第11話 重力の在処
水族館を出ると既に街灯に明かりが点いていた。その日一日で見てきた光と比べると、無機質で目に痛いと感じる眩しさを放っていた。
「楽しかったね」
ユキノはご満悦な表情を浮かべて、街灯のもと浮足立っていた。
「……また行きたいね」
急に足を止めて、こちらを振り返らずにユキノは呟いた。暗闇に消えた彼の正面がどんな感情を映しているか、後ろを歩く二人にはわからなかった。また行こう、という不確定な約束は三人にはできなかった。
「ユキノ」
××が呼びかけた。ぱっと振り返った彼の表情は笑顔だった。
「なぁに?」
「……今度はどこに行きたい?」
その言葉は、正解だったようだ。ユキノは考えるそぶりを見せた。あれもいいし、これもしたい、などと考えを並べていく。
「どこでもいいし、なんでもいい。ユキノがやりたいこと、ユキノの好きなこと、全部、教えてほしい」
××はユキノの手を握った。やりたいことを口走るユキノが、手を放してしまったらいなくなってしまいそうな危うさがあったからだ。ふっと姿を消して、二度と前には出てきてくれない虚しさが。
ユキノは××の手を強く握り返すことはしなかった。
「……ごめんね。『全部』は教えられないや」
繋がれたその手を、振りほどくこともできなかった。お互いに後戻りはできなかった。
「ねぇ、次。次は、ケンが行きたいところに行こうよ」
ユキノはケンのほうに顔を向けた。
その言葉に驚いた顔をしたのはケンだった。
「相変わらず、変な奴だな……」
観念したようにケンは溜息をついた。
その日も目を開けると真っ白な天井が飛び込んできた。いつもと変わらない日常が始まるのだろうと、ホタルはゆっくりと体を起こす。手術を終えてから、ホタルの体はずいぶんと楽になった。まだ抜けない管が幾つもあるけれど、それでも横たわるだけだった過去と比べれば幸せだった。
換気のためと短時間ではあるものの、開けられた窓から心地の良い風が入ってくる。暖かく優しい風が頬をなでる。ホタルは病にかかる前は紙飛行機を飛ばすのが好きだったことを思い出した。風に乗って空を飛べたら、どれだけ素敵だろうと夢想していたのだった。
「ホタル君、今日はね、お友達が来てるわよ」
「……友達?」
ホタルは幼い頃に患ってから、友達と呼べる人たちは皆、遠のいていった。こちらが名前を憶えていたとして、未だ自分を覚えてくれている人は何人いるのだろうか。そんなことをふと考えずにはいられなかった。
看護師と入れ替わりで仕切りとの間から顔をのぞかせたのはケンだった。
「ケン兄ちゃん!」
「よう」
なるほど、友達というよりも「お兄ちゃん」の立ち位置だったので、ホタルには彼が思い浮かばなかった。ケンは申し訳なさそうな顔をしながら、仕切りの向こうからあと二人の人を呼んだ。その二人は驚くほどに同じ顔をしていた。
「突然ごめんな。俺の友達まで連れてきちゃって」
「ううん、気にしないで。ケン兄ちゃんのお友達なんだよね?」
彼は困ったように笑っていた。昔、本当に幼い頃に読んだ本の中で「困ったように笑いながら思い出せる人は大切な友人」と書かれていたことをホタルは思いだした。かつてはそのような友人が、自分にもできるのだと信じていたのだ。目の前の彼らへのかすかな嫉妬心がホタルの心に棘を刺した。
「どうしても、ホタルのことを二人に教えたくてさ」
「僕のことを……?」
何を教えるというのだろう、そんな疑問が頭に浮かんだ。ふと、手術痕で継ぎ接ぎになった腕の皮膚を隠した。そうして彼らのまっすぐな瞳を凝視できずに俯いた。自分が病気で、哀れだということを同情してもらうために、ケンは彼らを呼んだのだろうか。そんなことは無いとわかりつつも、捻くれたことを考えてしまうほどに長い入院生活はホタルの心を蝕んでいた。
「でも、僕のことで教えられることなんてないんじゃないかな……。僕、友達いないし遊ぶ? こととかもわかんないし」
やんわりと、ケンの言葉を否定した。直接的に否定して、彼の信頼までを失うことは怖かった。
「それは僕もわかんないなぁ。僕も友達はケンと××だけだから」
ケンの隣に座る彼が口を開いた。社交的そうな口上で。少なくとも彼の話し方から、友人がいないという言葉は信用できなかった。
「ねぇ、ホタル君? 僕もね、最近になって『外』に出られるようになったんだ。僕たち一緒だね」
そう言って彼は笑った。子どものように、無邪気に。その表情から、なんとなくユキノの言葉に嘘はないとホタルは感じた。
「ユキノ、あんまり困らせるなよ」
「えぇ! 困らせてた? ごめんね……」
「い、いえ……久しぶりにちゃんと人と話すので、僕の方こそ、ごめんなさい」
ホタルは頭を下げた。ユキノはにっこりと笑って、ホタルの手を握る。久しぶりに触れた他人の手は自分の体温よりも少しだけ冷たく、不安をホタルは覚えた。けれどその不安も解けるように段々と温かくなっていった。
「……久しぶりに沢山話したから、ホタルも喉乾いたろ。××と何か買ってくる。何なら飲める?」
話の一段落したところで、ケンは声をかけた。何も聞かされていない××は目を見開いたが、ユキノは見ていないふりをした。
「あ、緑茶なら……冷えていないものがいいな」
「わかった」
ケンはホタルの頭を撫でた。その表情は優しいが、どこか影があった。ケンが三人でいた時には見せたことのなかった表情だった。
「なんで、ここに連れてきたんだ?」
それは××の単純な疑問だった。
「それはどっちの意味だ?」
意地悪く、ケンは笑って見せる。けれど、その目は笑っていなかった。今日一日でケンが見せた表情を思い返すと、××はそれ以上の追求ができなかった。
ケンは一つ、大きな溜息をつく。身体の中の酸素をすべて吐き出すほどの長い溜息。そうして吐き出した分を埋めるようにゆっくりと息を飲み込む。
「アイツは……ホタルは、俺の施設にいた時の『友達』だった」
ケンはこれからする話が××にとっては、受け入れがたいものであると理解していた。ケン自身でさえもきっと、まだ整理できていない部分がある。彼に伝える以上、「今のままの自分」であってはいけないのだという覚悟を持つ必要があった。簡単な願掛けではあれど、息を吐きだすことで自分の中にある、躊躇いだとか迷いだとかを全て吐き出したつもりだった。
「今のホタルはオリジナルの方で、俺の友達は、オリジナルの手術で……」
次に息をのんだのは××だった。
「……最初は、友達が、ホタルの中で生きていてくれるなら、って、必死に自分を言い聞かせようとしてた。でも、ホタルと関わっていくたびに、違うって思うんだよ。何が違うとかって、わかんねぇけど」
段々とケンの口調は早くなっていく。
「ホタルと何度も会うたびに、アイツの影が薄くなってくんだ。塗り替えられていくみたいに。もう、アイツの名前も呼んでやれない。アイツは『ホタル』じゃなくなったんだ。アイツと話していたことも、笑ってたことも思い出せるのに、アイツの顔が、声が、全部ホタルに入れ替わってくんだ。はじめからそうだったみたいに」
「ケン……一度落ち着け」
「でも、ホタルのことを恨めない。これは仕方ないんだって思うんだ。思わなきゃいけないんだ。俺は怖い。ユキノとお前が、どっちか欠けた時もきっと、同じことを思うんだろうって、わかるから。お前とユキノの境界線が曖昧になって、どっちがどっちかわからなくなるんじゃないかって」
××に伝えたいことと、伝えなきゃいけないこととが頭の中がごちゃ混ぜになった。考えていることが先行して、口が追い付かないのだ。どれだけ冷静になろうと押し込められた感情は栓が抜けたように流れていく。
「どんなことがあっても、三人で、一緒にいたい」
ケンはいつの間にか、××の肩をつかんでいた。本当はこんなことが言いたかったわけではないと、思考の隅で否定してくる自分がいた。もっと、冷静に、××に寄り添うことを言ってやりたかった。無力な自分を棚に上げるようなことが言いたかったわけではないのだ。顔が上げられなかった。自分が酷い顔をしているとわかっていたから。
××は何も言わず、ケンの震える手に自身の手を重ねた。
××はケンの伸長よりも自分が大きくなっているのだと、認識した。幼い頃に必死で追いつこうとしていた彼が、いつの間にか隣にいたことに気付いた。ケンはもう、××の手を引いて導いてはくれないと、知った。甘えは××の中に残っていなかった。
「……悪い。本当は」
「おれは、ケンのこともっと知りたいって思ってた」
ケンの言葉を××は遮った。
「でも、知ろうとしてもわからなかった。ユキノも。二人とも、教えてくれないし、秘密にしてるんだろうって思ってた。ケンは、ずっと悩んでたんだな。遠くにいると思ってたけど、ずっと近くにいたんだな」
頬に何かが流れた。
「……気づいてやれなくて、ごめん」
ケンの思いは、複雑だった。彼の兄であるヒロの思いと、ユキノの思いに挟まれて。けれど、伝えるべきことは伝えなければいけない。
「俺は、兄さんに、この実験でユキノを殺さないようにって、頼まれてる。でも『他人』の思惑抜きで、やっぱりユキノに生きていてほしい。ユキノとお前を裏切ったみたいで、嫌だけど。無理だってわかっていても、三人一緒がいい」
ケンと××の帰りを待ちながら、ユキノとホタルは話に花を咲かせていた。
「ケンちゃんはね、大人ぶってるとこも多いけど、本当は一番甘えたいやつだからね」
「そうなんですか……? 大人みたいだなって、かっこいいなって思ってました」
「ケンちゃんはホタル君のこと、大事にしてるから。恰好つけたいんだよ。まぁ、僕たちもケンちゃんのそういうところに甘えちゃうんだけどさ?」
ユキノから聞くケンの話はホタルにとって知らない一面が多かった。意外な話に、つい耳を傾けてしまうのはユキノが話し上手なことも原因なのだろう。
「あの二人帰ってくるの遅いね。迷ってるのかな?」
「……ユキノ、さんは、どうして『外』に出られなかったんですか」
ユキノの顔が一瞬困ったようにホタルには見えた。聞いてはいけないことだったのかもしれないと、不安になっていく。
ホタルは長い入院生活で、大人たちの顔色を伺うことが上手くなっていた。自分の健康状態が良くないにもかかわらず、誤魔化したように笑う看護師や母親の表情を見続けていたのだ。最初は「ほんの少し」だったはずの闘病生活も何カ月、何年と過ごせばわかっていくものだ。勿論、その嘘は自分を落胆させないためとわかっていた。何度となく代わる担当医や看護師、笑顔を見せつつも疲れ切った母の顔。そんな彼らの様子を見れば見るほどに、自分は助からないんだという現実、彼らに嘘を吐かせてしまっている現実を直視させた。
「ごめんなさい。やっぱり、気にしないでください」
ホタルはもう一度、丁寧に頭を下げた。自分のせいで人が傷つくのは嫌だった。
「え? なんで謝るの?」
「ユキノさんは、話したくないことなのに、僕が聞いてしまったから……」
ユキノはホタルの言葉に目を丸くした。
「あ、違うの。どこまで話しても大丈夫かなって。話しちゃうと僕だけの問題じゃなくなっちゃうから」
「じゃあ、話さなくても……」
「うーん、でも、僕自身聞いてほしいところもあるし」
ユキノはまた、笑った。そんな彼の姿に、ホタルは彼を「子どもっぽい」と思ってしまうのだ。
「……僕ね、ちょっと前まで、ヤバい女の人のところにいたんだよね。血のつながりがないのにその人のことを『お母さん』って呼ばなきゃいけなくて。束縛が激しくってさ。そこの人たちの気に食わないことすると殴られたり罵られたり……とかも日常茶飯事で。その人達の顔色伺って、したくないことも色々して生きてたの」
ホタルはユキノを見つめた。俄かに彼の話が信じられなかった。けれど、一目見た時から彼の顔の傷は「何か」あってできたのだろうと思いつつ、触れていなかったこともあり、そのまま黙って彼の話に耳を傾けた。
「××とケンちゃんに会って、ちゃんと生きたいって思ったんだよ。『短い』一生だから。好きな人達のところで、好きな人達のために時間を使いたいなって。だから、さっき言った人から逃げてきたの」
「……短い、一生?」
「僕、もうすぐ居なくなっちゃうんだ」
ユキノは笑った。とても無邪気に。
ホタルはなんとなく言葉の意味を察してしまった。そして、恐れた。笑っていられるユキノを。彼は子供のようで、どこか悟った大人のようで、その曖昧さがホタルには信じられなかった。
「ホタル君にね、僕のことを覚えていてほしかったんだ。僕は、ケンちゃんの記憶にも××の記憶にも残れないかもしれない。だから、君に」
ホタルはその後、彼らが帰るまでの間をどのように過ごしていたのか、思い出せなかった。ユキノの言葉だけが、ホタルの頭の中に反響し続けた。
病室の外で、ユキノとホタルの「他愛のない」話を盗み聞きながら、××の中には覚悟が蓄積していった。ふわりふわりと、柔らかいそれは積もって、重みで固くなった。白く光を放ちながら、地表の熱を奪っていく。触れば触るほどに固くなっていく。まるでユキのように。
「ケン、頼む。おれはまだ、知りたいことがあるんだ」
ケンの瞳を射抜いた蒼い光。彼の眼には、一つの蒼い海が映っていた。それは××の瞳だった。ユキノと同じ、海の色。この世界の残酷さを、彼に伝えた時の寄せるさざ波と同じ色。
「……わかった」
波は、ケンの胸の詰りを押し出した。海はケンを包み込んだ。最初こそ「息辛い」と感じた海は、全てを受け入れた。辛さも寒さも痛みも、全てを受け入れた。彼は望んだ、受け入れてくれる海と同化することを。
「ヒロ……兄さんに、頼んだ。でも本当はこんなことをしちゃいけないらしい。だから、できるだけ秘密だ。ユキノにも」
ケンはかなりの無理をしてくれたらしいということは、××にも強く感じられた。それを強いてしまったことに申し訳なさを感じていたが、ケンは
「もう、何が起こっても、受け入れるって決めたんだ」
と××の肩をたたいた。
真っ白な衣服を着た職員に通されたのは、狭い空間だった。恐らく部屋なのだろう、そこは本と何かの資料で埋め尽くされていた。ただ一つ、外に植えられた木が覗ける窓以外に壁は、床は、すっかり埋め尽くされていた。しかし本や資料の一つ一つは丁寧にタグ付けされて、こまめな掃除がされており、埃がめったにない。
その部屋の中央で、女性が一人佇んでいた。彼女は××に気が付くと一瞬だけ顔を歪めた。そうして、何事もなかったかのように笑って見せた。その笑顔に、母性を感じた。
「あの子のオリジナルに会えるっていうから、忙しいスケジュールを無理矢理に調整したのよ。話せる時間も限られているけれど、有意義な話ができると期待したいわね」
女性は後ろに設置された棚から、一冊の本を手に取った。
「あなたに、ユキノのことを教えてもらえるってケンに聞いたんだ。ユキノのことが知りたい。施設にいた間の、スペアとして生きていたユキノのことを」
「ケン……? あぁ、彼のこと。とても子どもらしい子だったわ。生意気なかわいい子だった。そうなのね。
それで……『ユキノ』について知ってどうするの? 今日は、あの子に内緒で来たんでしょう? こんな風に、自分のあずかり知らぬ所で自分について探られるなんて気持ち悪いとあの子には思われるでしょうね」
女性は本のページをめくる手を止めずに言い放った。
「それは思わなかったわけじゃない。でも、気持ち悪いと思われても、知りたいと思った。そうじゃなければ、間違える気がするから」
「……××、あなたは人間を人間たらしめるものが何かわかるかしら」
彼女の口から言葉が糸のように紡がれていく。目に見えないはずのそれは、ゆっくりと着実に××の身に巻き付くようだった。緩まず、弛まず、ぴんと張った糸は、それ以上力を籠めれば簡単に××を壊してしまいそうだった。女性は続ける。
「人間を形成するのは『関わり』よ。誰かとの関わりなくして人間は生きていけない。何かの支え失くして、人間は生きていけない。年を重ねるほどに、大人になるほどに関係は増えていく。浅い関係も深い関係も、人間にとって快楽にも辛苦にもなる。関わりという目に見えないものを大事にして、それのためなら何でもできると思い込んでしまう。恐ろしいものだわ。
その関わりというものを人間は糸のように表現するわね。それは間違っていないのよ。巻き付いて、絡まって、解けて、切れて。放っておけば強く固く絡んでくるでしょう。人間は自分たちで思っているよりも脆くて弱いから、簡単に肉体がはち切れて、傷を増やしていく。開いた傷口から生きる気力が抜け出ていく。存在する全ての関わりを断ってしまいたいとさえ願うこともある。そう願いながら、バラバラに切り崩れた身体を、関係という糸によって、再度直して生きる。移植手術のようにね。壊れた身体も精神も、簡単に継ぎ接ぎ治せるのは、人間の特権なの」
その言葉には、怒りや悲しみや、呆れ、絶望、妬み、嫉み、苦しさなどの雑多な感情が入り混じっていた。××を通して、全ての「人間」に鋭い刃が向けられたような。女性は一呼吸おいてから、また話し始めた。
「はじめから、全くの関わりを断たれた人間はどうなるのかしら? いえ、そんな生き物は『人間』と呼べるのかしら?
……あなたには想像もできないでしょう。そうやって育てられた生き物がスペアよ。スペアは施設に閉じ込められて、外界との関わりを断ち切られる。手に入るはずのない関わりを手に入れるために、それこそ死に物狂いで生きて、誰にも知られることなく死んでいく。彼らはただ、死にたくなかったわけじゃないわ。自分が存在したという証拠を求めて、無駄な足掻きをしているに過ぎないのよ。」
女性は本を閉じた。そして××に突き出した。後寸でのところで、本は止まった。
「……殴るのか」
「殴らないわ。大事な客人だもの。
ねぇ、あの子、も、本当に死に物狂いで、生に執着しながら生きてきた。時には公の文書にも残せないようなことをしながら。あなたにも話せないようなことをしながら、ね。逆に言えば、そうやって生きてきた生き物が、簡単に生を諦められるはずがないじゃない。口では死を願いながら、心の中では自分に言い聞かせながら、本当は迫りくる恐怖に怯えてるはず」
「……どんな姿でもいい。正直なことを話すユキノでも、嘘ばかりついているユキノでも。わかりたい。代わってやりたいと思う。ユキノの持つ、全てから」
彼女は不思議な人だ、と××は思った。女性は××の考えていることを全て見透かしているような目をしていた。言葉には悪意がある。一方で話し方は小さな子どもを諭すような。それは彼女の癖であり、慣習となってしまっているのだろう。とても優しい声色をしていた。
「代わってやりたい……? そう、それは傲慢な願いね。そんな同情ほど、あの子にとっては苦痛だってわからない?」
「わかってる。だけど、それしか方法がないと思った」
「そう考える、ということは、あなたは確かにあの子のオリジナルでしょうね。」
「……ほかに方法があるのか」
「さぁ。私はもう、あの子とは関われないから、何とも」
女性は首を振った。××は本を手に取った。
受け取った本には、××の名前が刻まれていた。書き込まれたどのページにも余白はない。ひたすらに、ユキノについて、びっしりと書き込まれていた。
「気になるなら、他の本も見ていいわよ。どうせ、私にはもう必要のないものだもの」
棚の本にはどれも、誰かの名前が刻まれていた。そのどれもが、ユキノの本と同じように、びっしりと文字が羅列していた。その日の体調や成長の記録。テストの点数や他愛のない出来事、会話した内容。どれも違う内容で、けれど同じ筆跡で。
「私もね、この施設のスペアだった。あの子――ユキノと同じく。生にしがみついて、やりたくないことも感情を殺して行ってきた。誰よりも、関わりに飢えていた。醜いでしょう? ……私もそう思う。
ユキノに初めて会ったとき、あの子の目がいつかの自分と重なって見えた。怯えた表情で、幼いのにひどく絶望していて。たった一つの救いを求めたように、私の手にしがみついてきたの。この子を守らなきゃいけないと思った。私と同じ道を歩まないように。ちょっと手荒だったとは思う。でもね、私も今のあなたと同じように、どうしたらいいのかわからなかった。
いろいろ手を尽くしたけど、ユキノは私と似たような子になってしまった。やりたくないことをして、感情を殺して。ユキノにそんな思いをさせるような、醜い大人は排除しなきゃいけない。だから私は、この施設で偉くなった。誰かをやめさせられるほどに」
女性の瞳が潤んだ。
「あの子の眼には、私はどう映っていたのかしらね。きっと、怖い、って思われていたんでしょうね。
……この施設にいると、みんな、頭がおかしくなっていくの。何度もそういう子を育てて送り出してきた。幼い頃はどんなに純粋で素直だった子も、成長していくごとに『ずる賢く』なっていく。私たちに媚び諂うのが当たり前になっていく。頭の中では必死に生き残る算段をしているの。それしか考えられないの。そうして目から光が無くなっていく。
ユキノもそうだった。目の奥が暗闇で、私に媚びを売る。でも、一度だけ。ユキノがふらふらと外に向かうことがあった。どんなに表面で取り繕っても、逃げたかったのね。あなたとユキノが出会ってしまった日よ。驚いた。すごく焦った。この施設のセキュリティを、一度停止させる必要があったから。そうして出ていったユキノに、私は心の底から『帰ってきて』って思った」
××は始まりの日を思い出した。不思議なほどに真っ白で、浮世離れした、初めて会ったユキノのことを。遠い記憶ではあれど、ユキノとケンの姿だけは、くっきりと思い浮かべることができる。まるで今、実際に見えているかのように、鮮明に。
「ある男の子のおかげでね。外の世界が必ずしもいいところとは限らないって知ってたの。もし、逃げ出したユキノが、苦しい思いをしたらどうしようって心配だった。だけど、一方で、この施設から逃げてほしいとも思ってた。
あの子は帰ってきた。あの子の顔を見たら何も言えなかった。あんなに、幸せそうな目で。『お母さん、ただいま』なんてね。何も言わなかったし、隠してるつもりだったんでしょうけど、本当に、幸せそうで。安心した。そんなあの子の様子に、外の世界は恐ろしいところではないのかもしれないって、私も希望を抱けた。
あなたにこっそり会いに行くユキノを見てるたびに、もっといろんなことをしてあげたくなった。私は外の世界を知ることができなかったけど、外に出られるあの子が、外の世界で一人ぼっちにならないように、服も髪も整えてあげた。……それがユキノにとっては束縛だったようだけど」
「おれの知ってるユキノは、いつも綺麗だった。それで、幸せそうに笑うんだ。おれやケンに会えてうれしいって」
「あなたの眼にもユキノはそう映っていたのね。
外の世界のあなたと施設の私では、ユキノは違う顔を見せていたでしょう。人間はそういうものだわ。関わりを持った時、他人に合わせて違う表情を見せる。複数の仮面を持つようになる。それは相手も同じで。だからこそ相手の本質が、自分の見えているものだけに限らない。だからこそ人間は関わることで辛さも幸せも感じる。
あの子の口からは何も語られなかったけれど、私は実験報告を読んでいたから、その日の出来事の全てを知ることができた。けれどそこにあるのは起こった事象と知らない誰かの勝手な考察だけ。お願い。私も知りたいわ。ユキノは外の世界で、どんなふうに生きてるの? どんなふうに笑ってるの? あなたたちとは、どんな関わりを築いているの?」
女性は話しつかれたように、紅茶を淹れ始めた。甘い香りが××に届く。めくった本のページには、茶色いシミがついていた。その部分は文字が滲んでいた。恐らく彼女がこうして紅茶を飲みながら、このページを書いていたのだろう。
「捲し立ててごめんなさい。こんな性格だから、怖いと思われちゃうのね。もう少しだけ、あと少しで時間が来ちゃうの。だから、もう少しだけ、私の長話を聞いて?
……ユキノがこの施設を出て行く時、私はユキノに『もうこんなお人形ごっこはやめようと思った』なんて言われちゃったの。その時に理解したわ。あぁ、ユキノは私のことを狂ったやつだって思ってる。この施設にいる全ての人と同じように。ずっと誤解させてたのね。本当に大事に思ってきたから、その言葉が悲しかった。けど、一方でうれしかったの」
××は息をのんだ。
「私の目的は、ユキノをここから逃がすこと。きっとあの子は外の世界で生きていける。私に掛けたひどい言葉も、あの子はここから逃げ出そうとしてるんだって。でも、あと一歩勇気が足りなかったんでしょうね。足も手も震えてた。声も上擦ってた。私が後押ししてあげなきゃって思った。それが私の、さいごに、できること。
狂った『母親もどき』を演じた。私、他人の願う通りに生きることだけは得意なの。ずっとそうやって生きてきたから。きっとユキノは、逃げなきゃって思ってくれた。鋏で自分の顔を傷つけた時は、やり過ぎたって後悔したけれど。それでも、ユキノは、逃げてくれた」
女性のさいごの一口で、カップの中の紅茶はなくなった。彼女はもう、新しい紅茶を淹れることもなかった。
「あなたに会うのが怖かった。あなたに会ったら、あなたの印象で私の中のあの子との思い出が崩れてしまうんじゃないかって、思ってたの。でも、安心したわ。あなたは優しすぎる。あなたにはユキノほどの残酷さがない。あなたがどれだけ、ユキノについて調べようと、あの子に近づくことなどできないわね」
部屋の中に、紅茶の香りだけが残っていた。彼女の行く末を、××はなんとなく察した。そうして言葉を返せなくなった。
「貴方のために赤の他人でいて欲しいとあの子に頼まれたけれど、やっぱり癪に障る。くやしい。ねぇ、最後に一つだけ教えて。他でもない、あなたから見て、私はちゃんと『母親』らしくできたかしら」
××の頷きに、彼女は笑った。××よりも遠くを見据えて、ただ、わらった。
しばらくして、職員が部屋に入ってきた。名前を呼ばれたのは××ではなかった。沢山の思い出と幸せが注ぎ込まれたこの狭い部屋に一人、××だけが残された。窓から風が入ってきた。甘い花の香りを携えて。××の持つ本には、不器用にも皺がついた白い押し花が挟まれていた。
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