第16話 大阪本部長と共同戦線?
夕方になって滝川府警担当キャップから大神のスマホに電話がかかってきた。
「今晩空いていないか。会わせたい人がいる」
「夜は空いています」。夜回りの予定もなく、今日は早めにホテルに戻って休もうと思っていたところだった。滝川は刑事部長にセイラのことをあてたのだろうか。その結果を知らせてくれるのだろうか。
午後7時半。滝川が指定した大阪の歓楽街、北新地のど真ん中にある老舗の料亭を訪ねた。個室の真ん中に置かれた4人掛けの机では、滝川と横に座っていた年配の男性がすでにビールを飲み始めていた。
「こちらは、大阪府警本部長の安田さんだ。大神に会いたいとおっしゃるんでね」
「大神さんとお会いできてうれしい限りです」と安田が丁寧な言葉遣いで話した。
「いえ、こちらこそ」。まさか府警本部長が来るとは思わなかった。府警のトップ。将来の警視総監か警察庁長官とか言われている人物だ。大神は捜査一課担当の記者が来るものとばかり思っていただけに、びっくりすると同時に緊張した。
「刑事部長は出張中だった。そこで、安田本部長室にお邪魔したんだ。大神が今大阪にいるという話をしたら、いたく関心を持たれてね」
「そうなんですよ。私は大神さんの2年前のスクープがとても印象に残っているんです。後藤田武士が率いた日本防衛戦略研究所の悪事を暴露した記事です。あの後、記事の後を追うように警視庁が捜査したが、その指揮をとったのが私でした。防衛戦略研はとんでもない組織でした。壊滅できたのは大神さんのおかげといっていい」
黒縁のメガネを通して、小さい目がじっとねちっこく大神を見つめた。滝川は安田のビールのコップが空になったのを見て、お猪口に日本酒を注いだ。安田はぐいっと一気飲みした。昼間はトップとして威厳をもって職務にあたっているのだろうが、北新地の夜に足を踏み入れると、アルコールのせいでもあると思うが、ごく普通の気さくなおじさんに変わっていた。
「ところで大神さんはセイラに会いに行ったんですね」。安田が突然言った。いきなりだったので、大神は意表を突かれた。
「情報が早いですね。私が会ったのは昨日ですよ」
「おっと、それは聞いていなかったな」。滝川はびっくりしたような顔をした。
「長野県警から大阪府警捜査一課に連絡が入りました。セイラを新聞記者が誘拐しようとしたという内容でした」。セイラの叔父が言っていた通り、地元の警察に通報したようだ。
「誘拐? ただごとではないな」。滝川が不審な顔で大神を見た。
「確かにセイラちゃんには会いました。夏樹さんが亡くなられてしまい、どうしているのだろうかと思って行きました。誘拐しようなどとは決して考えていません」
「大神さんは神出鬼没だ。しかも核心を突いた動きをする。我々は尾行をつけてもいいかと思うぐらいです。ところで、セイラは何か言っていましたか」
「何かって。警察でもセイラから話を聴いているのではないですか」
安田は困ったような顔をした。
「そもそもセイラは話せるのですか。セイラは全く事情聴取には応じませんでした。事情聴取ではないな。婦人警官がやさしく語りかけても一切、言葉を発しなかった。児童相談所の担当職員が面会しても話さなかったようです」
「そうだったんですか」
「ところが、大神さん、あなたが松本市の親戚の家に訪ねて行った時、セイラはしゃべったそうですね。『おねえちゃんをいじめないで』と言ったとか。現地の叔父とその息子もセイラが話したのを聞いたのは初めてだったので驚いていたようですね」。相当詳しい報告書が大阪府警に届いているようだ。
「確かにセイラとは話をしました。叔父さんと息子さんが来る前は『毒物を入れたのはママじゃないから』と言いました。それだけです。さらに聞こうとしたのですが、叔父さんたちに取り囲まれてしまって。それ以上は何も聞けませんでした」
これぐらいは言ってもいいだろう。本部長から捜査方針を聞き出すまたとないチャンスだ。手持ちの情報を出しても見返りをとればいい。
「ほかには」
「ほかには言っていません。叔父さんたちに会話は止められました」
「そうでしたか。今日、滝川キャップが本部長室まで来て、セイラが混入したということは考えられないか、と言われたので驚きました。誰がそんなことを言っているのかと聞いたのです」。本部長は日本酒を水のように飲んでいった。ピッチが速かった。
「いえ、それはわたしの勝手な妄想です。失礼しました。大神がそのように話したわけではありません」と滝川が言った。
「率直に聴きますが、混入した人物について大阪府警はどう見ているのですか」と大神がずばりと聞いた。
「捜査一課長が話している通りです。まだ容疑者といえる人物は浮上していない」
「夏樹さんは毒物の混入については一貫して否定していたのですか」
「それは本当です。混入については最後の最後まで認めなかった」
「夏樹さんの疑いは晴れたと言っていいのですか」
「晴れたとは言えない。宴会場まで行っていたのは確かですからね。防犯カメラに映っているし、本人もその点までは認めた。しかし、調理場には入っていないと言い切っているし、実際、映像でも調理場に入ったかどうかは確認できていない。ここがネックになっていて、夏樹を逮捕することはできなかった。本人の供述しかなく、何度も参考人として事情聴取したのです。事件のカギを握る重要なキーマンだった。亡くなってしまい、捜査は暗礁に乗り上げそうな状況です」
「セイラはホテルに行っているのですか」
「行っています。ホテルに入ってからいろいろな所で遊んでいました。カメラで確認できています」
「滝川キャップが言われたように、セイラがなにかの拍子で間違ってでも入れてしまったということは考えられませんか」
「可能性としてはあるかもしれないが現実的ではないでしょう。ただ、我々には全く話さない。何を考えているのかわからない。不気味な女の子のようですな」
そこまで言うと、安田本部長は、突然話を変えた。
「大神さん、私と手を組みませんか。共同戦線を張るんです。お互いに一定の制約の元で情報交換を積極的に進めていく。昼間に本部長室で滝川キャップと話し合い合意に達しました」
「共同戦線?」。大神にとっていきなり話題が変わったのと、共同戦線という言葉の意味がわからず戸惑った。
「ここからは俺が説明しよう」。滝川が「出番が来た」とでもいうように姿勢を正した。
「毒物混入事件の解決はまだ先だ。捜査も難航していると言っていい。そこでだ、事件の解決に向けて、警察とわが社が手を組むんだ。大神が事件に関して入手した情報はすべて安田本部長に提供し、捜査に役立ててもらう。その見返りに、大阪府警が事件として着手したり、大きな区切りがあったりした時は事前に優先的に俺と大神に話してもらう。もちろん、発表前だ。その情報を記事にするかどうかはこちらが判断する」
「大神さんがどこでどんな取材をしているのかも逐次報告していただけるとありがたい」。安田本部長が追加した。
共同戦線とか、取材情報や行き先や取材内容の報告だとか、大神にとっては信じられない内容だった。テレビ番組で流行りの「ドッキリ」なのか。そんなことまで思った。だが、2人の顔をしげしげと見たが、真剣な顔をしていた。「一体、この人たちは何を考えているのか」。だんだんと怒りが込み上げてきた。だが、一気にぶちぎれることはぐっと抑えた。
「私の取材データをすべて提供するということですか。ちょっと意味がわからないのですが。そもそも強制力のある捜査機関が持っている情報量に比べれば、私の取材で得たデータなどほんのわずかなものだと思います。府警に提供しても役には立たないのではないでしょうか」
「ご冗談を。大神さんの取材力が折り紙付きだというのはみんなが知っていることです。独自に足を使って集めてくる情報量は多くて貴重なものばかりだ。今回の事件でもセイラに狙いをつけたセンスの良さはさすがです。そして信頼させて、話を聞き出すことに成功した。セイラからもっと話を聞き出してください。府警の聴取に対しては今のところ完全黙秘が続いている。母親を亡くしたセイラのためにも真相究明に協力していただきたい」
「私の取材メモが、捜査に役立つ、真相究明に結びつくということであれば、取材先との信義にもとるものでなければ、提供も検討しますが、最初からすべての取材内容を提供するというのはおかしな話です。捜査機関と報道機関の役割は違います。一定の緊張関係を保つ必要があると思います」
「権力チェックですか。しかし、時代は変わって来ていますよ。『孤高の党』が政権を握ってからはどんどんマスコミへの締め付けが強くなっている。一方で党と報道機関の間で協力体制を取る動きも出始めている。私と大神さんの間でも、事件の全容を明らかにしていくという点では共通していますよね。すべては社会正義の実現のためです。個人同士の契約でもいい。ここだけの話ですが、私は今の下河原政権の中で隠然たる力を持っている内閣官房副長官にかわいがってもらっているんです。副長官には大神さんと会うことを事前に耳に入れています。喜んでくれていました。副長官からの情報では、私の次の異動先は警察庁のトップです。今回の事件だけでなく、今後も仲良くして情報交換していきましょうよ」
「悪い話ではないと思うけどな。権力チェックの志を変える必要はない。この申し合わせは、今回の事件に限っての話だ。警察は犯人をあげる。そのためにマスコミも協力する。報道機関としては特ダネがほしい。実力者である副長官とのパイプができれば今後の取材にも役にたつ。この申し合わせは文書にするわけではない。紳士協定だ。互いにウィンウィンの関係でいいじゃないか」。滝川が意図を流暢に説明した。
「お断りします」。大神ははっきりと断った。大きな声を出したので、安田も滝川もビクッとした。次の瞬間、安田は露骨に嫌な顔をして、滝川が大神を睨みつけた。 だが、大神は動じなかった。あいまいなままにしていいことと悪いことがある。警察庁キャップの興梠からの要請を受けて極秘裏に夏樹を取材した苦い経験が頭をかすめた。
もっと社内でオープンに話し合い、思ったことを主張していれば、紙面化する時も違った展開、内容になっていたかもしれない。本部長からは聞きたいことがいっぱいあった。酔って口が滑らかになっていくのがわかったので、提案を受け流しながら調子を合わせて聞けることはすべて聞き出してしまうことも可能だったかもしれない。しかし、やらなかった。というか、できなかった。
「正々堂々とやればいいと思います。警察は捜査する。マスコミは捜査の進捗状況を報道する。そして、独自取材については社の責任において報じる。紳士協定とか契約とかを結ぶ必要はないと思います。私は今の話についていけません。本部長と滝川キャップとの間でどのような話し合いをしたのかは知りませんが、私を巻き込むことはやめていただきたい」
「なにきれいごと言ってんだ。独自に勝手な取材をしたあげく、夏樹を犯人にしてしまったのはどこのどいつだ」。滝川が吐き捨てるように言った。安田本部長も嫌な顔をしたまま黙り込んでしまった。
食事会はそのままお開きになった。
大神は大阪本社に戻った。1人になった時、悔しくて悲しくて泣いた。
最悪の気分だった。府警本部長の本当の意図がどこにあるのか。セイラが話した内容、セイラに関する情報をどんなことでも聞き出したい。大神に期待しているのはそれだけなのかもしれない。百歩譲って本部長が勝手で世間的な常識のない人だったとして一方的なことを言うのはわからないでもない。しかし、滝川キャップの姿勢はどうだ。あれでは報道機関としての役割を放棄したのも同然ではないか。ジャーナリズムを愚弄している。
「真相を究明しなければならない」。夏樹の死で記者を辞めようかと一度は思ったが、やらなければならないことがあった。毒物混入事件の真相を明らかにすることだ。
府警本部長から常識はずれな提案を受けたことで逆にやる気になってきた。ただ、時間はない。「孤高の党」からは睨まれている。警察も敵に回したようなものだ。そればかりか、社内でも浮いた存在になりつつあった。
どこまでできるかわからないが、独自に取材を進めていこうと考えた。
(次回は、■国民自衛防衛団大阪代表)
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