夕暮れどきの魔女たちは

ふじ笑

1羽目


(未由)

真っ赤に染まる夕暮れどき、カラスが一羽また一羽飛び交う中

「夕暮れどきの魔女はね・・・・」

繋いでいた手が強く握られ、痛いと見上げた顔を私は思い出せないでいる。



「いつまでそうしているの?」

私は、顔を覗き込む夫、光の姿に気がついた。

 目の前には、冷たくなったコーヒーが置いてある。

 リビングの椅子に座ってボーッとしていたようだ。

「さっき、コーヒー淹れたから置いておくからねって言ったのに・・・冷めちゃったね」

光は少しだけ口元を笑わせて見せたが、目は笑っていないように見えた。

 私はしまったと思い、冷たくなってしまったコーヒーを手に取る。

「いいよ、新しいのを淹れてあげる」

光が右手を私に差し出す。少しばかり、声色が優しくなった気がした。

 私は大人しくマグカップをそっと光に渡した。

「少し待ってね」

光はマグカップを持ちキッチンへ向かっていく。

 ここ二、三日の私は、常にこんな調子だ。言葉には出さないでくれているが、光は私に呆れているに違いない。

 目の前の窓から、空を眺める。夕暮れどきだ。

 カラスが一羽どこかに飛んでいくのが見えた。きっとこれから家族の待つ住処へと帰るのだろう。七つの子がいるかはわからないが。

 カーっとカラスの鳴き声が、昼と夜が交わり始めた空に響いた。

「カラスが夕暮れどきに鳴くのは、仲間や子供にお家に帰るよって合図、なんだよね?」

光が、キッチンからマグカップを二つ持って出てきた。

「よく覚えているね」

光からマグカップを受け取りながら、私は驚いた。

 いつ言ったかも忘れてしまうようなことを、覚えていてくれるのはなんだか嬉しかった。

「覚えているさ。未由は、夕暮れどきにカラスが鳴くといつも言う気がするよ」

どうやら前言撤回のようだった。光が何かを言いたいような顔で、私を見る。

 気になっていても、肝心なことを聞いてこないのが、夫婦になる前からの光のいい所でもあり、悪い所でもある。夫婦だからと言って何でもわかり合えるわけはないのだ。所詮他人なのだから。

「そんなに心配しなくても大丈夫だよ、僕にはわからないけど」

と、光は作り笑いのような顔を私に見せた。きっと話していないことがあることを、薄々勘付いているのかもしれない。

 私が返事を返さないのを不安に思ったのか、光は小さく、何度か頷いてコーヒーを口にした。



 カラスが一羽飛ぶ空を見上げて、壮ちゃんが何か言っている。

しかし、その声は聞こえない。壮ちゃんが泣き笑いしながら

「未由ちゃん、僕は・・・」

聞こえない。聞こえないの。



 目を覚ますと、見慣れた書類だらけのデスクが広がっていた。どうやら眠ってしまっていたらしい。静寂に包まれた仕事場の空気は、私の研究と同じようにひどく冷めていた。もう時間がないということは、重々わかっていた。

「なぜこうも上手くいかないの」

座っていた椅子の背もたれに倒れ込み、天を仰ぐ。

 デスクの上にある資料に目を移すと、普段は鳴ることなど忘れているはずの電話が鳴り始めた。

「もしもし、大原です」

私は恐る恐る電話に手を伸ばした。

 電話を持っている右手が少し震えた気がした。

「もしもし、大原先生。お電話が入りまして」

「・・・繋いで」

動揺のせいか、自分自身がわかるくらいに声が震える。

 返事のあとに、外線に切り替わる音がした。

「もしもし、大原ですが」

どちらだ?と、心の中で声がした。

「あ、もしもし〜、久しぶり。菜々です」

 電話の相手は、久方ぶりに聞いた声だった。幼馴染の菜々だ。

 菜々が電話をかけてきたということは、用件はもうわかっていた。

「今さっき、金丸のおじいちゃんがうちの病院で亡くなりました」

予想をしていた言葉が私の耳を通り抜けた。

「そっか・・・うん。みんなそっちに戻るって?」

私の口からはそんな言葉しか出なかった。

「拓も冬吾も戻れるって言っていたよ。未由は?どうするの?」

返事はわかっているはずなのに、菜々はあえて聞いてきた。

「帰るよ、もちろん。私達の大切な人だもん」

胸にグッとくる何かを感じた。

目頭が熱くなってくる。きっと、これから涙が出て来るということなのだろう。私も人間だったか、と心の声が聞こえた。

「うん、待っているよ」

菜々はそういうと、私に火葬や葬儀の日程を伝えて電話を切った。

 私が電話を置くとやはり涙が溢れていたらしく、デスクの資料には水跡ができている。

 私は、その資料を握り閉めると、ゴミ箱へと全て流し入れた。私の今までしてきたことは、意味がなくなってしまった。いや?意味などあったのだろうか?

 夕暮れどきとはまた違う、煌々とした太陽が照り付ける中、私は研究室から自宅へと向かった。



 金丸おじいちゃんの大きな手が私の頭を撫でた。

「お母さんと同じ道に進むのか、いいことだ」

その優しい言葉は、希望だったのか。はたまた呪いだったのか。



「次は終点〜」

電車の車内アナウンスで我に帰る。外は、今にも雨が降りそうだ。

 揺れる電車の窓に頭を押し付けて、夢だったのか昔の記憶だったのか考えては見るものの、答えは出なかった。

 菜々からの電話の後すぐに家に戻り荷物をまとめ、仕事に出ている光に連絡を入れて家を出た。光は心配して、ついていくと言ってくれたが私はそれを許さなかった。

 電車が減速し始め、大きく揺れ始める。ブレーキ音で電車は止まった。

 ドアが開いたとき、十数年ぶりに見る菜々の姿があった。童顔な彼女は年をとったと言うより、少し大人びたと感じた。

 真っ赤な傘を持ち、ワクワクしたように私を待っていた姿は、昔一緒に遊ぶために待ち合わせをしたあの頃のようだった。

「おかえり、未由」

菜々がニコッと笑って見せる。

 菜々の後ろに、懐かしい二人の姿も見えた。拓と冬吾だ。どうやら私が、一番最後に着いたようだ。

「よっ、相変わらずだな」

拓は、日に焼けた肌に映える白い歯を見せて笑った。

 隣にいた冬吾も言葉を発しないながらも優しく笑っていた。相変わらず青白い華奢な彼の腕に、大きくⅤサインをして笑う壮ちゃんの写真があった。

 私は、冬吾に歩み寄ると壮ちゃんの写真に軽く触れた。一緒にいた時間は短くても、母や金丸おじいちゃんと同じように私達にとっては大切な人だった。

 冬吾が壮ちゃんの写真を覗き込むように見ている。

「なんで大切な人ほど、早くいなくなっちゃうんだろうね」

 寂しそうな菜々の声が言う。

「なんでなんだろうね」

 私はその一言しか言えなかった。



 壮ちゃんが笑顔で何か言っている。

 周りをみると、菜々や拓、冬吾もいる。

「ほら、カメラみて!」

誰かがそう言って、私は急いでカメラを見た。そう、こんな日があった。

 


「未由、聞いてる?」

菜々の声で我に返る。随分昔の事を思い出していたようだ。

 前を歩く菜々が、こちらを覗き込んでいる。

「ごめん、聞いてなかった」

後で拗れるのが面倒で素直に謝った私に、菜々はもう〜口を膨らませると、私が聞いていなかった話をまた一から話始めたようだ。  

 拓が黙って私の腕を小突く。

 多分、菜々の話は同僚のことだろう。小学生の頃から、馬が合わないと言っていた子と確か同じ病院になってしまった、と言う辺りまでは話は聞いていたつもりだった。

 見慣れた景色が、金丸家がもうすぐだと教えてくれる。それまでにこの話にも区切りがつくはず。


 金丸家は、私たちがかつて住んでいた、山の反対側のすぐ麓にある。山火事で亡くなった母達の代わりに、高校を出るまでの間、家に住まわせて面倒をみてくれていた、親も同然の存在だった。

 今思うと、金丸おじいちゃんのおかげで現在の私達があるようなものだった。

 この辺りでは有名な人で、悪さ(ほとんどが拓だが)するたびによく怒られたものだ。

 怒られて泣いていると、娘の美代子さんがいつも慰めてくれたのをつい昨日のように思い出す。金丸おじいちゃんが亡くなって、美代子さんは大丈夫だろうか、体調を崩したりしていないだろうか。私は急に心配になった。

「美代子さんは大丈夫だよ」

同僚の話に区切りがついたのか、菜々が私の背中に手を当てながら言った。

 私は菜々を見た。

 菜々が私に微笑む。

「未由のこの背中がね、美代子さんが心配だよって言っている気がしたの」

なぜか菜々には、何でもお見通しのようだ。

「菜々、昔からエスパーみたいなところあるよね」

そう、私が昔、山で迷子になったとき一番先に見つけてくれたのも菜々だった。

 山道のどこを歩いているのかもわからない中、大泣きしながら、みんなの名前を呼んでいた。もう何回呼んだかわからないくらいに呼び続け、呼ぶ声も歩く力も限界で、近くの岩の陰に隠れてジッとしていた。

 泣きながら菜々の名前を呼んだとき『は〜い』と返事が聞こえたのだった。

 そのとき、どれだけの安心感に満たされたことか。菜々との、忘れられない思い出だ。

 私からしたら、菜々は昔も今もエスパーなのだ。人の気持ちを察することが得意なのだろうなと思う。だからこそ医者になり、地元に戻り、懸命に金丸おじいちゃんを診てくれていたことに感謝してもしきれないくらいだった。

 きっと拓も冬吾も、私と同じことを思っているだろう。

 そう。五人でした約束は、四人で今も守っている。

「変なの。私エスパーなのかな」

と、菜々は拓や冬吾の背中にも手を当てていた。

「もう着くぞ」

 拓の心無い言葉に、菜々は不貞腐れた顔をする。

 金丸家は、私たちからすれば『実家』と呼べる場所だろう。私が住んでいた頃とほとんど変わっていなかった。

 大きな広い玄関が今では、黒い靴で埋め尽くされている。金丸おじいちゃんを慕っていた近所の人や親戚の人が集まったのだろう。

 靴を脱いで、縁側に向かおうとする。

「未由?おじいちゃんに会わないの?」

縁側の方に向かおうとする私を、菜々が不思議に思ったようだ。

 金丸おじいちゃんは、たぶんお座敷を抜けた仏壇の方にいるのはわかっていた。

「昔のアルバムがあるから、最後におじいちゃんに見せたくて」

思いつく言葉がこれしかなかった。

 菜々には、私の嘘がもしかしたら気付かれるかもしれない。

 エスパーは何でもお見通しなのだ。普段は全くかかない、冷や汗というものをかきそうになる不思議な感覚に陥った。

「アルバム!私もみたいから取ってきて〜」

菜々は、一瞬不思議そうな顔をしたが、気付かれてはいないようだった。

「俺らは、先に拝んで美代子さんを手伝っているぞ。早く来いよ」

すでに姿が見えなくなるくらい廊下の先にいた拓の声に『わかった』とだけ返事をして、自分の部屋に向かう。

 縁側を抜けて、階段を登る。ふと、嗅いだことのある懐かしい匂いがした。

 階段を登った左側が私の部屋で、右が菜々の部屋だ。

 襖を開けると、少しだけ埃っぽい匂いがした。そのあと、畳の匂いが追いかけてくる。さすがは美代子さんだ。部屋は、私が使っていた当時のままになっていた。

 閉め切られたカーテンを開けて、窓横の机の一番下の机を開けた。

 学生時代のアルバムが入っている。そのまま、引き出しを引き抜いた。引き抜いた引き出しの裏に小さな鍵がテープで止められている。

 この鍵は、私にとって『お守り』なのだ。

 小さな鍵をポケットに忍ばせて、引き出しを元に戻す。


 階段を降りていくと冬吾が壮ちゃんの写真を抱えたまま、縁側に座っていた。

 来るときに降っていた雨が嘘かのように、日がポカポカしていて気持ちがいい。日差しに、自然と目が細まる。

「お役御免だってさ」

冬吾がこちらを見ずに、苦笑いした。たぶんのんびり屋の冬吾には、冠婚葬祭の際に起こる、忙しいお勝手は合わなかったのだろう。

「そっか」

とだけ言って、私は冬吾の隣に座る。

「未由が帰ってくるとは思わなかったよ」

冬吾が小さく言った。

「そう?」

私は、縁側の木の床をゆっくりと撫でながら言った。少し暖かい。

「誰よりここに帰って来たくないものだと僕は思っていたよ。なんとなく」

 冬吾を見ると、真っ直ぐに景色を見ていた。

 私も遠くの景色を見た。空気は澄んでいて、田んぼと海が見える。

「・・・嫌いではなかったよ」

 心の何処かに仕舞っていたはずの言葉を、今なら言っても許される気がした。

 冬吾は何も言わない。その沈黙が歯痒くなって

「急に、どうしたの?」

と、冬吾に聞いて見た。

「いや、なんとなく聞いてみたかっただけ」

濁されたのかは、わからなかった。

 表情を伺ってみたが、冬吾は涼しい表情で景色を見ていた。

「この景色だけを見ていたら、この町に夕暮れどきの魔女が出るなんて誰も思わないよね」

『夕暮れどきの魔女』の言葉を最後に聞いたのはいつだっただろう。

「あったね、そんな話」

「未由は信じていた?」

「昔はね」

 この町では、遅くまで遊んでいる子供は夕暮れどきの魔女に連れ去られて、食べられてしまうという話だ。

 日が暮れる前に、早く家に帰りなさいという意味で、大人たちが作った話だと思っていた。

「いきなりどうしたの?」

 冬吾が私に何かをかざして見せる。

『ヘンゼルとグレーテル』の絵本だった。私も読んだことがある。

「さっき見つけてさ。そう言えばこの町にも魔女がいたなと思い出したんだ」

「なるほどね」

 絵本を冬吾から受け取る。この絵本を何回読んだことだろう。

「何なに?何の話〜」

いつの間にか縁側の入り口に菜々が立っていた。

 料理が乗せられたお盆を持っている。今から運ぶらしい。

「夕暮れどきの魔女の話だよ」

私は、菜々が見たいと言っていたアルバムを手に取り、菜々にかざして見せる。

「お〜見たい。そして混ざりたい」

と言いつつも、縁側の方に来ないのはたぶん忙しいからだ。

 何やら、玄関周りが騒がしくなった。拓が顔だけ出して

「おい、そろそろだぞ。ちゃんと拝んだのか?未由」

と、聞いてきた。

「今いく」

私は拓にそう言うと、縁側のおかげで少し暖かくなってきた体で、金丸おじいちゃんのところへと向かった。



 家が燃えている。あたり一面火の手が回っている。火事だ。逃げなきゃ。

 お母さん、どこ?泣き叫ぶのに、誰もいない。お母さんはどこ?



「未由、未由」

ハッと、隣を見ると菜々がこちらを見て、ご焼香の順番だと言わんばかりの顔をしていた。

 何度か頭を下げつつ、開いていた列を詰める。

 お坊さんのお経と、木魚の音が会場に響いている。

 ご焼香を無事済ませると、美代子さんに頭を下げた。

「かなりご無沙汰しておりました」

詫びるかのように、深く頭を下げた。私が間に合わなかったのだ。

「そんなに他人行儀はやめてよ。家族じゃない?」

 顔を上げると美代子さんは、少し寂しそうにしていた。

 私はこれで、二人の家族を失ったということになる。

「でも、未由に久しぶりに会えて、父に感謝しているの」

美代子さんが金丸おじいちゃんの方を見る。

 美代子さんは私の知る限りでは、結婚はしていない。金丸おじいちゃんが亡くなったということは、この広い家に美代子さんが一人で住むことになる。

「しばらくいるなら、自分達の部屋を使ってね。そのままにしてあるから」

こちらを向いた美代子さんの目には、涙が光っていた。

 やはり部屋がそのままだったのは、美代子さんのお陰のようだった。


 夕方になり、拝みにくる人や親戚の人も落ち着いてきた。

 台所へ下げてきたグラスを運びながら、縁側を覗く。

 夕暮れどきだ。相変わらず、縁側には冬吾が座っていた。きっと、また拓や菜々に追い出されたのだろう。

 どこか、冬吾の背中は寂しそうに見えた。

「未由〜、それ下げてきたグラス?」

菜々が後ろに立っていた。私が頷くと

「な〜に覗いているのよ」

と、私の肩のあたりから、縁側を覗き見た。

「冬吾の座っている所、金丸おじいちゃんの特等席だったよね」

菜々が言った。まさにその通りだった。今思い返してみると、いつもあそこに座って景色を、遠くを眺めていた。

「きっと、冬吾なりの弔いの仕方だろうね」

菜々はそういうと、台所に行ってしまった。

 冬吾はただ黙って夕暮れの太陽を眺めていた。今日の夕日は、何だか私達の母親が亡くなった山火事の時のような不吉な色をしている気がした。

 カーっとカラスがどこかで一羽鳴く。

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