第7話

 


 宮殿に連れ帰られたシンシアを待っていたのは、お風呂だった。

 泥濘んだ地面に倒れていたのだから洗われるのも無理はない。


(ひぎゃああああ! ごめんなさい、ごめんなさい。もう勘弁してください!)


 人肌程度のぬるめのお湯だがそれはシンシアにとっては拷問だった。

 首までしっかりと泡風呂に浸けられ、固く絞ったタオルで顔を拭かれる。のみやダニの心配をしているのか侍女は丁寧にシンシアの身体を洗い上げた。

 今は漸く身体を乾かしてもらっている。

『私には自動浄化作用が備わっているのよ……言っても誰にも通じないけど』



 しっかりとブラッシングされ、首にリボンを付けられた後、ソファの上のふかふかのクッションに乗せられたシンシアは疲れ切った声で世話をしてくれた侍女に文句を言っていた。

 当然言葉が通じるはずもなく、侍女は世話が終わると一礼して逃げるように部屋から去っていく。

 そんなに急がなくても、と心の中で呟いたが答えはすぐに分かった。



「嗚呼、とっても綺麗になったな。青いリボンがよく似合う」


 この部屋には誰もいないと思っていたのに。



 恐る恐る身体を捻れば、ソファの背もたれに顎を乗せてこちらを覗き込むイザークの姿があった。人間の時にひしひしと感じていた殺気はかき消え、にこにこと甘やかな笑顔を見せている。


 後方には年季の入った艶やかなローズウッドの机があり、書類や書簡が置かれている。壁にはアルボス帝国を象徴する翼の生えた獅子と月桂樹のタペストリーがあり、その両サイドには幾つもの分厚い本が収まった本棚がある。


(もしかして、ここってイザーク様の個人的な部屋? どうりで侍女が逃げ帰るわけね。国家機密の書類もあるだろうし、一歩間違えれば雷帝の不興を買って首を刎ねられるかもしれないもの)



 そんな恐ろしい場所に残されたシンシアは生贄にされた気分になった。


 すると、いつの間にか横に座っているイザークにひょいっと抱き上げられた。膝の上に乗せられて、背中を撫でられるが疲れ切っているので抵抗する気力もない。


「今日からここがおまえの部屋だ。この部屋は俺の寝室と繋がっていて、持ち帰りの仕事をする場所として使っていた」


 必要なものは全て揃えたから好きに使うといい、と言われ辺りをきょろきょろと見回してみると様々な家具が置かれていた。


 それはただの家具ではない。

 どれも高級木材で造られ、精巧な彫刻が施された逸品だった。金や銀、宝石の装飾も施され、豪華絢爛さに目が眩みそうになる。



 中央教会は信者たちの寄付によって成り立っている。聖職者たちは質素倹約を美徳として暮らしているため、目の前に広がる贅の限りを尽くした調度品の数々にシンシアは圧倒されてしまった。

 職人の技が光る金細工で装飾されたキングサイズのベッドに肌触りの良さそうなシルクの布団、遊べるようにと設置された高級木材製のタワー。さらに磨き上げられた猫用銀食器などなど。



 呆気にとられていると、イザークが優しく語りかける。

「おまえの名前を考えたんだが、『ユフェ』にしようと思う。いい名前だろう?」


 ユフェというのはティルナ語の言葉だとシンシアはすぐに分かった。日常的に精霊魔法を使う身としてはティルナ語は第二言語であり、すぐにアルボス語に変換される。


(でもユフェってアルボス語に訳すと『尊い』って意味だよね……何の捻りもないじゃない)

 正直なところ、センスの欠片もない名前だと思った。


「ユフェ。はあ、ユフェは尊い。尊いはユフェ」

 恋人に語りかけるかのような甘ったるい声を出してくるので、シンシアはイザークが見えないところで思いっきり顔を顰めた。


(なんか調子狂う。だってあの雷帝が猫一匹でこんなにメロメロになるなんて……おかしい。落差がありすぎてどっちが素なのか分からないわ。しかもまあまあティルナ語の発音が良いから癪に障るし!!)


 ティルナ語は発音が難しく、故に神官になれる者が少ない。

 神官になれても毎日真面目に発音練習をしなければいざという時に精霊魔法が使えない。それはシンシアも例外ではなく、毎日発音練習に励んでいた。



「ユフェ、美しいおまえのために『森の宴』を首輪にして贈ろうと思う。きっと似合うぞ」


『森の宴』とは帝国の秘宝のことだ。美しい黄緑色で角度によって赤やオレンジのファイアを持ち、森の中で精霊がダンスを踊っているように見えることからそんな名前がついたという。

 小鳥の卵くらいのそれは、本来皇帝が妃になる女性に贈る品だ。


(いやいや、贈る相手明らか間違ってる。まさしく猫に小判状態じゃないの!)


 豪華絢爛な家具といい、用意する首輪といい、このままでは国庫を食い潰しそうな勢いだ。

 傾国の美女の話は聞いたことがあっても傾国の猫なんて聞いたことがない。

 悪いことはしていないのに、シンシアは悪女になったような気分になって罪悪感でいっぱいになった。


(早くヨハル様か、ルーカスに会って解呪してもらわないと! このままじゃ私のせいで国が滅びてしまう!!)


 ここから教会の距離は人間の足で二時間くらい掛かる。猫の足だと一体どれくらいの時間が必要になるだろうか。

 なによりもまずはこの広大な宮殿内を把握しなければ、外へ出るに出られない。


(とにかく隙を見て逃げないと。使用人の出入り口なら積み荷に紛れてハルストンの市街地まで行けるはず)

 今後の計画を練っていると、扉を叩く音がした。イザークが返事をすると深刻な表情のキーリが部屋に入ってくる。



「陛下、お寛ぎのところ大変恐縮ですが緊急事態です」

「どうした?」

「討伐部隊に派遣されていた中央教会の神官、詩人が行方不明になっています。先ほど中央教会と連絡を取ったのですがその詩人、実は聖女・シンシア様だったんです!!」


 その言葉に、シンシアを撫でるイザークの手がぴたりと止まった。

「派遣されていた詩人が聖女だと? 詳しく話せ」



 キーリはことの次第を詳しくイザークに説明した。

 中央教会側が人手不足で聖女を神官と偽って派遣したこと。救護所が上級の魔物に襲われたこと。

 さらに討伐部隊の隊長曰く上級の魔物が救護所に現れた時、前線で戦っていた討伐部隊では主流魔法が使えない状況にあったらしい。



 主流魔法は精霊魔法同様、誰もが使える力ではない。そのため帝国騎士団に入るには魔力試験を受けなくてはいけない。

 要するに魔力と剣の腕がなければ試験を受ける資格はなく、反面その二つが揃っていて適性があれば身分関係なく入ることができる。


 主流魔法は精霊魔法とは違い、空気中に含まれる魔力を体内に取り込んで使用する。空気中の魔力濃度が薄い地域でなければいつでも使用が可能だ。

 ネメトン付近は平生なら問題ない地域だが、当時全員が魔法を使うことができなかった。



「全員が使えなかったというのは大変不可解です。新種の魔物の仕業でしょうか? 腕が立つにせよ、主流魔法の使えない状況下での討伐は骨が折れたことでしょうね」


 事実を知ったシンシアは、なんだか居たたまれない気持ちになった。主流魔法が使えない状況の中で魔物の討伐など分が悪すぎる。討伐部隊の皆は無事だろうか。


(ううっ、隊長。あの時心の中で嘘つきって叫んでごめんなさい)

 ついでに目がガラス玉と罵ったことも訂正する。

 頭を垂れて心の中で懺悔していると、キーリが報告を続けた。


「負傷者はいますが幸いなことに皆命に別状はありません。選りすぐりの精鋭部隊なだけはあります」

 キーリの言葉を聞いてシンシアは安堵の息を漏らした。


「それで聖女の捜索はどうなっている?」

「詩人がシンシア様だと知った隊長が隊員とともに血眼になって探しています。ネメトンの結界が消えていないので必ず生きているはずです。ただ、最新の情報によれば救護所周辺では見つかっていません」


 それもそうだ。くだんの聖女は雷帝の膝の上にいるのだからどんなに人員を割いたところで一生見つからない。



(ここまで心配と迷惑をかけてるなんて知らなかった。こんなの絶対駄目。一刻も早くヨハル様かルーカスに会わなくちゃ!)


 いてもたってもいられなくなってイザークの膝の上から飛び降りる。

 すると、暫く黙り込んでいたイザークが低い声でキーリに言った。


「……失踪した聖女・シンシアを見つけ次第、即刻俺の前に連れてくるんだ。彼女には――いろいろと言いたいことがある」


 含みのある言い方にシンシアはドキリとした。

 一方でキーリは顎に手を当てて神妙な顔をしている。


「確かにそうですね。彼女は戴冠式以降、宮殿の式典の参加を避けていて、一向に陛下と顔を合わせないようにしています」

 それはイザークの逆鱗に触れないように立ち回った結果だ。これ以上、うっかり粗相なんてすれば処刑は免れない。


 キーリは掛け直した片眼鏡を光らせた。

「これを機に陛下の前に引きずり出せればいいですね。はっきりすっきりするためにもそれが絶対に良いですよ」



 さすがは雷帝の次に敵に回してはいけない男。随分と手荒な真似である。そして一体何をはっきりすっきりさせたいのか分からなくてシンシアは首を傾げた。

 キーリはうんうんとどこか納得する様子で続けざまにこう言った。


「陛下、今度は是非とも彼女を射止めてくださいね」



 その真剣な表情を見て、シンシアに戦慄が走った。

 思わずイザークの方を向くと彼は眉間に皺を寄せ、極悪非道な顔つきになっている。


 間違いない。イザークは戴冠式の宴での粗相を未だに根に持ち、そして怒っているのだ。



(私を射止める? 弓矢で殺す気? 処刑って基本的に斬首だけど、新しい方法でも考えているの!? ということはつまり、このまま人間に戻ったら今度こそ私――殺される!?)


 大変だ。早くここから遠いどこかへ逃げなくては。

 シンシアは扉の前まで全力で走った。ところが二本足で立ってもドアノブまでは距離があり、加えて人間の手で握って捻らなくてはいけない形状のため猫の足ではどうにもならなかった。


『そ、そんな……。これってもしかして監禁状態!?』

 前足の爪で扉をカリカリと引っ掻いていると後ろからすうっと影が伸びてきた。


「ユフェ、どこへ行こうとしている?」


 突然頭上から降ってきた声に反応して頭上を仰ぐと、そこには甘やかな雰囲気は消え、恐ろしい殺気に満ちたイザークが仁王立ちしてこちらを見下ろしている。

 紫色の瞳を光らせ、まさに獲物を狙う獣の如く獰猛で凶悪。



(ひぃっ、顔面凶器に殺される!!)

 鋭い瞳と威圧的な雰囲気に圧されたシンシアは、とうとう気絶してしまったのだった。


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