前章 10年前

兎束絋汰の思い出 Part1

人は誰しも、綺麗な思い出の一つは必ず持っている。

 

 俺にもある。

 確か、あれは三歳か四歳、いや五歳くらいの時か。

 

 “いずみちゃん”という名前の、当時俺にはよく一緒に遊んでいた女の子がいた。

 ペニチュアという綺麗な花がたくさん咲いている場所でよく遊んでいた。

 その花畑から家が近かったので、毎日そこへ通っていた。

 

 出会いは唐突だった。

 

 ある日、いつものようにペニチュアが咲く花畑に来ていると、見たことのないような美しい羽を持つ蝶が優雅に飛んでいた。

 その青がかかった緑の羽に魅了され、気がつけばその蝶を追いかけ回していた。

 本当に夢中で追いかけていたのだろう。蝶に気を取られていた俺は視野が狭くなっており、目の前にいる人を避けることができなかった。


「わっ!」


 案の定、ぶつかって尻もちをついてしまった。

 痛いなぁ、とは思いつつも、母親にこういう場合はまず謝ることと教わっていたので、俺は素直にその言いつけを実行した。


「ごめんなさい。蝶ちょ追いかけていて前が見えなかったの」

 

 謝りながら、どんな相手とぶつかったのか気になったので、俺は恐る恐る顔を上げた。

 怖いおじさんじゃないといいななんて思いながら。

 

 相手の顔を見て、俺はホッと安心した。

 想像した怖いおじさんではなく、自分と同年代くらいの女の子だったからだ。


「私は大丈夫だよ。それより君は?」

 

 俺の心配をしてくれてるらしかった。

 俺は自分の体に傷だったり、痛いところがないか確認した。


「大丈夫だよ。僕の体のどこにも怪我はなかったから」


 そう返事をした。

 それを聞いて、女の子は微笑んだ。そして俺に手を差し伸ばしてくれた。

 五歳の俺には思春期特有の恥ずかしさとかは全く無かったので、素直にその手を受け取った。

 

 立ち上がった俺は、もう一度女の子の容姿を見た。

 身長は同じくらいで、長い黒髪を風に靡かせながら、優しい笑みを浮かべていたーーーと思う。


「さっき、蝶ちょを追いかけていたって言っていたけど、どの蝶々を追いかけていたの?」


 訊かれたので、俺は先ほどの蝶ちょを目で探した。

 あたりをしばらく見渡すと、あの美しい蝶を見つけた。

 俺はその蝶の方へ指を示した。


「あの蝶ちょだよ」

「あの綺麗な蝶ちょ?あれはね、ミドリシジミって名前なんだよ」

「ミドリシジミっていうの?すごい!初めて聴いたよ!」


 すると、女の子は自慢げに笑みを浮かべた。


「じゃあ、この赤紫色の花は知ってる?名前はねーーー」

「僕知ってるよ!ペニチュアだよね!ママがこの前教えてくれたんだ」


 俺がペニチュアを知っていると知って、女の子はねてしまった。

 その頃の俺に、空気を読む力はなかった。

 あったなら、「う〜ん、分かんない」なんて台詞を多分言っていただろう。


「なぁんだ。知ってたんだ。つまんないなぁ」

「でも、とっても綺麗だよね!ペニチュア!僕、このお花大好きだよ」

「私も大好き。見てると優しい気持ちになれた気がするの」


 そう言って、また女の子は微笑んだ。


 それから、俺たちは毎日のように、ペニチュア畑へ行っては遊んだり話したりして、楽しい時間を過ごしていった。

 

 そうしていく内に、女の子は俺を“こーちゃん”と、俺は女の子を“いずみちゃん”と呼ぶようになった。

 

 本当に色々あった。

 時には、

「こーちゃん、てんとう虫逃げちゃうよ。早く捕まえてよ」

「いずみちゃんも追いかけてよ。ほら!そっちに飛んでってるよ!」

 など、てんとう虫を追いかけたり。


 また時には、

「こーちゃん、私にペニチュアの冠を作って!」

「いずみちゃんならもっと可愛くなると思うけど、お花摘むのはお花が可哀想だから、僕やだよ」

「え〜、残念だなぁ。でも、やっぱり可哀想だからいいや!」

 などと、優しさに溢れた女の子との会話だったり。


 とにかく、毎日が毎日が幸せで楽しくて、あっという間に日々は過ぎていった。

 通っていた幼稚園にも仲の良い友達はたくさんいたが、その女の子以上に親しい人はいなかったと思う。

 実際、失礼な話だが、幼稚園の時に仲の良かった友達の顔と名前は全て忘れてしまった。

 小さい頃の人間関係なんてそんなものだ。

 後の本当に大切な友達を作るための、第一ステージに過ぎない。


 そうとは分かっていても、忘れることができないくらい、女の子との日々は幸せだった。


 しかし、現実は残酷だ。

 不変というものは絶対に有り得ない。

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