第5話 鏑木翔太
鏑木翔太は東京生まれの東京育ち
アマチュア七段の父に導かれて
将棋の世界に入った
小学生名人でさくらと対戦して以来
鏑木はさくらを意識し続けた
鏑木は言う
「意識しないと言ったら、嘘になりますね。いや、大嘘ですね。そりゃ意識しますよ。小学生名人の決勝の相手で、同い年で、奨励会も同期で、僕の方が少し早く上がりましたけど、同期の中でプロになったのは鈴木と僕だけ。負けたくないという思いは強いです。羨望もあります。ああいう将棋は僕にはできない。棋理なんて関係ない、無骨に勝利をもぎ取るスタイルで、そんな中でさくらシステムみたいな戦法を考案して、結局棋理を一歩進めたのは彼女です。不思議な話ですよね。勝ち数としては僕が上だけど、でも、将棋界に次の扉があるとしたら、それを開けるのは彼女でしょうね。その時まで、自分は振り落とされないぞ、と思ってる。必ずくらいついて、同じ風景を僕も見せてもらうぞと、そう思っています。負けません、絶対に」
さくらの全精力を盤面に傾ける姿に
鏑木は気圧された
気圧されると同時に
いつしかどこか胸の高鳴りを感じた
それがどういう類のものなのか
鏑木自身はよくわからなかった
あるときさくらの対局の解説をしていると
明らかにさくらの体調が悪そうであった
「顔色よくないですね」
テレビの解説で鏑木はそうつぶやいた
さくらは前日から39度を超える発熱をしていたのである
青色吐息で打ち進め
134手でさくらは負けた
さて感想戦というタイミングで
さくらは前のめりにぶっ倒れた
モニターで見ていた誰もが驚愕した
これほどまでに勝負に向かわせる執念は
いったいどこから来るのだろう
棋聖戦のトーナメントで対局となったとき
さくらは例によって途中でお菓子を頬張った
さくらは相手の手番で鏑木が長考しているときに
まだ半分くらい残っているまんじゅうを一気に口の中に入れた
さくらは大いにむせこんで何度も咳をして
お茶を飲み飲み盤に突っ伏した
鏑木は呆れた
勝負は結局107手でさくらが勝利した
「咳の音で気が散った」
感想戦の最中に鏑木は言った
「そりゃすいませんでしたね」
さくらは盤面から視線を動かさずに言った
「あんな一気に頬張って非常識だ」
「あんたには関係ないでしょ」
「関係ないけど気が散るよ。あんなむせこんで、危ないじゃないか」
「じゃ、今度から鏑木様の御前では何も食べません。それでよろしいですか王子?」
「そこまで言ってない」
そうじゃないんだ
自分はいったい何を言いたいのだろう
本当は音なんてどうでもいいのだ
気が散ったのは他の要因だ
気がかりなのだ
心配なのだ
でもそれはどういう感情だ?
(続く)
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