彼の場合
タッタッタッ……!
何故、俺は走って行かなきゃいけないんだ。本来ならもう待ち合わせ場所にいる筈なのに。どうして走らなきゃいけないんだ。
そもそもアイツが悪い。出掛ける直前にやって来ては俺の邪魔をする。アイツはいつもそうだ。アイツは俺が誰かといい感じになるのを止めやがる。だからといってアイツは俺に惚れてるのかと思ったら違うようだ。
兎に角アイツは俺が自分以外の女性どうこうなるのが嫌なだけだろう。
「ちくしょう……っ」
アイツのせいで本当に遅れてしまった。この日はとても暑い。汗だくになりながら走るのは学生の頃以来だ。しかも雨が降った後で蒸し暑い。
「ちくしょう……っ!」
俺はもう一度そう言って走る。待ち合わせ場所に向かって走る。そこにはきっと彼女はいてくれる筈……だった。
「……だよなぁ。もう2時間も経ってる」
そんなに長く待ってるわけないか。悪いことにスマホもアイツに取られていて連絡出来なかった。
情けなくて情けなくて、俺は街をさまよい歩いていた。
「ん?」
目に入ったのは一軒の喫茶店。カフェでなく、レトロな喫茶店だった。
「喉が渇いたし入るか」
俺は吸い寄せられるように喫茶店へと足を運んだ。
カラン……と昔ながらの音を鳴らした扉を開けるとやはりレトロな雰囲気満載の喫茶店だった。
「いらっしゃい」
カウンターから店主らしき人が声をかける。
「お好きな席へどうぞ」
促されて俺は空いていた窓際の席へと座る。そこから見える景色は不思議と違って見えた。
「ご注文は?」
「あ、アイスコーヒーを」
「畏まりました」
店主はカウンターに戻ると作りおきしていただろうコーヒーを冷蔵庫から出して氷が入ったグラスに注いだ。それと同時に他の客用にかサイフォンのコーヒーからカップへ注いでいた。
サイフォンから香るコーヒーの匂いが喫茶店に充満していた。
「お待たせしました」
俺の前にアイスコーヒーを置くと奥の席へはホットコーヒーを持って行った。
動きに隙がない。そのくらいキビキビとした人だった。
アイスコーヒーを一口飲んで、改めて喫茶店を見渡してみた。レトロなレジの横にレトロな色褪せた公衆電話が置かれていて、カウンターの隅にはガラスケースがあった。そのガラスケースにはケーキや焼き菓子が入っていてどれも旨そうだった。そして俺の席から右側へ目を向けると大きな本棚が置いてあった。
(店主の趣味か?)
俺は本には先程興味はない。学生の頃、教科書を開くのでさえ嫌だったくらいだ。
「本はお好きですか?」
店主の声がした方へ顔を向ける。にっこりと笑うその笑顔はとても優しかった。
「先程その席に座られてた方は2時間程、本をお読みになっていらっしゃいました」
よければどうぞ……というような仕草をしていたような気がした。そんなことを言われれば読まない訳にはいかなかった。
俺は席を立ち本棚へと向かった。本に興味のない俺にとってはどのタイトルも同じに見えてしまう。作家の名前でさえ聞いたことない。
あ、でもこの人は知ってる。だからといって読みたいわけではないな。指で背表紙を撫でていく。
(あ……)
一冊の本に釘付けになってしまった俺はそれを本棚から抜く。
「雨降る日に……」
ポツリと言った俺に店主は照れながら「私の本です」と呟くように言った。
私の本とは?
と頭の中で考えていると「自主製作で作りました」と帰ってくる。
「自主製作」興味のない俺にとっては馴染みのない言葉だった。
「子供の頃から作家になることを夢みていたんです。先程の方もそれを読んでくださいました」と遠慮がちに言うとカップを磨いていく。
「ふーん……」
たまには読んでみるか。どうせ予定はもうないし。彼女には振られてしまった訳だし。
本を席に持って行きパラパラとページを捲る。本を読まない俺でも読みやすい文章だった。
最後の一文字まで読み上げて顔を上げると二時間は経っていた。
成る程。俺の前に読んだ人と同じ時間だったか。それくらい読みやすい文章だった。
気付けばあたりは薄暗くなっていて、頼んだアイスコーヒーも氷が溶けてなくなっていた。
(彼女は怒っただろうな)
本を読んでいた時間は彼女のことなど思いだしもしなかったのに、読み終わると途端に思い出してしまう。
またこの恋も始まる前に終わるのかと情けなく思う。
「ご馳走様」
俺はそう言うと喫茶店を出た。
今度は俺からちゃんと誘おうか。でもその前にアイツをどうにかしなくてはならない。
この恋を始める為に……。
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