第9話
私は桃花を乗せたベビーカーを押しながら待ち合わせ場所に到着した。主任は、足を組みベンチに座っていた。
「お待たせしました」
「おう、すまないな、わざわざ出てきてもらって」
主任は立ち上がると、私たちを迎えてくれた。
「おかげで、事件は解決したよ。彼女は全てを白状した。お前の推理が全て的中して、観念したらしい」
「それは、よかったです」
「お前のおかげだ。ありがとうな」
主任は再びお礼を言うと、深々と頭を下げた。主任に頭を下げられると、とてもむずがゆい気持ちになる。
「やめてください。当然のことをしただけですから」
「でも、お前がいなかったら全く違う結果になってたんだからさ。それは思うところはあるよ」
主任は口元を緩めた。でもすぐに、真顔になって私へと語りかけるように話し始めた。
「お前、現役の刑事に戻らないか?」
「えっ?」
「今回の件でつくづく思ったよ。お前だったら、どんな難事件も解決できる。お前のような頭脳を持つ人間が必要なんだ」
突然の告白に、正直面食らった。
「警察署の前にさ、託児所が出来たんだ。そこに子供を預けてもいいと思う」
何も言い返せない私に、主任は後押しするように続けた。
「そうしろよ。今回の件だって、ほとんどがお前の手柄なんだし」
「それは気にしないでください。だって、こっちが勝手にやってるだけなんですから」
「そうはいくか。なぁ」
主任はそう言うと、桃花の顔を満面の笑みを浮かべながら覗き込んだ。そして、こう続けた。
「仕事をしてる方が、お前らしく生きられるんじゃないのか」
主任の言葉が胸に突き刺さった。
「お前の現役復帰を望んでるのは、平野も一緒だ。お前の推理に脱帽してた」
結婚前の私の生きがいは仕事だった。何となく、一生続けていくのだろうと考えていたのも事実だ。
「今回、事件の解決に参加できてとてもうれしかったです。仕事の楽しさを思い出した気がします」
私は素直な気持ちを主任にぶつけた。
「よかった。それはよかったよ。お前は、やっぱり刑事としてやっていくのが天職なんだよ。ここでお前と出会ったのも、何かの縁だと思う」
主任は目に皺を寄せながら、今まで見たことのない満面の笑みで私を見つめ返してきた。やはり主任の言うように、これは刑事の職に戻るチャンスなのかもしれない。事件を解決することを楽しんでいた自分は、確かにいた。現役の頃に戻りたくもなった。辛い環境から逃げなければ、刑事を辞めることはなかった。正直に言うと、刑事を続けていればなぁと後悔した。現役時代の感覚が蘇ったことで、改めて刑事という職業が好きなんだと実感した。刑事は、私にとって生きがいであり、やり続けたい職業でもあった。私は嘘が嫌いだ。だから、主任にはっきりと告げよう。やっぱり、私は刑事の仕事が好きですと。
「そこまで考えてくれたなんて、本当に嬉しいです」
刑事として、もう一度現場に戻りたいです。本心を告げようとした私の口元は、それとは違う言葉が自然とこぼれ出していた。
「でも、お気持ちは嬉しいんですけど、今は、この子のために生活をしたいんです」
私は桃花の頭を優しくなでた。
「私は不器用な人間なんです。一つのことに集中しちゃうとダメなんです。折角のお誘いなのに、すみません」
そう言って、深々と頭を下げた。どうしてだろう、心とは裏腹にホッとしている自分もいた。
「そんなさ、そんな神経質にならなくたっていいじゃないか。仕事の配分はこっちできちんと考えるからさ。それにお前だったら、きちんと両立できるさ」
主任は私を引き留めようと必死になっていた。主任の一生懸命さに、思わず首を縦に振ってしまいそうになった。本心は仕事に戻りたい。私のように、子供を産んでも第一線の仕事に戻っている女性はいくらでもいる。
私が躊躇する一番の要因は、警察署に戻る自信がないことだ。今でも、警察署での嫌な思い出が蘇ってくる。ひどい時には、吐き気したり胸の動悸が止まらなくなる。それくらい、警察署という職場は私にとってトラウマなのだ。職場に戻って楽しく仕事ができるイメージが湧かない。だから、あの場所に戻ることはできない。
「本当に、すみません」
私は再び深々と頭を下げた。
「そうか……まあ、今すぐじゃなくてもさ、戻ってきたいと思ったらすぐにでも連絡くれよ」
私の頑なな態度を見て、主任は諦めたらしい。一度言い出したら後には引かないという、私の性格をよく知っているからだ。
「それじゃ、失礼します」
私は、会釈して再び元来た道を戻るように歩き始めた。これでいい。この選択は間違っていない。今は桃花のために生きること。それが、私がやらなければならないことなのだから。
一度、振り返ろうとした。でも、振り返って主任を見てしまえば、蓋をした自分の気持ちを開けてしまいそうで怖かった。だから、公園を出るまで一度も振り返ることはしなかった。
ママさん刑事 絵本真由 @samori
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