第9話 大樹少年のパンデミック
その日も、いつものように学校へ行く準備をしていた。リビングで点けているテレビではニュースが流れていて、遠い世界の情勢を伝えている。アフリカの聞いたことがない国で感染症が流行し、死者も出始めているらしい。日本では水際対策を敷いて国内への侵入を防ぐという。
上手く防げればいいな、と聞き流して目線を外した先に、真剣な表情のおばさんがいた。洗い物を止めて、手に泡がついたままダイニングからニュースを見ている。
「どうしたの」
「うん」
上の空で答えられた。少し引っ掛かりはしたものの、俺も出掛ける時間だったのでそのまま家を出る。
自転車に跨って学校に向かう。曇り空には切れ目がなく、空気も心なしか湿っていた。おばさんの表情には見覚えがある気がする。
「思い出した。母さんが死んだときだな」
あの顔は母さんが死んだときも見た。思い出すだけで苦しかったあのときのことも、今では冷静に思い返すことができる。
あの日、母さんは朝から頭痛を訴えていた。でも、母さんは仕事を簡単には休みたがらない人だった。その念頭に俺の学費や養育費があったことは間違いない。
俺が学校から帰ると、母さんはベッドで痛みに呻きながら寝ていた。俺が大丈夫かと聞いても答えず、もぞもぞと体を動かすだけだった。
その後の二時間を、俺は間違いなく生涯悔やむことになる。俺は一人、家の中をおろおろと歩き回り、何もしなかった。救急車を呼ぶべきなのかどうか、判断もせず、考えもせず、ただ時間が過ぎるのを待った。次の瞬間に母さんが元気になってベッドから出てくる、などという想像を繰り返し、零れそうな涙を堪えることしかしなかった。
北野のおばさんから電話が掛かって来て、俺はようやく他人に相談するという手段を思いついた。
そこで記憶が飛ぶ。
次の記憶は、病室で横たわる母さんと、その傍の椅子に座り込む俺とおばさん。
後から聞いた情報をまとめると、悪い条件が重なった脳出血だったらしい。一旦出社したが、同僚に勧められて正午ごろ帰宅。その後横になっている間に出血で言語野を圧迫され、言葉を発せなくなった可能性が高い。自力で助けを呼べず、俺に救急車を呼べと指示することもできず、ただ痛みに苦しむことしかできなかった。
朝の段階で病院に行っていれば助かった。会社から直接病院に行っていても助かった。言語機能が残っていれば、二時間早く救急車を呼べて、後遺症は残っただろうが命は拾えた。
俺が冷静に対処できていれば、母さんは死ななかった。
明日の朝までもたないだろうと、担当医からは告げられた。隣に座ったおばさんは両手を組んで握り、じっと担当医の話を聞いていた。
「大樹少年」
おばさんは目線を母さんから話さず、口だけで俺に話しかけた。
「何」
「お母さんは、もうすぐ死ぬ」
相槌も、うん、の一言も出せなかった。俺の沈黙を受け取って、おばさんは続ける。
「人は、新しい命を生んで、そして死ぬ。お母さんが少年を生み、今夜死ぬように。何も不思議なことじゃないし、誰もが辿る道なの。死は必然だし、必要なことなんだよ」
死が必要なこと。
「死ぬことは、悪いことじゃないの?」
なんとなく、学校とか先生とか、大人の世界では、死を忌避したり、隠したりしているように思っていた。
「悪いことじゃないよ。ご飯を食べることは悪いことじゃない。眠るのは悪いことじゃない。歳をとることだって悪くないし、昔のことを忘れることだって、人間なら当たり前だ。死だけが特別であるわけがないよ」
急にお腹が空いてきた。ご飯を食べることを思い出したみたいに。
「俺も死ぬの?」
「大樹少年もいつか必ず死ぬ」
「おばさんも?」
「私は……そうだね、私もいつかきっと死ぬ」
死は誰にも訪れるもの。正しいこと。
「じゃあ、どうしておばさんはそんなに悲しそうなの」
「死は当たり前で、正しくて、そして悲しいものなんだよ。正しいことを悲しんだっていいんだ」
正しいことはいいこと。悲しいことは悪いこと。なんとなく二つに分けていたものが混ざってしまった。
「俺は、どうすればいいんだろう。もっと早く救急車を呼べたのに」
取り返しがつかない。
知っていたけど、使ったことはない言葉。手が震える。
「泣くことも、悔やむことも、当たり前のことで悪くない。だから、別れを惜しもう。精一杯、今のお母さんを目に焼き付けて送り出そう」
人の死なのだと思う。おばさんが死ぬ直前の母さんを見ていた表情と、今朝は同じ顔だった。一番身近な人の死と、世界で最も遠い場所の死、俺にとってその二つはかけ離れすぎていて、同じ気持ちにはなれない。
おばさんは感情の動きというか、悲しみの向き方が独特だ。ニュースを見れば近場で毎日人が死んでいることがわかる。それには反応しないくせに、遠いアフリカの病気について真剣になる。
おばさんが怒ったところを見たことがないし、俺に対して苛つく様子も見せない。普通、一緒に暮らしていれば同居人の不満くらいはあってもよいと思うのだが。器が大きいというのか、長生きしているから動じないのか。
仕事は、どこかの会社の経理をやっていると聞いた。勤務時間が短いから、出社時間を遅く、帰宅時間も早くできるという。見た感じ、忙しそうにしている様子はない。身分をどうしているのか不思議だ。今度聞いてみることにしよう。
でも、その話はできなかった。夜、おばさんはいつもより早く帰ってきた。帰宅した俺を出迎えて、俺たちは夕食を一緒に食べ、そしておばさんは本題を切り出した。
「大樹少年、まずいことになった」
おばさんの顔から今朝の切実さは消え、代わりに、ゆっくりと考えながら喋る慎重さが感じられた。
「今朝、報じられた感染症のニュース、覚えている?」
「なんとなく。アフリカで流行り始めたんだっけ」
「そう、それがまずい」
「まあ、感染症だもんね」
いいものである筈がないが、死者が出る感染症ならばインフルエンザだってそうだ。それだけならば殊更気に掛けるほどとも思えない。
「最悪、人類の半分以上が死ぬ」
「は?」
「良くても、数億人死ぬ。その種はもう撒かれている」
「ちょ、ちょっと待って。突然どうしたんだよ」
人類の半分が死ぬ? 話が急すぎる。ニュースでは、そんな大ごとだと報じていなかった。
「もちろん、そうならない未来もある。各国が上手く封じ込められれば、数百万人の犠牲で済む」
「おばさんは、何を知っているの」
宇宙人の遣いであると俺に明かした。超常現象にしか見えないようなことを起こしたり、人の記憶から狙ったものをすっぽり消したりすることもできると言った。
おばさん、いや、遣いたちは何を知ったのだ。
「私たちは、普通の人間よりもかなり多くのことがわかる。千里眼みたいなものだと思ってくれてもいい。地球上に、私の同類が他に十一人送り込まれていて、全員である程度の情報共有をしているの。アフリカにいる仲間が言うには、状況はかなり悪い。既に各国に病原体が入り込んでいて、このままだと酷いことになる」
「その感染症のせいで」
「そう」
俺は頬杖をついて俯いた。新しい感染症が発生すれば、そのためのワクチン、治療薬ができるまで人間は翻弄される。それは間違いない。俺が生きている間にも何度か新型のウィルスが生まれ、世間が大騒ぎになったことがあった。だが、いずれも日本では大きな被害にならなかった。
「心配しすぎじゃないの。そう簡単に人類を滅ぼすようなウィルスは誕生しないよ。というか、死亡率が高いウィルスは、周囲の人間に広がることなく宿主を殺してしまって、感染拡大の意味では効率が悪いっておばさん言っていたよね」
ウィルスにとって理想は、人間に反撃されることなく感染だけが拡大していくことだ。ウィルスは人間を殺したいわけではない。繁殖したいのだ。症状は誰も望まぬ副産物にすぎない。症状が激烈であれば、人間側は医学的にも免疫的にも対抗するし、患者は隔離されて感染が広がらない。感染力と致死力はトレードオフ、どちらかを立てれば逆が立たない。
人類を滅ぼすウィルスがいたとしても、その未来は人類と共倒れだ。進化の方向性として失敗している。だから病原体の多くは、徐々に弱毒化する変異を遂げていく。いつだったか、おばさん自身から教わった。
おばさんはいつも俺の話を聞くときのように頷き、テーブルの上で指を組んだ。
「自然ならば、そうだね」
俺もおばさんの言い方に慣れてきた。
「自然では、ない?」
「うん。今回現れたウィルスは既存の熱病ベースの人造ウィルス、つまり生物兵器だ。アフリカの貧困国を隠れ蓑にして研究していたサンプルが漏れ出た。自然の進化の摂理なんて無視した、人間を殺すことに特化した微小の兵器なんだよ。長い潜伏期間と高い致死率、そして強い感染力を持っている。生き延びることができるのは、ワクチンを素早く開発して摂取できる、先進国の中でも一部の人間か、自己免疫で耐えられる幸運な人間だけ。私の仲間が見積もった結果、人類の半分が死ぬと予期された」
食器洗い乾燥機の音が響くダイニングで、俺たちは無言のまま向かい合っていた。
「お茶、淹れようか」
俺は返事も聞かずに立ち上がり、お湯を沸かす。おばさんは宇宙人の遣いで、地球人にできないことができる。銃弾を止めたみたいに。
じゃあ、何をこんなに真剣に話す必要があるのだろう。それが問題だと思うのなら、ウィルスを消すなりなんなりすればいい。俺に話す意味が無い。
二人分の湯飲みをテーブルに置いて座る。俺たちの間でだけわかる、会話のリズム。準備はできた。わざわざ改まって話す理由はここから。
「私たちは話し合い、人類を助けることにした。人類にそのウィルスに対する免疫をつける。ウィルスという小さくて数が多いものを世界から消すよりも、人間に免疫を付けさせる方が簡単だから」
「そうなんだ」
簡単なわけはないが、おばさんが簡単だというなら簡単なのだろう。それはもう受けいれた。
「併せて、研究データや関係者の記憶も消す。すぐに改良して新しいウィルスを造れてしまうかもしれないからね」
「俺もそれがいいと思う。で、何が問題なの。言い方は良くないかもしれないけど、さっさと助けてしまえばよくないか」
おばさんは微笑んで、お茶に口を付けた。
「問題があるとすれば、私たちにそれはできるけれど、想定された力の使い方ではないという点なの。本来、自分の身を守るため、そして存在を秘匿するために付与された機能だからね。今回のように、どちらの意味もなく大規模に人類社会へ干渉することは禁じられている」
「禁を破るとどうなるの」
「ペナルティーとして記憶を消される。約十年、自分の役割も正体も忘れることになる。思い出すまで力の意図的な使用はもちろんできない。大樹少年のことも忘れる。一緒に暮らすこともできない」
ごめん、とおばさんは頭を下げた。
「どうしておばさんが謝るの」
「身近な人から忘れられる辛さを、知らないわけじゃないんだ、私も」
俺は束の間、目を閉じた。俺だっていつまでも子供ではいられない。
「俺たち人間の不手際を世話しようとしてくれている人たちに、お礼を言いこそすれ、責める気なんて全くないよ」
嘘じゃない。少し寂しいだけだ。
俺はテーブルの下で拳を握る。
「でも、そうなると俺の生活が心配だな。今はおばさんの稼ぎで暮らしているけど、おばさんが俺のことを忘れるってことは、扶養もされなくなるってことだよね」
「それどころか、私は別人になる。君の前からも姿を消す。一応、できる限りの手続きはしていくけど」
「そっか。じゃあ、大丈夫かな。いざとなればバイトでもして食い繋ぐよ」
「苦労かけるね」
「いや」
俺は、ふう、と息をついた。この先大変になりそうだ。うちの学校でアルバイトは認められるのだろうか。そもそも、保護者不在で学校に通えるのかわからない。
「大樹少年は駄々を捏ねないね。少しくらい甘えてもいいんだよ」
「駄々を捏ねておばさんが思いとどまるわけでもないじゃん。多分、遣い全員がペナルティーを受ける必要があるんでしょ」
おばさんは困ったように笑い、頷いた。
未成年の俺を独りにすること。おばさんにとっても避けられるなら避けたいはずだった。でもこうして話したということは、避けられないということだ。そのくらいは考えて、悩んだはずだと信頼する。
だから俺は、淡々と承知してみせた。
「今まで充分甘えさせてもらったと思っている。それに、一番辛いのはおばさんたちだよ」
記憶を失う。それがどれほど恐ろしいことなのか、俺にはわからない。でも、誰より失うものが多いのは彼らに違いない。
「それよりも、そんなに派手なことをして大丈夫なのかな。さすがに誰か不自然に思いそうだけど」
おばさんの表情が変わった。俺に微笑む表情ではなく、堅く、真剣な顔つきになる。
「正直、その危険はある。ペナルティーを科される理由も、過度に目立つことをしたから、という理由だしね。長い歴史を見てきたけど、遣いの存在に自力で勘づいた人間は何人か知っているよ。知ったからといって、どうにもならなかったけど。でも、今の時代ではどうなるか、私にも、他の遣いたちにもわからない。世界中がネットワークで結ばれ、情報が瞬時に共有される社会だ。一応、今の社会でも記録消去は問題なく働くけど、七十億人もいれば私たちの裏をかく人間が現れないとも限らない」
俺は顎に指を当て、おばさんの話を吟味した。
コンビニ強盗とあの日の店員たちはおばさんの力を目撃している。記憶を消すこともしていない。そこから宇宙人の遣いだなんて発想に至ることは無理だろうが、似たことが世界のあちこちで起これば、点と点を結び、常識外の存在に気付く天才はいるかもしれない。
「送り主は地球より遥かに技術レベルが高い星の住人なんでしょ。地球程度の社会でそんなミスが起こるかな」
「それが案外、起こる余地があるんだな。何せ地球人は多いから。一つの星に知的生命体が七十億個体なんて、歴史上類が無い膨大な数だよ」
「へえ、そうなんだね」
「個体数の数え方は諸説あって難しいけど、一番多くて二十億くらいかな。それくらい地球は混沌としていて、予測しづらいってこと」
そう言いながらも、おばさんは嬉しそうだった。俺は人口が増えすぎる心配をしている人間だが、おばさんは純粋に人口増加を喜ぶべきことだと思っているみたいだった。
「人類からはまだまだ面白いものが生まれるよ。見たこともない世界になっていくんだろうね。私たちはそれを見届けられる特権がある。幸せなことだよ。代わりに、私たちの正体に近づいている人間がいることもたしかだけどね。今も世界の数か所で私たちの活動を探っている人がいるみたいだし」
「やっぱりいるんだ。でも、どうやって」
おばさんは頭を掻いて天井を見上げた。
「具体的に彼らがどうやって私たちを追っているのかわからない。私たちの想定外の手段を取っていることは確かなのだけれど。実は、今回みたいに大規模に社会へ介入するのは初めてではないんだよ。何十年も前、核兵器を載せたミサイル、当時はロケットの扱いだったかな、そういうものを処理したこともある。大昔、今で言うマラリアの祖先が人類の三分の一の部族を消滅させる危機が訪れて、赤血球を変化させたこともあった。時代が進んで見つかったときはヒヤッとしたけど、まだ私たちのせいだとは思われていない」
「そりゃあね」
普通に適応進化した結果だと思うはずだ。そう考えると、遣いがやっていることは人類進化の促進とも言える。
「次に大きな介入をしたら、とうとう見つかるかもしれない」
「駄目じゃん。記録消去で対応できるの?」
「効くはずだけど、隙がないわけでもないから、わからないな。でも、それは人類がまともに活動していればこそ悩めることだ。このままだと、それどころじゃなく人類社会は崩壊してしまう。経済も医療もインフラも、全部が大混乱になって最終的には多くの国が消えてしまう。私たちの正体がバレるかどうかなんてのんびりしたことを悩めるなら、幸せなことだよ」
遣いの存在が知れ渡ったらどうなるのだろう。一瞬、磔にされたおばさんの姿が思い浮かんだ。大勢に糾弾されて心無い言葉を投げられながらも、目を閉じて黙ったまま受け入れている。
「おばさん達がやる必要、あるのかな」
「私たちにしかできない」
「隠れているべきだ。危ないよ。言葉を選ばずに言うけど、おばさん達は地球人から侵略者だと罵られてもおかしくない。そうなったとき、人間がどんな行動にでるかわからない」
俺はいつの間にか早口になっていて、それに気づいて俯き、ゆっくり呼吸した。
そんな俺の様子を穏やかな表情で見て、おばさんは首を振った。
「どれだけ先延ばしにしても、いつかそんな日は来る。私たちに選べるのは何のためにリスクを負うか、ということだよ」
「自分のために負ってよ」
「自分のためだよ」
「どこが」
「大樹少年を守れる。それは私のためだと言えないかな」
俺はバン、とテーブルを叩いて身を乗り出した。
「俺のことなんて、いいんだよ。俺よりずっと大きな使命を背負っているじゃん」
「私たちの仕事なんて、誰も必要としていないよ。今から地球人が宇宙に進出しても、追いつけないほどの科学力の差がある。監視する危険性なんて、実は無いに等しい。それなら、地球人のために働くよ」
俺は椅子に座り込んで天井を仰いだ。おばさんが言っていることがわかったからだ。わかったし、正しい。いつだってそうだった。助けられるから助ける。人が死ぬことを悲しむ。見てきた人々の子孫が大切だから、我が身を危険に晒してでも動く。
人類に滅んでほしくないから、自分の記憶を犠牲にする。
「聖人じゃあるまいし」
「そうだね。私は宇宙人の遣いだね」
俺は人の悪意を知っている。両親が離婚した子供に向けられる視線に込められた、侮辱未満の哀れみ、直接的な言葉で侮辱されたことだって一度や二度じゃない。生物兵器なんてものを生み出したことも人の業だし、悪意の形だ。ときにそれは善意や好奇心の形として現れる。害意で造ったわけではないと言い訳しながら、人は純粋な気持ちで命を奪っていく。
俺の短い人生でわかることなんて、おばさんがわかっていないはずがない。
「俺に何かできることはある?」
「ある。大樹少年にしかできないことが」
天井に向けていた顔を正面に戻した。
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