第一章 大惨事

第1話 空を飛ぶ大神由希

大神由希は空を飛んでいた。カブトムシの格好をした4人乗りの空飛ぶクルマ「カブトン」に1人で乗り、高度30メートルの空中をゆっくりと旋回していた。

近未来の移動手段としてテレビCMでも盛んに宣伝されている「カブトン」はドローンを大きくしたタイプで、横に広げた4枚の羽を上下に激しく振動させているが、運転席の揺れはほとんどなかった。

「気持ちいい。快適、サイコー」。大神は大声で叫んでいた。

地上車の販売台数が世界でトップクラスの豊高自動車が中心になった企業体による「カブトン」の報道陣向けの体験搭乗会が、東京都中央区の晴海ふ頭近くの公園広場で開催され、順番待ちのマスコミ関係者が列をなした。「カブトン」は近く、地方都市での運用が試験的に始まる。世界中で空飛ぶクルマの開発競争が激化している。すでに実用化に踏み切ったところもあるが、豊高自動車も事業化に向けて10年前から巨額の資金を投入して研究、開発を進めてきた。

大神は朝夕デジタル新聞社社会部調査報道班の中核記者だったが、国会議員による政治資金をめぐる不正キャンペーンが一区切りつき、時間の余裕ができたので、「カブトン体験搭乗」に手をあげた。応募者が多く、1時間待って乗り込んだ「カブトン」の乗り心地のよさについはしゃいでしまった大神の姿を、地上の固定カメラで見守っていた豊高自動車の技術担当のスタッフたちがうれしそうに見守っていた。

「自動運転から一部手動に切り替えます。ハンドルをゆっくり右に回してください。慎重にお願いします」。技術者の1人がマイク越しで声をかけた。

「はーい」。乗車前に教えてもらった手順にそって、ハンドルを回すと、「カブトン」はそれまでの円軌道から外れて進行方向を変え、海に向かった。

「『ブレードランナー』の世界ですね。タイムマシンに乗って未来にワープしたみたいです」。大神はお気に入りのSF映画を持ち出すほど興奮していた。

「随分古い映画ですね。まあ空飛ぶクルマが行き交うシーンは間もなく現実世界で見られることになりますよ」。無邪気に喜ぶ大神の反応に、スタッフもうれしそうだった。

その時――。大神のブレザーの胸ポケットに入れていたスマホが振動した。反射的に時計を見た。午後2時半を少し回っていた。手に取って画面を見ると、社会部デスクからの電話だった。緊急連絡だろうか。出ようかどうか一瞬迷ったがやめた。この自由な時間と空間をもう少しだけ楽しみたかった。

「カブトン」は海の上空を時速50キロで沖に向かって飛んだ。そしてハンドルを回して旋回し、公園広場上空に戻り、垂直に着陸した。

 「どうでしたか乗り心地は」。豊高自動車のカブトン担当課長の高嶋雅彦が近づいて来た。

 「もう最高でした。もっと揺れるかと思ったのに、振動が少ないのは驚きでした。このクルマで空を飛んで自由に移動できたら最高ですね。行きたいところに簡単に行ける。そんな時代がすぐそこに来ているという実感が湧きました」

 「ありがとうございます。体験ルポの記事、お願いしますね」

「任せてください。感じたままを書くだけで、迫真の内容になるでしょう」

高嶋課長によると、地方での試験飛行を繰り返しながら、救助用、物資の運搬などで実績を積み、法制度が整った後、空域を決めて商業飛行が認められることになるという。豊高自動車は、大量生産に入る態勢を整えつつあり、すでに東南アジアの国からは2年後の期日で、観光用として800台の発注がきていることも明かした。

「カブトン」には、順番待ちしていた他の報道機関の記者が乗り込み、すでに上空を旋回していた。大神は、その場を離れてからスマホ画面を見た。

「至急 連絡せよ。至急だ」。社会部事件担当デスクの井上諒からメッセージが入っていた。井上は長く遊軍キャップだったが、4月にデスクに昇進していた。

「はい、はい、何事でしょうか」。ごく軽い感じで独り言を言いながら、電話をかけると、井上がすぐに出た。

「今、どこだ」

「晴海です。空飛ぶクルマの試乗会です。空中散歩して今降りてきたところです。とても爽快な気分、ルンルンです」。井上とはこれまで、幾多の難事件を共に担当してきた。気心の知れた先輩だけに、デスクになってからも気やすい感じで接していた。

「ふざけるな。なんですぐに電話に出なかった」。井上の口調は厳しかったが、本心から怒っている感じではなかった。

「上空を飛んでいたんですよ。飛行中の電話は禁止だし、話に夢中になって墜落したらどうするんですか」

「そんな危ない乗り物に乗るな。まあいい、わかった。いい知らせと悪い知らせ、両極端の話が2つある。どっちから聞きたい?」

「いい知らせの方からお願いします」

「オールマスコミ報道協議会の結成パーティが大阪で開かれた。そこで第一回目の『オールマスコミスクープ大賞』に、社会部調査報道班による『謎の傭兵集団のスカウトが暗躍』が選ばれ、表彰された。大神の突撃取材のおかげだ。おめでとう」

「それは、それは、大変光栄です」。うれしい知らせだったが、後に続く「悪い知らせ」の方が気になって素直に喜べなかった。大事件、大事故の発生か、あるいは大災害なのか。それとも最近出稿した記事に誤りがあるとかで抗議がきたのか。

「悪い方だが、今の吉報をすべて吹っ飛ばす話だ。スクープ大賞が決まったオールマスコミ報道協議会のパーティ会場での大惨事だ。午後1時半ごろ、会場で次々に人が倒れて病院に運ばれた。重体の人もいる。現在詳しい状況は警察と消防で調査中だ」

「集団食中毒ですか」

「わからん。確かにホテルからの119番通報の第一報は『食中毒の発生』だったが、それにしては容態が重すぎる。未確認だが死者がでているという情報まである。実は、うちの社長も倒れて病院に運ばれた」

「堂本さんが……」。続く言葉がでなかった。オールマスコミ報道協議会の設立に尽力し、初代会長に就任した時に喜んでいた顔が頭をよぎる。

「単なる食中毒ではなさそうですね。まさか事件?」

「その可能性がある。そこで、君に大阪に行ってほしいんだ」

「私がですか」。大神は驚いて大声を出していた。調査報道班の担当記者は日々発生する事件に駆り出されることはめったにない。調査報道班が掘り下げる「ネタ」が日の目を見て記事になるのは半年に1回ぐらいだが、弾けた時のインパクトは超ド級に大きい。そのために、普段は「地下に潜る」と言っては、端緒探しの取材に走り回っているのだ。

「新宿の連続放火殺人事件に警視庁の事件担当がかかりっきりになっていて東京を離れられないんだ。遊軍からはすでに3人が新幹線で向かっている」

大神は大阪出張に問題はないことを井上に伝えた。次の調査報道のネタはいくつかあり、明日から取材に入ろうと考えていたが、具体的な取材のアポはまだ入れていなかった。

「新幹線で大阪に向かえばいいですか」

 「いや、君は羽田空港に向かってくれ。社の専用ジェット機が待機している。系列社の記者と一緒に伊丹空港まで飛んでくれ」

 「了解しました」

大神は、高嶋課長にこの場から離れることになったと話した。報道関係者が全員搭乗した後、軽い立食パーティが予定されていたが、大神は出席できなくなった。

「パーティでは、世界での開発競争の現状、『バーティポート』という離発着場や充電ステーションの設置計画、AIの活用など最新情報をまとめた映像を流します。大神さんにも見て欲しかったな」。大神のように真からカブトン搭乗を楽しんで評価してくれる人にこそ、パーティに出席して欲しかったようで、残念そうな表情を浮かべた。

 「すぐに大阪に向かうようにデスクに言われたもんで」

「そうなんですか。事件ですか」。高嶋は興味深々といった感じで聞いてきた。

 「大阪でマスコミ関係者の集団食中毒が疑われる案件が発生したようです」

 「記者さんも大変ですね。いろいろなところに行かなければならないから。しかも急に」

 「そうだ、今から羽田空港に向かいますけど、『カブトン』で送ってくれたらありがたいのですが。お願いできますか」。大神は無理を承知で笑いながら言った。

 「能力的には十分可能です。送って行きたいのは、やまやまなのですが、飛行許可を取っていません。許可を取るのも現状では限られた空域でしか認められていないし、時間がかかるので残念ですが、お送りすることはできません」。大神は冗談で言ったのだが、高嶋があまりにも真剣に答えるので焦った。好奇心は旺盛そうだが、相当まじめな人のようだ。

 「わかりました。タイヤだけの車で向かいます」

 「また、いつでも来てください。それと大神さんの命にかかわるような緊急事態の時は私に連絡してください。ルールを無視してでも『カブトン』で助けに行きますから」

「おっ、言ってくれましたね。その言葉、絶対に忘れませんから。身の危険を感じることはしょっちゅうあるので、そんな時は一番に連絡させていただきます」

2人は名刺を交換した。

(次回は、■電波ジャックで総理が登場)

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