第3話 大樹少年の家族
小学五年生の夏、母さんが死んだ後、俺の保護者を買って出てくれたのは北野のおばさんだった。母さんとは昔からの友人だそうで、俺が物心ついた頃から家に出入りしていた。今になって考えれば、二人の関係に疑問を持たなかったのは純真すぎるが、当時まだ小学生だった俺は、母さんを喪った現実と、否応なく変化した暮らしを受け止めるのに必死で、それ以外の余計なことは考えられなかった。
夜になると、よく泣いていたことを覚えている。泣くことが日常になってしまって、悲しさを意識するより先に涙が流れ、それによって自分が寂しがっているのだと認識する、そんな有様だった。
北野のおばさんは畳敷のアパートで一人暮らしだったけれど、俺と暮らすため、大きめのマンションに引っ越した。二人で暮らすには広すぎて、おばさんはガラガラの家に立ち尽くして困ったように笑っていた。
俺たちはそれぞれ自分の部屋を持っていたけど、おばさんは物が少なかったので、空き部屋は俺の物置になった。主に本や写真集、プラモデルや古くなったゲーム機なんかが積まれた。あとは少しだけ、母さんの写真なんかも。母子手帳はおばさんが必要だからと持って行った。
マンションの中に唯一ある和室がおばさんの部屋で、いろいろな物が積み上がっていた。滅多に入ることはなかったけど、その雑多さは結構好きだった。
俺たちは不器用に二人生活をスタートさせ、好きな物や嫌いな物、起きる時間や寝る時間を擦り合わせながら悲しみを癒していった。お互いにとってありがたいことに、おばさんは俺と同じくらい、母さんの死を悲しんでいた。俺は毎晩泣いていて、おばさんは多分、日中泣いていた。いつまで悲しんでいるんだ、なんて言う人はいなくて、俺たちは気が済むまで同士と悲しみを分け合えた。
同じ喪失を味わったから、俺たちは血の繋がらない他人でありながら家族になれたのだと思う。俺が見ている母さんと、おばさんが見ている母さんはきっと違う。でも同じ人間のことなのだから、やっぱり一枚捲れば同じようなことを考えている。
ゆっくり、時間をかけて俺は母さんのいない日常に慣れていった。晴れた空の下を歩いていたある日の下校道、そろそろ大丈夫かな、と思えるようになって、俺は悲しむことを終えた。
「おばさん、来月授業参観があるんだけど、俺の保護者として、来る?」
俺がつくった朝食を二人で食べながら、俺は無関心を装って聞いた。
「一回は見ておきたいかな、大樹少年が手を挙げているところ。小学校なんて随分久しぶり」
「スーツみたいな服、持ってんの?」
おばさんは、はた、と卵焼きをつつく箸を止めてしばし思いを巡らせた後、力なく笑った。
「無いかも。あってもかなり古いし、買わないとね」
俺はこっそり緊張を解いた息を吐いて、ご飯を口に運んだ。立場上保護者なので、親代わりの役目を果たしてもらうことは吝かではない。でも俺には、おばさんが親だとはどうしても思えなかった。親というより先生の方が近い。
昔からおばさんは、俺のことをいい意味で子供扱いしない。子供だからとか、子供なんて、などと言われた記憶も、そういう態度を取られた記憶もない。俺がわからないことには丁寧に言葉を尽くして説明してくれたし、意見が衝突したら蔑ろにせず話を聞いてくれた。
子供だから、ぐずることも拗ねることもあったし、上手く言葉にできないこともあった。でも、その経験は間違いなく今の俺の糧になっている。人を人として尊敬すること、そしてその反対の姿勢を、一桁の年齢でなんとなくわかって助かった。教師は子供を尊敬していないし、子供は教師への尊敬を強制される。一方通行の敬意の歪さにいち早く気付けたおかげで、学校の構造に惑わされずに済んだのだから。
「おばさんって、学校と相性悪そうだよね」
「そう?」
「先生ってすごく忙しくて、子供一人一人を相手にする時間なんて無いんだ。おばさんは人間関係に真面目だから、疲れちゃいそう」
「ううん、まあ小学校には通ったことがないからなあ。大樹少年が言うなら、そうなのかも」
「小学校に通ったことがないの? 義務教育でしょ」
社会科の授業で習った。日本の子供は全員が中学校までの教育を受けなければならない。
「昔はそんな法律が無かったんだよ」
「法律が無いことなんてあるの?」
「どんな国も憲法も、始まりの時はあるよ。生まれたときから当たり前に存在するから気づきにくいけどね。空気も海も、この前見た綺麗な星も、最初からあったわけじゃないんだよ」
「空気や海は最初からあったでしょ」
法律は人が作ったものだからともかく、地球があれば海や空気はある。海から生命が始まったことくらい知っている。
「違うよ。地球だって最初からあったわけじゃない。全てに始まりはある」
「卵が先か鶏が先か、だっけ」
「それとはちょっと違うけどね」
その日の登校中、橋の上から細い川を見下ろして、おばさんとの会話を思い返した。海や空も、最初は存在しなかった。海へ流れ出る水は、山から下りてくる。それは雨で降り注ぎ、雨は海からやってくる。これで一周。でも、無くなったり生まれたりはしない。おばさんが言っているのは、もっと大きな世界の話だ。俺にはわからない、途方も無い話。
同級生が嬌声を上げながら校門に駆け込んでいく。彼らも生まれる前は存在しなかった。親にはさらに親があって、遡れば人類どころか猿すらいない世界に辿り着く。
空には太陽が煌めいていた。変わらないものはあれくらいだ。それとも、太陽だって始まりのときが、光り始める瞬間があったのだろうか。
やっぱり、おばさんとの会話は面白い。
俺は今日も、俺を尊敬しない教師の話を聞きに行く。
◇
保護者が見に来ている授業で手を挙げるかどうか。これは俺にとってなかなか難題だった。普段なら、わかるものは手を挙げるし、わからないものは滅多にない。つまりほぼ毎回俺は答えられる。
でも、授業参観は教師にとっても生徒にとっても、さらに言えば保護者にとっても特別で、将来の夢を作文にして発表するという何の罰ゲームかわからないことに大人は期待し、俺はげんなりした。
罰ゲーム。本当に、一体何を考えてこんな授業をしているのだろう。いつも通りでいいじゃないか。円周の長さを計算したり、国語の教科書を音読したり、そういうことでいいはずだ。それだったら俺も授業の活発化に協力して、教師の点数稼ぎに貢献してあげられた。
でも、将来の夢を読み上げるのは、ない。昨日の午後、一コマ使って書くように言われたので書いたが、まさかこのためだったとは。俺もまだまだ先読みが浅い。でも、本当に勘弁してほしいのだ。こんな所で読めるものでは、とてもない。だいたい、知らない人の前で俺の思想や将来設計を明かすなんて、恥ずかしさの前に警戒するべきことだ。知られたくない。
せめて、何かのディベートみたいなことにしてくれたらいいのに。
クラスメートたちが、一人ずつ将来の夢を語っていく。公務員、花屋、お菓子屋、商社マン、登山家、テレビ局員、芸人、スポーツ選手。実に個性豊かで素晴らしい。だからそれで満足してくれ。俺に構わないでくれ。
俺と担任教師は仲がいいわけでも、悪いわけでもない。俺の作文を読んでいるのかわからないが、ちらちらと俺の様子を窺っていることはわかった。
他の生徒の発表を熱心に聞くふりをして、無視し続けた。
◇
「小学校って大変だね」
「おばさん、緊張していたね」
「いやあ、疲れた。あんなに大勢と話したのは久しぶりだよ」
夜、おばさんが作った肉じゃがとレンコンサラダを挟んで、俺はおばさんの話を聞いていた。授業の後、懇親会なるものがあって、同級生の保護者に囲まれたのだという。
「嫌なこと、言われなかった?」
「言われなかったよ。どちらかというと、大樹少年のことを心配してくれていたんじゃないかな。母子家庭で親が死んだら、そりゃあ心配になるよね。しかも、私は親でもないわけだし、周りから見ればどういうことだろうって不思議なんでしょ」
「面倒なら、養子になろうか」
「やめておこう、少なくとも今はまだ。無理に親子になる必要はないよ。もちろん、大樹少年が私の息子になりたいならそれは嬉しいけど、周りの目が面倒だから、なんて理由で決めることじゃない」
穏やかに言う様子に、俺は頷いた。この調子ならたしかに急ぐこともなさそうだ。
「昔からの親友ということにしておいた」
おばさんと母さんの関係を言い表すには、ちょっと食い違う気がした。でも、代わりの言葉を見つけられず、俺は曖昧に首を傾げた。おばさんも内心ではそう思っているようで、困ったように薄い笑みが浮かんでいる。
「おばさんは、それでいいの?」
「どういう意味で?」
「母さんとの関係を、そんな言葉でまとめちゃっていいのかなって」
友達、知り合い、パートナー、夫婦、協力関係やチーム。俺が知っている言葉は限られているけれど、言い表せないものを乱暴に一つの言葉に押し込むのは、普段のおばさんの話し方とは違うように思う。
「おばさんはよく言うよね。わからないものはわからないと言っていいってさ。母さんとの関係も、よくわからないって言えばいいじゃん」
「そう言ったら、今度は質問されちゃう。あの人たちに、そこまで私たちのことを話す義理はないよ。少年が手を挙げなかった理由も、そんなところなんじゃないの」
咄嗟に答えられなくて、誤魔化すようにレンコンをかじった。上手く話題に上げずに過ごしたかったのだけれど、おばさんにはお見通しだったようだ。
「あんな風に、皆の前で読み上げるためのものだと思わなかったんだ」
「うん」
「おばさんに聞かれると思っていなくて、でも、あの場で別の文を考えることもできなくて、黙っていた」
「私に失礼な内容だったの」
「違う。違わないかもしれないけど、そういう意味じゃない。でも、おばさんが聞いてどう思うか、俺にはわからないから」
何も思わないかもしれない。笑うだけで済ませるのかもしれない。でも、俺には想像もできない背景や過去をおばさんが持っていて、俺の言葉で悲しむかもしれない。そういうリスクがあることを書いてしまった。
傷つけたって、考えすぎだとか、それは相手の都合にすぎなくて俺に責任はないとか、言い訳は思いつく。でも、リスクがあるとわかっていて見て見ぬ振りをするのは、違う。おばさんに教わったことは、そういう乱暴なことじゃない。
「そうか。話したくないなら無理には聞かないけど、私は聞きたいと思うよ」
「ごちそうさまでした」
俺は食べ終わった食器を持って流しに向かった。いつの間にか決まった習慣。朝食を作るのは俺の担当で、片付けはおばさんが担当。夕食は逆。
「大したことじゃない」
嫌われる勇気が出なくて、俺はおばさんと目を合わせられなかった。
「生みの父親を見つけて、母さんとの間に何があったのか聞きたいって、そう書いたんだ。勘違いしないで。その男と暮らしたいとか、今が不満だとか、そういうことじゃない。ただ、思いついたことがそれだけだった」
「自分のルーツを知りたい?」
「そう、そんな感じ。何があったのか、何がいけなくて二人は別れたのか。連絡先も居場所もわからないような関係に、どうしてなってしまったのか。事実を受け止められるようになったら、ちゃんと知りたい」
ざばざばと食器を洗う。顔が熱い。全てに始まりがあるのなら、俺にだって始まりがあって、そこにはいろいろな事情があったはずなのだ。
「いつか、わかるといいね」
おばさんの顔は少し寂しそうで、やっぱり言わなければよかったと後悔した。
◇
動物園に興味はなかったけれど、プラネタリウムは心惹かれた。おばさんが運転する車で科学館へ行き、プラネタリウムを予約する。待ち時間に展示物を見て回るだけでも楽しかった。
音や波、磁力に重力、正直理屈がわからない不思議なことも多かったけれど、おばさんが言うには、プログラミングされたものではないらしい。
俺たちは数メートル離れて背を向け合って立ち、目の前の湾曲した壁に向かって喋る。すると、後ろにいるおばさんの声が俺の正面から聞こえた。
「これって、おばさんの声をすぐに俺の方で再生しているってことだよね」
「いや、音が持つ性質と、放物線の性質を合わせたら、こういうことができる。電気は一つも使っていない」
「嘘でしょ」
普通ならおばさんには届かないような小声を発しても会話ができた。
「放物線は、英語でパラボラって言う。パラボラアンテナって聞いたことない?」
「名前だけは」
なんとなく、白くて丸いアンテナというイメージはある。
「簡単に言うと、波の方向を揃えることができる形状なの。普通に声を出すと、声は四方八方に散っていく。でも、パラボラアンテナで方向を揃えると、散っていかずに無駄なく伝えることができる」
厳密には多少は散るんだけどね、と語るおばさんの声は楽しそうで、少し格好つけているようにも感じた。
「俺が言った方法でもできるよね」
それぞれの壁にマイクとスピーカーが設置されていて、音声データを送り合っても同じことになるはずだ。
「もちろん。でも、こっちの方が安上がりだよ。板二枚で済む。それに、機械が無いから故障しようがない。他にも大樹少年の言う方法で、大きな谷を挟んだあっちとこっちで会話しようと思ったら、ケーブルを通さないといけない。無線通信をするにしても、電気が必要だ。雨対策も必要になるね」
谷を挟んで会話したいなら、トランシーバーや携帯電話で話せばいい。わざわざ板を曲げて持ち運ぶ必要はない。おばさんの言うことは何だかこじつけ臭かった。
「でも、そうか。大樹少年の世代はプログラミングされた機械が当たり前だから、何でもできるように感じてしまうのか。本当は、全部原始的な法則や物の性質を組み合わせてできているんだけど、今の子たちは完成された利器にしか触れないんだね」
「そんなに原始的な物ってある?」
「そうだなあ。水力発電とか、火力発電とか。磁石を回せば電流が生まれる。要はどうやって磁石を回すかが違うだけなんだよね。高い場所から低い場所に水が流れる、つまり重力を利用するのが水力発電。物を燃やして水を沸騰させ、その蒸気で回すのが火力発電。私たちが使っている電気はそうやって生み出される。発電機の展示もあるかな」
おばさんが言う通り、手回し発電機で豆電球を点ける展示があった。これの巨大版が、俺たちの家に電気を供給しているということなのだろうが、どれほどのサイズなのか見当もつかない。
恥ずかしながら、今日まで電気はコンセントから自動的に出てくるものだと思っていた。考えてみれば、おかしなことだ。
全てのものには始まりがある。最初から存在しているものは無い。教わっていたはずなのに。
「俺もまだまだだなあ」
俺の呟きが面白かったのか、おばさんが吹き出した。
「何で笑うの」
「いや、ごめん。あんまり深刻そうに言うから」
俺は早く大人になりたいと思う。特に知識面で。運動神経は良くないから大人になっても大して変わらないだろうけど、頭の良さはもっと上を目指したい。
「そんなに急いで勉強されたら、私が教えられることが無くなっちゃうよ」
「そうなりたいんだ」
俺はおばさんに貰うばかりで、それがいつも少し悔しい。
◇
プラネタリウムは面白かった。でも、もっと面白かったのは帰り道でおばさんがしてくれた解説の方だった。
人類にとっての宇宙といえば、長い間、地球と太陽と月、その他の星、という程度の貧弱なものだったという。望遠鏡で惑星が観測されるようになっても、まだ太陽系の外側はイメージされていなかった。観測技術が進歩するにつれ、ようやく銀河という巨大な星の集まりの中に自分達がいることが知れた。今では銀河団や宇宙の大規模構造、さらにはダークマターという、存在することは確実なのに未発見の物質があることまでわかっているのだとか。
「世界には分かっていないことが沢山ある。大樹少年が大人になっても、未知のことは山ほど残っているだろうね」
「宇宙人はいないの?」
「人類はまだ見つけていないな」
「人類以外は見つけている?」
おばさんは俺をちらりと見て、唇の片方で笑った。聞き方が嫌らしい自覚はあったので、同じ笑いを返す。
「宇宙は広いからね。どこかでは、違う星に住む宇宙人同士が交流していてもおかしくないんじゃないかな」
「どうして地球には来ないんだろう」
「どうしてだろうね。遠すぎるのか、彼らから地球が見えないのか」
俺の頭の中には、本日できたての広大な宇宙の地図が浮かんでいて、その果てで宇宙人同士が互いの星を行き来している様子が描き込まれた。そこから見ると、地球は点ですらなくて、見つけられなくても仕方ない気がした。
「俺が生きている間に、宇宙人に会えるかな」
おばさんはハンドルを指でリズミカルに叩いた。
「会えるといいね。でも、大樹少年、可能性の話なら、宇宙人はもう来ているかもしれない。じっと地球人を見ているのかも」
俺は、ビルの地下に潜んで地球を観察しているタコのような足の宇宙人を想像した。肩身が狭そう。
「いるんなら、話しかけてくれればいいじゃん。見ているだけなんてつまらなくない?」
おばさんは大笑いした。
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