七星を仰ぐ

 澄んだ夜の空気が肺を満たす。柔らかな若草が緑の絨毯を作り、優しく淡い夜風が木々を観客へと変える。満天の星空は舞台となる世界をを分け隔てなく照らしていた。

 ステージにただ一人立つピエロにもなれぬ道化ぼくは、ただ立ち尽くしていた。

 ここはどこなのだろう。星の見える村の広場は石畳でできていて、こんな野山とは似ても似つかない。それに、ついさっきに見たあの星の世界は、垂れた星空は何だったのだろうか。夢じゃないことは本能的に理解している。じゃあ、本当に一体……?

 誘拐にしては随分と芝居がかって愉快なものだ。

 計画者は人攫いよりもサーカスにいたほうがいい人材だ。勿論これが人為的なものならだけれど。

 しかし、今ここには草木達が雑魚寝をしている山しかないのだ。計画者どころか目を開ける草木すらいない。それに、結局人気のないこんな場所に放っていくなら元々かどわかす意味もない。

 無意味な考えを巡らせるほど、どうしようもなくどうしようもないこの現状を、一体どうしてくれようか。

 見渡す限りの鬱蒼と生い茂る木々の根本はとてもじゃないけど人が常習的に歩いているとは思えぬ状態だ。踏み固められていないフカフカの土は踏み心地はいいが、絶望感に加えられた一口のスパイスにほかならない。

 当然食料もなければ、水もない。こちらは曲芸師見習いだ。サーカステントがないと生きられない。

 生存の目処が立たないまま、着々と時間は進む。

 結局、浮かんでは否定しての案を8個ほど出したところで、生存はきっぱりと諦めた。こんな形は不本意だが、文字通り八方塞がりの今、九方目を見つけることなんてとてもじゃないができっこなかったのだ。

 ごろりと寝転び、満天の星を眺める。青臭い若草のベッドは植物の生命力を感じる寝心地だ。

 昔好きだった小説の一節に人気のない丘で寝転んで星を眺めるといった描写があった。幻想的で、ロマンティックで。とても大好きで、夢に思っていた。

 最も、その主人公には傍らにヒロインがいて、未来を願って星を見たが。僕には投げ出した匙しかないのに。

 濃紫と濃紺を混ぜ合わせて、少しばかりの白色を水で浮かべたような夜空には、あいも変わらず満天の星々が敷き詰められている。

 ここからならば、北極星と北斗七星がよく見える。遭難や航海の際に旅人が仰ぐ道標。尾が長い熊の親子が守る旅人の星達だ。

 どこに何があるのか分からぬ今、右と左が分かったところでといったところだが。

「せめて……そうだな。せめて案内をよこしてください」

 そう星へと願った。星は煌めきばかりを返して、ろくな返答をくれない。

 迷い込んで薄暗い森で野垂れ死ぬより、こんな美しい星空を仰いで野垂れ死ぬとはなんと贅沢なことだろう!

 そう自分に言い聞かせて、体いっぱいに星を浴びる。青紫の帳の色が落ちている小間使いの麻の服にぼんやりとして、ただ確かな光が落ち続ける。

 さあさあと何もなく急かすような木々のざわめきの中に、不意にがさりがさり、と大きな音がする。明確な意思を持ってこちらへと何かが近づいてくる音。

 慌てて顔を上げる理由も特になく、そのまま星を眺めている。輝く星の魔力が目を離させてくれなかったのだから。

 どしどしといった、いかにも獣の足音が聞こえてくる。

「……おや、驚いた。まだ生きてたんだね」

 頭の上から声が聞こえる。こちらを覗き込んでいるのは、巨大な熊の頭だった。薄闇に光る白い牙は本能的恐怖を目覚めさせるにはそう安い道具ではなかった。しかし、それにしては聞こえたのは唸り声でもなく、チョコレートマシュマロのようなソプラノボイスだった。

 驚いたのはこちらの方だ。いきなり現れた巨大な熊が女性の声で喋りだすなんて。……いや、そもそも熊が見えてるだけで横に人がいるのか? まあ、そんなことを気にしてもそれを聞き出す意味がない。だって

「……今、君に殺されそうだけれどね」

 死ぬなら、間違いなく今だから。

「まさか! 私が人食いに……まぁ、見えるか」

 大熊は軽快な声で笑い飛ばしてみせた。そして、だからこそ今確認した。この声は間違いなく目の前の巨大な真っ黒い熊から発せられるものだった。とても信じられないけれど。でも、さっきから起こる不可解な現象にそうも言ってられない。

「安心しな、アタシは別に飢えた獣じゃない。その証拠に名前だってあるのさ」

 そう言って、熊はまたこちらを覗き込む。見えづらくてわからなかったが、その目は黒真珠のように見えて、その実強かな確固たる意思を決めた瞳だ。

 顔色を伺おうにも、大熊の顔は逆光で見えない。そもそも見えたところで熊の表情はどうせその厚い毛皮の仮面が覆い隠すのだろう。

 けれど、どうしても僕にはその熊が笑って見えた。

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