近づいていった。やがて泉の淵にたどり着いたトルクはまず懐から風呂敷に包まれていた白い拳大の大きさの石を一つ取り出しそれを泉にそっと投げ入れた。外縁の赤い水中に投げ込まれた石は白く染め上げられたおかげでまるで大量の鮮血が滲んだかのような赤色の中でもその所在が上から見てある程度分かるようになっていた。次にトルクは男に腕を差し出させ巻き付けられていた包帯を外すとその腕に傷が無いことを確かめ上で待機している兵士達に向かってこう叫んだ。
「祈りを捧げよ!」
これを聞いた兵士達はこれまでの態度を一変させキビキビとした動作で泉に体を向けながらその場で跪き、手にしていた大小様々な装飾品を顔の前に掲げ目を閉じ祈り始めた。その様子を見たトルクは、今度は男の方を向き外套を外すように命じた。衣を外したことで露わになった男のその顔は狼のような鋭い目と無駄な肉が一切ついていないすっきりとした輪郭をしていた。また、その顔つきと引き締まった身体から滲み出る気迫は素人目にも手練れの武人であると感じさせる雰囲気をしておりそして黄土色の髪をしていた。そんな彼にトルクは泉の淵で兵士達と同じように跪くよう命じた。男が跪いたことを確かめると、トルクは両腕を大きく広げ叫んだ。
「これより『試しの儀』を行う。儀に名乗りを上げたセシムよ。汝らが己をテリ・ハイラの真の子であると信じ疑わぬのなら、この美しき灼熱の泉に腕を入れ先程投げ入れた純白の石をすくいあげてみせよ。汝らが真の子であるならば泉の熱に身を焼かれることはなく女神は我が子の勇気と才覚を認め、常ならぬ『地導』の力を汝らに授けるであろう。しかし汝らが真の子でないならば、女神は自らの聖域を汚されたことに怒り、報復として泉の熱を持って汝らの腕を焼け爛れさしめるだろう。セシムよ。汝らに問う。女神の祝福を受け『地導使い』となる勇気と覚悟が汝らにはあると誓うか」
「誓います。我々の心に迷いはありません」
「よかろう。では、始めよ」
トルクの言葉が終わった後、セシムと呼ばれた男は泉を前に膝をつくと少し息を整え、意を決し煮えたぎる泉の中にゆっくりと手を差し入れた…。
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