私が奏でる不協和音
かずき りり
第1話
――フラフラ、フラフラ。
夜の街並みを徘徊する。
視力が悪いのに眼鏡をかけていないから、周囲の景色はぼやけて見える。街の灯りさえも虚ろだ。
人の視線や表情が分からない事は助かるのだけれど、そこまで考えられる余裕もない。
「危ねぇな!」
ぶつかりそうになって怒鳴られ、心が恐怖ですくみ痛みを覚えるその瞬間、私は自身の腕をギュっと握り締めた。
「はぁ!?」
そんな言葉が聞こえたけれど、私は更に腕を握り締める。すると、どんどん服が濡れてくるのが分かった。
体内から溢れ出たばかりのそれは、温かくて……私の気持ちを落ち着かせてくれる。
まるで、人肌に包まれているような錯覚に陥るのだ。
「ちょっと……行こ。危ないよ」
赤く……血液に濡れていく服を見て、私に声をかけてきた人達は逃げるように去って行った。
「はは……」
乾いた笑いが口から洩れる。
腕が痛い。心が痛い……そして……頬も痛い。
ソッと頬に手を当てれば、先ほど漏れ出た血液が頬についたのが分かった。けれど、そんな事を気にする余裕もない。
――頑張った。頑張ったのに。
私は死に場所を求めるかのように、フラフラと彷徨い歩き始める。
片桐 智子。それが私の名前だ。
かしこい子に育つようという、親の勝手な望みを託された地味な名前を持つ私は、見事に外見までも地味だ。
伸ばしっぱなしでツヤすらない黒い髪の毛。顔立ちもパッとしない上に眼鏡までかけていれば、見事なザ・委員長といったところか。
実際、私は優秀だった。
中学での成績は苦労する事なく上位に食い込めていたし、生真面目な性格も相まって誰からも頼られていた。
そして見事に偏差値の高い進学高校に合格して入学したのだけれど……そこから一転したと言っても良い。
「遊んでる暇があるなら勉強しなさい!」
「学年一位を取りなさい!」
「難関大学に合格しなさい!」
まさかの進学校へ進んだ為か。母は成績が全てだと言うようになり、私の時間は全て勉強に費やされた。
栄養バランスの考えられた食事、しっかりと整理整頓されて掃除の行き届いた部屋、清潔な衣類。ここだけ見れば良い母親だろう。けれど、その裏では私に勉強以外の時間を使わせない為でもある。
そして有名な塾の費用、監視のような送迎……。
環境は整っている。整ってはいるけれど……中学と高校とでは私自身もまた違ったのだ。
――気を抜けば落ちる成績。
苦労せずについていけた授業は意味不明になり、予習と復習が必要になった。むしろ、それをしても足りない程だ。
必死に、必死に、必死に勉強して、やっとついていける程度で母は満足しない。
寝る間を惜しんで勉強して……何とか上位に食い込んでいる程度なのだ。
だけれど、そんな生活を一年もしていたら体調がおかしくなるのも当たり前で……ホルモンバランスを崩したのだろう私は、生理の痛みと貧血からテストの点数を大幅に下げてしまった。
「あんたは! 何をやってるの!」
成績表を見た母は激高し、そんな言葉を投げかけてきた。
そこに私への心配なんて一切ない。
……私の顔色が悪い事も、目の下に出来た隈が消える事なく染み付いている事も気が付いていないのではないだろうか。
「私がどれだけアンタに時間をかけてると思ってるの! 何なのこの点数は! こんなんで難関大学が合格できると思ってるの!?」
――気持ち悪い。
もはや母が母と認識出来ず、ただ気持ちの悪い物体にしか思えなかった。
自身の腕に爪を食い込ませる。自虐行為だって、いつから始まったのか覚えていない。否、始まりは簡単だったように思える。
眠気と必死に戦って勉強をして……そんな自分に虚しさを覚え、生きている意味すらとっくに失って……シャーペンを手の甲に突き刺した。
きっかけは、とても些細な事だけれど、私が自虐行為に手を染めている事すら母は気が付いていないだろう。
「……どうでも良い」
「はぁ!?」
心の底で思っていた言葉が表面に溢れ出たのだろう。私の口から洩れた感情の声は母の耳にしっかり届き、その目を吊り上げてヒステリックな声を上げた。
だけれど、良い機会なのではないかと思った私は、自分の思いを口に出す。
「別に大学へ行きたいわけでもないし。勉強がしたいわけでもな……」
バチンッ!!
言い終わる前に、耳に響く音と頬に走る痛み。
ガシャンと、飛ばされた眼鏡が床に落ちて割れる音が聞こえたけれど、脳が揺さぶられたせいか思考が止まり、自分が殴られたのだと気が付くまでに数秒かかった。
「何て事を言うの! 何の為に私がここまでしていると思ってるの! この親不孝者!」
あぁ、無駄だ。
無駄なのだと悟ってしまった。
この人に私の言葉は届かない。
――私が何をしたというのか。
夢や目標なんて特になかったのに、自分の力を試す為に進学校を受験した事が悪かったのか。
それに受かってしまったからいけなかったのか。
――私の何がいけなかったのか。
母の望みを叶える為にと自分を押し殺して、流されるまま勉強し続けていた私が惨めだ。
所詮母が欲しかったのは勉強のできる、自分の言う事を聞く、都合の良い人形なのではないか。
「来年は受験生なのよ!? もっと……智子!?」
先の言葉なんて聞きたくなくて、私はそのまま家を飛び出した。
行く当てなんてないけれど、あそこに居たくなかった。
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