或るピアノ弾きの話

@ryumei

第1話 或るピアノ弾きの話

永野百合は幼少期からピアニストになるべく教育を受けた

高名な指導者につき

海外の高名な音楽大学を出て

しかし結果としてソリストにはなれず

伴奏演者あるいは音楽教師の道もあったが

どちらも選ばずに結婚した

結婚して山田百合になった


結婚して二年後に子供が生まれた

子供は一卵性双生児だった

姉の芽衣と妹の麻衣


二人はいつも一緒で

いつも笑っていた


母は自身が受けてきた教育を

そのまま子供たちに授けようと試みた

それ以外の教育を知らなかったのだ

自身が果たせなかったピアノソリストの夢を

二人に託した


二人は足並みそろえて

その期待に応えていった

いくつものコンクールで

二人そろって表彰台に立った


二人はいつも

音の中にいた

部屋は音であふれ

いつも音を学び

いつも鍵盤に触れていた

音は彼らと同一だった


しかし中学に上がると

何かが少しずつずれてきた


麻衣は相変わらず常に表彰台で頂点に立ち

姉の芽衣は緩やかにその序列を下げていった


芽衣はその流れに負けまいと

これまで以上に音を学び

これまで以上に鍵盤を叩いた

起きているあいだは常にピアノに集中した


しかしその流れは止まらなかった

いつしか芽衣は表彰台に立つことから遠ざかっていった


「音楽に序列なんてないよ」


麻衣は屈託のない笑顔で言った

それがどこまでも本心なのは芽衣にはわかった

芽衣は曖昧な微笑で返した


序列がないと言えるのは

序列を意識せずとも

その頂点に立ち続けることができる

持って生まれた資質を持った人間だけなのだ


なんのことはない

芽衣は初めからわかっていた

誰よりも麻衣と一緒にいたのは自分なのだ

その音楽の資質は

周囲が発見するよりもずっと前から

知っていた

麻衣はピアノに愛されている

そしてわたしはピアノに愛されていない

麻衣とわたしは双子

顔も背丈も声もほとんど同じ

違うところは才能だけ


芽衣は縋るようにピアノを弾いた

誰に向かって

何のためにピアノを弾くのか

自らに問うようになった時から

なんだかひどく疲れるようになった

ずっと音に浸っているとめまいがするので

リビングから離れて自室に籠るようになり

麻衣とも距離を置くようになった


麻衣の才能は世界に発見されていた

麻衣は無心に無欲に純粋に

ただただ音楽そのものだった

麻衣は母とともに世界を飛び回り

大きな舞台でピアノを弾いて

自身の音を知らしめた


その姿を芽衣は

主にテレビで追い

そして追わなくなった


芽衣は二十歳になった

家族で夕食を食べている際

ふと母が言った


「芽衣、ピアノがつらいなら、もうやめてもいいわよ。べつの、やりたいことを探してもいいわよ」


芽衣はその言葉を聞いて

世界が崩落していく気がした

母はわたしを慮って言ったのかもしれない

でもわたしは生まれてこの方

ピアノしかやったことがないのだ

今更やりたいことと言われても

何をやりたいかなんてわからない


その日から芽衣は

なぜだか食事を食べられなくなった

お腹は空くのだが

食事を摂ると

ほとんど反射的に嘔吐してしまうようになった

せめて水分をと口に含んでも

それもまた嘔吐した


芽衣は体を動かすのも億劫になり

自室のベッドでずっと横になった

耳には耳栓を詰めて

何も聴こえないようにした

すべての音を聴きたくなかった


食事が摂れない芽衣は

徐々にその体重を減らしていった

半年ほど経つと

手足がまるで枝のようになり

自力で立つのもやっとになった


困惑した父は

知り合いの医師のもとに連れて行った

拒食症と診断された

即日入院の指示をされた


芽衣は入院しても食べられなかった

点滴からの輸液が芽衣の命を繋いだ

芽衣はありがたくなかった

その時にはもう

べつに生きていたいとも思っていなかった


入院して三か月が経った

相変わらず芽衣の体重は増えず

外泊の許可すらおりなかった

周りには自分と同じ病気の人が何人かいる

中には一年入院している者もいる

どうでもよかった

べつに家に戻りたいとも思わなかった


ある日のこと

芽衣は点滴台を引きながら

院内を歩き回っていると

とある部屋が見えた

窓越しに部屋の中をのぞくと

いくつかの机と

いくつかの椅子と

ホワイトボードと

そしてその横にピアノが置かれていた


芽衣は何げなくその部屋に入った

部屋には誰もいなかった

芽衣はピアノにそっと触れた

E4の鍵盤を押してみた

E4の音が部屋を舞った

なんだか懐かしい気持ちになった


「お姉ちゃん誰?」


突然の声に

芽衣は驚いてのけぞった

声をかけてきた子は

おそらくは小学生くらいの体格の女の子だった

頭髪がなく

丸い帽子をかぶっていた


「お姉ちゃん、ピアノ弾けるの?」

「……少し」

「じゃあ弾いてみて」


芽衣は少し迷ったが

女の子の目を見て決意し

ピアノの前に座った


モーツァルトのピアノソナタK.545第一楽章を

指が勝手に弾いていた

何万回弾いたかわからない旋律なのに

なぜかすべての音が新鮮だった


弾き終えると静寂があった

女の子のほうに目を向けると

女の子は口をぽかんと開けたまま

放心したように芽衣の指先を眺めていた


「すごい」


女の子が叫んだ


「すごい。すごすぎ、お姉ちゃん」


芽衣は女の子の輝く瞳の視線を受けて

戸惑った

再びドアが開く音が聞こえた


「なになに?なにがすごいの?なにかすごいことあったの?」


どやどやと何人かの子供たちが部屋に入ってきた

そこで芽衣は理解した

ここは院内学級だったのだ

長く入院している子供たちが

ここで学習をする

もちろん音楽も


「このお姉ちゃん。すごいの。ピアノめっちゃ上手なんだよ。天才だよ」

「え、天才?」

「ピアノ弾けるの?」

「すごい痩せてる」

「お姉ちゃんもニュウイン中?」

「弾いてみて弾いてみて」


弾いて弾いての大合唱を受けて

芽衣は今度は

モーツァルトのピアノソナタK331を弾いた

指が自分ではない生き物のように

鍵盤の上を舞った

子供たちが全神経をこちらに向けているのがわかった


そうか


と芽衣は思った


そうか

これならわたしも……

わたしも何かを与えることができるのかもしれない


芽衣はその日から

出てくる食事をすべて食べた

食べても嘔気が起きなかった


食べるんだ

食べて

もう一度生きるんだ


芽衣は退院してから

猛然と勉強を始めた

今までピアノ漬けで教科書を開くこともまばらだったが

初めてしっかり勉強した

知らないことを知ることは面白かった

普通に食べて

普通に時々散歩して

あとはずっと机に向かった


22歳で大学に入学した

教育学部だった


卒業して教員免許を取得した芽衣は

実家の隣の県の小学校に

音楽教師として赴任した

芽衣は喋るのがへたくそで

生徒の前でも口ごもってからかわれたりしたが

音を通じて触れあえた

芽衣がピアノを弾くと

皆が耳を傾け

そして歌った

合唱コンクールに向けて練習し

結果は頂にとどかず

全国大会には行けず

子供たちは泣いて

でも芽衣はひといきに言った


「序列なんてないよ」


序列なんてないのである

しかしそれを芯から納得したころから

芽衣はもう一度挑戦したくなった

今の自分の音楽が

普遍を持てるのか試したくなった

年齢は29歳になっていた

エントリーする者の誰よりも年上だった


芽衣は授業の傍らで

夜な夜なピアノの練習をした

実家を出て狭いアパートに住んでいた

周囲の家に音が響くのを謝りたおして

ずっとずっと練習した

あと一か月で30歳になる

20代が終わるのだ

これが最期

これが最期


コンテストの日になった

出場を聞きつけた生徒が10人ばかり

聴衆に混じっていた

芽衣は自分のすべてを鍵盤にぶつけた

技術と人生の経験の全部をぶつけた

自分の出す音が

他人の普遍に触れられるかはわからないが

今弾いている自分は

自分の中の普遍に少しばかり

触れられた気がした


演奏を終え

舞台袖に戻った

汗が額から流れ落ちた

芽衣は崩れるように椅子に座り

首を垂れた


結果が発表された

18人のエントリーで13番目

1番は自分より一回り以上年下の女の子

才気あふれる俊英

赤いドレスを纏っている


少しは出し切った達成感があるものかと考えていたが

思いのほか何もなかった

虚無感と虚脱感が覆っていた

全身に力が入らなかった

彼女にあってわたしになかったものは?

才能が足りなかったのか

努力が足りなかったのか

努力の仕方が間違っていたのか

あるいはその全部なのか


舞台袖から見える

表彰を受ける赤いドレスの女の子

椅子の前のテレビに映るは

スウェーデンの国際コンクールを舞台にする麻衣


自分は……


芽衣は会場を後にする

衣装の入った鞄を片手に

視線を地面に落として

階段を降りていく


「山田せんせーい」


向こうから声が聞こえる

顔を上げ視線を向けると

生徒たちが笑顔で手を振っている

生徒たちの吐く息が白く

もくもくと宙を舞う

今日はとても寒いのだ

あんなに薄着であの子たち風邪ひかないかな


芽衣は思った

何かは終わった

でもべつの何かはすでに始まっていたのだ


「一緒に帰ろっかー」


芽衣はらしくない大きな声で

生徒たちに向かって叫んだ


                           

                      <完>

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