浅葱さんはお約束がお好き

桜 さな

第1話

金曜、20:00。

営業から戻って雑務をこなし、クレームなどが上がっていないか確認。運良く今日はこのまま帰る事ができる。

すぐに席を立ち挨拶をして会社を出た。


向かう先は自宅の最寄りの駅前にある、馴染みのレストラン。

カランッ、と音を立てるドアを開けて中に入ると、店員がこちらに体を向け「いらっしゃしませ」と声をかけた。

通常なら客が来たら側まで来て席まで案内するものだが、俺は常連である事と、とある理由で案内される事がない。


店員に会釈を返して目的の場所へ向かう。そこはレストランに入ってすぐに目に入る位置にあるテーブル。


「お疲れ様。先にやってるよ」


近付くとそこに座る女性がグラスを軽く上げながら俺に労りの声をかけてくれる。

にこやかにこちらを見る彼女の姿に頬を緩ませながら向かいの席に腰を落とす。


「ただいま。待たせてごめん」


「遅かったね。30分の遅刻」


「う…ごめん。営業先でちょっとトラブっちゃって」


「解決するのに時間がかかって連絡も無し?」


「ごめん。今日は奢るから…」


「あらら?いつも払ってくれてるでしょ?」


「…これ、お詫びの気持ちです」


カバンから1cm程度の厚みの長方形のものを取り出してスッと彼女の前に差し出す。

諭吉の似顔絵が描かれたそれに視線を落とした彼女はコテンと首を傾げて口を開く。


「もう一声?」


「どうぞ」


大人しくもう一つ同じものを出して重ねて置く。


「まぁ、いいでしょう」


そう言う彼女は元々大して怒っていない。

いそいそと諭吉印のチョコレートのパッケージを開けて一欠片自分の口に放り込む。高級チョコレートとは比べ物にならないネタチョコだと言うのに、花が飛ぶ幻影が見える位ご満悦だ。


「相変わらず美味しそうに食べる」


「あげないから」


「そう言わずに。ね、お願い」


「…もーしょうがないな、一欠片ひとカケだけよ?」


そう言って差し出されたチョコレートを口で迎える。まぁ、有り体に言えば「あーん」て奴だ。


「ん、美味しい」


「でしょ?」


唇に彼女の指先が触れる感触がした。ベタだけど、普通に食べるより甘く感じる。ストレートに感想を伝えれば、少し頬を染めた彼女がそれを誤魔化すように被せ気味の返答を返した。


たまには反撃もしないと、と彼女の反応に内心得意げになっていると。


「ほんと、美味しい」


チョコレートを摘んでいた指先をペロリと舐めて、俺の目から視線を離す事なく囁く。

あ、バレてる。

その挑戦的な彼女の様子にそう思うと同時に、指先をなぞる舌、俺の目から離れないちょっと上目遣いの視線、自分でやってて照れたのだろうさっきよりも赤みの増した頬。色気全開でこちらを攻める彼女に俺は呆気なく白旗を振った。


「完敗です」


「うふふっ」


途端に霧散する甘い空気。上機嫌に笑う彼女は水を一口含んで、パスタの皿に手を伸ばした。

俺も何か頼もうと、ようやくメニューを手に取る。

彼女と同じくパスタにするか、とページに視線を落としつつ内心思う。


件のネタチョコがカバンの中にあと3枚入っている俺が彼女に勝つことはそうそう無いだろう、と。

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