悪役令嬢を自分の女王様にしたい犬希望の従者でしたが

餡子

悪役令嬢を自分の女王様にしたい犬希望の従者でしたが


 彼女との出会いは、木枯らしが舞う季節のことだった。


 8歳で両親を流行病で亡くした。その後、遠い親戚に引き取られたが自分で調整できない魔力の暴走により、厄介者扱いされた。そしてとうとう王都の外れに捨てられたのは半年前のこと。

 最初は近寄ってきたスラム街の子ども達も、度々魔力を暴走させる俺を恐れて逃げ出すようになるまで時間はかからなかった。

 まだ10年しか生きてないのに頼れる家族もなく、家もない。生きていく術も教えられぬまま、冬が来ようとしている。孤児院ですら、厄介者の自分は見ないふりをして受け入れてくれない。

 限界を迎えて道端で薄汚い姿で縮こまっている自分の周りは、自然の寒さだけでは無い冷気に包まれていた。


(また魔力の暴走か……)


 体力の落ちた痩せこけた体では最低限の制御もできない。自分の魔力で自分の体の熱を奪っていく始末。

 寒さに震える己の体を抱える手は霜焼けで真っ赤になっていた。もはや指先の感覚はない。


(ここで死んだ方が、きっとマシだ)


 今までは道端に生えた草やゴミを漁ってなんとか生きてきた。けれど、冬が来たら屋根のない場所で生きていくのは難しいだろう。

 一気にすべてがどうでもよく思えてきた。ゆっくりと重くなっていく瞼を閉じる。

 そんな時だった。


「大丈夫!? 魔力が暴走しているの!?」


 駆け寄ってくる軽い足音の後、高い少女の声が頭上に降ってきた。


(俺に声をかけてくる人がまだいたなんて)


 瞼を持ち上げた先には、キラキラと輝く豪奢に波打つ金髪が見えた。自分と同じ歳くらいの少女だ。まだ幼なくとも人形みたいに整った顔は美しい。釣り上がり気味の水色の瞳は冷ややかな氷を思わせる。


(なんて綺麗な……理想の悪役令嬢!)


 うん?


(『悪役令嬢』って、なんだ?)


 それはもちろんアレだ。

 漫画やゲームでヒロインを虐めて、最後にはザマァされる悪役のお嬢様のことだ。

 でも、俺は常々思っていた。

 悪役令嬢って、みんな美人! スタイルも良くて、家柄も良くて、だからプライドも高いけどそこが魅力だろ!

 ヒーローの前で嫉妬丸出しになったりするけど、それってそれだけそいつが好きだって態度で示してるわけだよ。なんでヒーローはそれがわからないんだ?

 あんなに思われてどこに文句があるんだ。

 可愛いだろ、悪役令嬢!

 しかしそんな悪役令嬢達は悪役だけあって、最後は舞台から引き摺り下ろされてしまうのだ。修道院に行ったり、没落したり、国外追放を食らったり、最悪は処刑コース。

 なんでだよ! おまえら全員、どうして悪役令嬢の良さがわからないんだ!? 最高だろ、あの高飛車な態度!

 画面を前に何度涙を飲んだかわからない。

 俺は、そんな悪役令嬢を救いたかった。

 そして叶うなら、悪役令嬢に冷ややかな目を向けられたい。ぞんざいに命じられたいし、安易に蔑まれたい。出来れば可憐な足でちょっと踏んでもらいたいまである。

 勝ち気で気高い美人なお嬢様の下僕として仕えたい。


 そう、俺はずっと悪役令嬢に自分の女王様になってほしかった。


(……なんだそれ)


 脳内に勢いよく流れ込んできた感情と記憶に呑まれて呆然とした。

 死ぬ間際に思い出したのが、たぶん前世の自分が思い描いていた夢という名の欲望だなんて。


「あなた、手が凍えているじゃない! 魔力を制御できないの? ……孤児みたいだし、教えてくれる人がいなかったのね」


 呆然としているうちに少女が躊躇うことなく汚れた俺の手を取った。両手で包み込むと何かを唱える。たぶん魔力が高いと言われる貴族なら習う魔法だ。

 じわじわと指先から熱が広がってきて、全身に温かさが行き渡る。優しい温もりに強張っていた体が緩んでいくのがわかった。


(どうしてここに、ローザリンデが?)


 目の前に現れた少女のことを、前世の俺は知っていた。


(これは多分、ローザリンデだ……乙女ゲームのヒロインにヒーローを奪われて、婚約破棄される悪役令嬢)


 とても好みだったからよく覚えている。

 いつも凛としていて、婚約破棄されても最後まで媚びない態度が素晴らしかった悪役令嬢だ。俺の推しだった。

 それが、手の届く距離にいる。


「どう? これで動けるかしら」


 ローザリンデは心配そうに眉根を寄せながら俺を覗き込んだ。

 これは哀れな俺に神様が見せてくれた最後の夢かもしれない。

 ならば、俺が願うことは。


「なんでもするから、俺を……あなたの犬にしてください!」


 最後くらい欲望をダダ漏れにしてもいいだろ!

 ローザリンデは数秒絶句した後、眉尻を下げて痛々しい顔をした。


「そんな風にしか人に助けを求める方法を知らないなんて……。大丈夫よ、私がちゃんとあなたを保護するわ」


 しっかりと頷くローザリンデを視界に収めた途端、安堵した俺の意識は一瞬にして真っ暗になった。


 このとき俺は人生最期に見る都合の良い夢だと思っていたのだが、起きたら本当にバルテル伯爵令嬢であるローザリンデに保護されていた。

 こうして俺は、めでたく念願の犬人生を手に入れたのだった。



   *


 とん、と杖で地面を叩いた。浮かんだ魔法陣を踏んで、夜闇の合間を空間転移して王都を駆け抜ける。全身を包む黒いローブを翻し、辿り着いたのは主人と暮らしているバルテル伯爵邸だ。

 玄関ではなく直に主人の部屋のバルコニーに降り立つと、大きなガラス戸を軽く叩く。

 そう待たずに中からゆっくりと開かれた。

 現れたのは、俺の主人。

 出会った頃から八年が経ち、18歳となった美しいバルテル伯爵令嬢ローザリンデである。

 波打つ豪奢な金髪は細い体を覆うように腰まで伸びて、冷ややかに見える水色の瞳は勝気さを讃えている。

 前世の俺がゲームのスチルで見たままの姿へと成長していた。

 まさに理想の悪役令嬢の姿となったローザリンデは、俺を迎え入れながら眉を顰めた。


「どうして玄関から入ってこないの」

「一秒でも早くご報告したいと思いまして」

「従者とはいえ、淑女の部屋に一人で訪れていい時間ではないのよ」

「お仕置きされますか?」


 悲しい声を出すはずが、思わず期待で弾んだ声が出てしまった。駄犬だと罵ってもらえたりするんだろうか。ワクワクしてしまう。

 そんな俺を見越したのか、ローザリンデは嘆息を吐き出した。


「あなたにはご褒美になるじゃないの」

「バレましたか」

「それより、ゲオルク様はどんなご様子だったの」


 ゲオルクというのはホイス侯爵家の長男であり、親同士が決めたローザリンデの婚約者であった。


 そして乙女ゲームの攻略対象でもある。


 ローザリンデは王立魔法学園に入学する直前の15歳の時に、ホイス侯爵令息ゲオルクと婚約を交わしてしまっていた。

 当時の俺は魔法の才能を見出されてバルテル伯爵の後見を得てローザリンデの従者に収まっていたとはいえ、まだ婚約を止める手立てがなかったのだ。

 ただもしこれでゲオルクが誠心誠意ローザリンデを愛するというのなら、二人の仲を泣く泣く応援する気でいた。

 だがその後、同じ学園に入学してきたヒロインである男爵令嬢のリアンが、よりによってゲオルクを選んでしまった。そしてゲオルクもリアンに応えてしまったのである。

 おかげで現在、卒業を明日に控えた婚約中の二人の仲は殺伐としたものとなっている。

 ローザリンデは悪役令嬢ルートに乗ってしまったというわけだ。


「ゲオルク様ですが、明日の卒業記念パーティーではリアン嬢をエスコートされる気だと思われます。さっきもリアン嬢の手を取って『必ず君を僕の手で幸せにするから信じてほしい』とのたまってました」

「あの娘に信頼を乞う前に、まず先にこちらとの関係を清算していただきたかったわね」


 ローザリンデが心底呆れ切った息を吐き出した。ソファーに優雅に腰を下ろす。

 こんな状況ですら気品を失わない。好きだ。


「リアン嬢の家から娘可愛さで、借金を抱えたホイス侯爵家に多額の金が流れたのは確かです。ホイス侯爵家はぜひともあちらと婚姻を結びたいんでしょう」

「あの娘は男爵家だけど、財力はある家だものね」

「でもホイス侯爵家としては、男爵家の金に目が眩んだからバルテル伯爵家との縁はなかったことにしたいとは言い出し辛いんでしょうね。無駄にプライドが高い家なので」

「あちらが格上なのだから、いっそ息子の気持ちが大事だから婚約解消したいとでも言ってくれれば良かったのよ。私の家に問題があったと、でっち上げようとするくらいなら」


 苛立ちを隠しもせずにローザリンデがテーブルを指先でコツコツと叩く。そんな怒った顔すら生気に満ちて美しい。


「どうあってもローザリンデ様側の瑕疵で婚約破棄に持ち込みたかったんですねぇ。まあ、その問題は俺が既に片付けましたけど」


 にっこりと笑って、先程終わらせた仕事の報告に入る。


「ホイス侯爵家が不正に書類を操作してバルテル伯爵家を貶めようとした件は既に押さえています。お父君のバルテル伯爵が咎められることはありません」

「それを聞いて安心したわ」


 ふ、とローザリンデが安堵の息を漏らした。肩から力を抜くのがわかる。


「逆にホイス侯爵家がその件を持ち出したら不正行為をしようとしたことが確定するので、あちらの罪となります」

「そう」

「良かったですね、俺が天才魔法師なおかげで役所の上層部の書類も検閲できる権限持ちで。これでもかなり頑張ったんで、褒めてくれていいんですよ?」


 拾われた日からいつか来るべき時に備えて魔法の才能を磨いてきたが、思っていた以上に俺は天才だったらしい。

 二年前に王宮魔法師として招きたいと、国から破格の待遇で打診をされた。

 やはり麗しき女王様の下僕は優秀でなければ釣り合わないだろう。推しに恥ずかしくないよう、自分磨きを怠らない主義で良かった。この権力がローザリンデの婚約前に間に合わなかったことだけが無念だが。

 学園在学中はローザリンデの従者のままの約束だが、既に魔法での監査を専門とする部署に協力している。卒業後はそれなりの地位が確約されていた。

 ジャンルが無双物なら、主人公になれたに違いない。


 しかし俺がなりたいのは主人公ではなく、女王様の犬なので!


 ご褒美欲しさにニコニコしていたら、ローザリンデは立ったままの俺を見上げて思案した。

 そんなに悩まなくても、欲しいご褒美はたくさんあるのだが。自分から希望を言っても良いのだろうか。


「ローザリンデ様に靴を履かせて差し上げる権利だと嬉しいんですけど」


 これなら合法的にローザリンデの前に跪ける。うっかり足の下に体を滑り込ませたら踏んでもらえるかもしれない。


「従者に自分で褒美を決める権利があると思っていて?」


 しかしローザリンデに高飛車に拒否された。震えそうだ。喜びで。

 そんな俺を見上げるローザリンデの呆れ切った眼差しといったら。できればもう少し蔑みが入ると良かった。


「座りなさい。アロイス」

「はい、喜んで」

「床ではなくて、ソファーに座りなさい。ここよ」


 命じられるままに床に跪こうとしたら膝を突く前に止められた。なんと素早い指示だろう。俺の行動を見越していたとしか思えない。残念だ。

 言われるまま、恐れ多くも手で示されたローザリンデの隣に腰を下ろす。

 隣に座るなり、ローザリンデの白い腕が伸びてきた。

 ふわりと良い香りが鼻先を掠めて、俺の頭に手が乗せられる。


「よくやってくれたわ。ありがとう」

「まさかの頭を撫でていただけるご褒美!? こんな犬ごときに!」

「文句なら聞かないわ。そもそも私は犬は可愛がる主義よ。それにあなたはよく忘れるようだけど、人間なの」


 驚いた俺の反応にムスッとしたけれど、癖のない銀髪の流れに沿うように頭を撫でてくれる手は優しい。

 

(懐かしいな)


 そこには俺を救い上げてくれた時と同じ温もりがあった。

 本当は優しいローザリンデ。

 慈悲深かったローザリンデが隙を見せまいときつい性格になったのは、早くに母親を亡くして伯爵家の女主人として振る舞わなければならなかったからだ。

 精一杯、背伸びをしてきた彼女を傍で見てきた。いつだって凛と顔を上げ続ける強さをどれだけ愛しく思ってきただろう。

 望んだご褒美とは方向性が違うが、これはこれで昔の優しさが垣間見えて好きだ。

 ほんわりと微笑んだら、ローザリンデ様も柔らかく笑ってくれる。そういう表情も尊い。

 しばらく撫でてくれた後、ローザリンデが思案げに呟いた。


「明日、ゲオルク様がどう出てくるかが分かれ道ということね」

「ゲオルク様はあれでも本来は実直な方ですからね。案外、ローザリンデ様本人に向き合う気かもしれないとも思うんですよ。ほら、卒業式終了後に学舎裏に呼び出されてるでしょう?」


 本来のゲームの通りなら、悪役令嬢は卒業式後の夜に開催される記念パーティで断罪だ。

 しかしわざわざその前の昼間から、ゲオルクがローザリンデを人気のない場所に呼び出しているのである。

 バルテル伯爵家の不正が発覚したことで婚約破棄を宣言する、というのならパーティ会場で婚約破棄を宣言する方が効果的だ。

 ……まあ、そんなことを本当にしたらホイス侯爵家が没落する手筈になっているのだが。

 だがそれ以前に、ゲオルクの性格を考えるとそんな真似をするとは考え難い。

 彼は浮気者ではあったが、非情かつ狡猾な性格ではない。むしろ馬鹿正直で真っ直ぐなタイプだ。今は恋に溺れて爆走中だから周りが見えていない状態にあると言ってもいい。

 そんな彼だから、事前に「リアン嬢が好きだから彼女と結婚する。今夜からローザリンデのエスコートは出来ない」と宣言するだけかもしれない。

 でもゲームにそんな選択肢はなかった。

 ローザリンデに俺が付いて暗躍したことで、物語の道筋が逸れた可能性はあるのだが。


「ゲオルク様が今更『他の娘に目移りしました。ごめんなさい』と素直に言うとでも?」


 ローザリンデは、ありえないでしょう、と言いたげだ。


「ホイス侯爵家の体面もあるから五分五分ですね。俺が見ていた限りでは、ゲオルク様はあれでも性格は良い方です。……ただリアン嬢みたいな女の子に弱いだけで」

「何度注意しても改心もせずに人の婚約者に付き纏い続けた非常識娘に絆されてのぼせ上がってる時点で、趣味が悪くて押しに弱いのは確かね」


 ローザリンデの評価は容赦がない。そんな冷静さも推せる。


「リアン嬢は天真爛漫で笑顔が可愛くて、ちょっと空気は読めないけど、ゲオルク様を大好きな一途な気持ちは見ててわかりましたからね。ゲオルク様もあの素直さで迫られたらグラっときちゃう気持ちはわかります」

「アロイス、あなたどっちの味方なの?」


 長い睫毛に縁取られた水色の瞳を吊り上げて睨みつけられたので、うっとりしてしまう。ローザリンデ様はやはり最高である。


「大丈夫です。俺はローザリンデ様一筋ですから」

「安心するにはあなたの嗜好に問題があるわ」


 力説したのにさらりと流された。

 ローザリンデは立ち上がると、ちらりと寝室に目を向けた。俺を待っている間に精神を疲弊させたのだろう。もう休むつもりだと態度で示される。

 従者がその合図を見逃すわけがない。素早く立ち上がった。


「それでは、また明日。バルテル伯爵家の今後の憂いは払ってありますから、今夜はゆっくりおやすみなさいませ」

「ええ。おやすみなさい、アロイス」


 安心させたくて笑いかけると、ローザリンデが微かに安堵を覗かせた。それを密かに確認してから、一礼して部屋を出る。


 とにかく明日ゲオルクが何を言い出そうと、ローザリンデは俺が守るから問題ないのだ。



   *


 さて、翌日である。

 卒業式が粛々と無事に終わった後。木々に囲まれた人気のない学舎裏には、ゲオルクと乙女ゲームのヒロインたるリアンの姿があった。

 予想していたことだが、浮気相手を連れてくるとは良い度胸だ。

 制服姿のまま寄り添い合う二人の前に、冷めた眼差しのローザリンデが立ち止まる。俺はローザリンデの斜め後ろに控えた。万が一にも何かあればすぐに動けるよう、魔法を操るための杖を持つ手に力を込める。


「ゲオルク様。このようなところに呼び出して何のご用かしら」


 ローザリンデはあくまでもゲオルクにしか話しかけない。リアンは視界に入れないつもりらしい。

 悪役令嬢らしい傲慢さ、大好物です。

 リアンは身を強張らせてゲオルクを見上げた。ゲオルクは一度リアンの肩を引き寄せてから手を離し、彼女を守る形で一歩前に出る。

 身構えた俺を気にかける様子もなく、ゲオルクは次の瞬間には、勢いよく90度の角度で頭を下げた。


「今まですまない、ローザリンデ! 俺は実はリアンのことを愛してしまったんだ!」


 誰もが知っていたことなので、ローザリンデは冷めた眼差しのままだ。それで?と言いたげな態度を崩さない。

 対するゲオルクはどうやら必死らしく、まだ頭を下げたまま話を続けた。


「ずっと言おうと思っていたが、父に止められて何も言えずにここまで来てしまった……。俺の無力さが全部悪い。君には嫌な思いをさせてしまって、本当に申し訳なく思っている」


 切々と語る声は苦渋に満ちている。それを聞いてリアン嬢は涙目になって体を震わせていた。

 なるほど、庇護欲をそそる姿はさすがはヒロインである。可憐だ。もちろん俺が悪役令嬢推しなのは変わらないが。

 さりげなく伺ったローザリンデの横顔は、先程から変わらない無表情だ。どことなく、今更なに?という気分が滲み出ている。

 簡単には絆されないその態度、やはり素晴らしい。

 

「それだけでなく……実は、君側の瑕疵で婚約破棄となるよう、父がバルテル伯爵を陥れる算段を立てていると知ったんだ。これは謝って済む問題じゃないし、そんなことをさせるわけにはいかない」


 そこまで言ってから、ゲオルグがゆっくりと顔を上げた。秀麗な顔は強張って青ざめており、ことの深刻さを感じさせる。

 さすがにゲオルクがそんなことを言い出すとは思わず、ローザリンデは目を見張った。しかし警戒は解かず、すぐに鋭い眼差しを向ける。


「それで、ゲオルク様は私に何をしてくださるというの?」


 親に逆らえずに今まで何も出来なかったくせに、と含ませた言葉に気づかなかったわけではないだろう。煮湯を飲むかのごとき表情になってから、ゲオルクは隣に駆け寄ってきたリアンの肩を抱いた。

 そして意を決したのか、瞳に強い光を宿して凛と顔を上げた。


「俺とリアンは、これから駆け落ちしようと思う」

「…………。は?」


 思わず気の抜けた声を上げたのは俺だ。ローザリンデはゲオルクの宣言に言葉も忘れて絶句した。

 いやいや、なんでそうなった? そこは親を説得するところじゃないのか。

 唖然とした俺とローザリンデを見て、ゲオルクが苦渋に眉根を寄せる。


「俺の両親は息子の話なんか聞いてくれる人たちじゃない。非常識で、借金だらけなのに見栄っ張りだから金遣いも荒い。没落しかけているのに侯爵家という名に縋りついて、プライドばかりが高くて……」


 思ったよりゲオルクは冷静に親を見ていたようだ。彼の親は毒親というやつだったのだろうか。案外、苦労してきたのかもしれない。


「昔から、本当にどうしようもない人たちなんだ」


 悲痛な顔で告白されると、多少の同情が湧かなくもない。

 悪役令嬢にしか興味がなかったからヒーローの事情などいちいち覚えていなかったが、言われてみればゲームのゲオルクは家庭に問題があって、それをヒロインに癒してもらったことで距離を縮めていた気もする。

 呑気に思い返していた俺の前で、「だから」とゲオルクが力強い声で続けた。


「俺が婚約者以外の女性と駆け落ちすることで、俺に問題があったと世間が知るだろう。いくらうちの両親とて、バルテル伯爵家を貶めている場合じゃない。俺を恥知らずと罵って勘当するはずだ」


 説明されてみれば、それが今のゲオルクにできる精一杯の抵抗に思えた。

 ひとまず今夜のパーティでは会場に現れない二人が実は駆け落ちしたのだと吹聴すれば、ホイス侯爵家は大混乱することだろう。

 それはちょっと見てみたいな。


「世間もこんな男を婚約者にしてしまったローザリンデに同情すると思う。すまない。俺にはこんなことしか考えつけなかった」

「ゲオルク様……!」


 再び頭を下げたゲオルクを慌ててリアンが支えた。

 そしてキッと強い眼差しでローザリンデを見上げると、可憐な唇を開いた。


「ごめんなさい、ローザリンデ様! 全部ゲオルク様を好きになってしまった私が悪いんです。でも、好きになる気持ちはどうしても止められなくてっ、ゲオルク様を諦めることもできません……だから!」


 一息にそこまで言うと、今度はリアンが一歩前に出て胸を張った。


「どうか、気が済むまで私を殴ってください! 顔がパンパンに腫れてもかまいません! さあ!」


 覚悟を決めたのか両の拳を握りしめて顔を突き出し、リアンがギュッと目を瞑った。

 しかし、それに黙っていられなかったのは俺だった。


「何を仰られるんですか、リアン嬢! そんな……俺だってローザリンデ様に叩いてもらったことがないのに!」

「アロイス、黙りなさい」


 俺の悲鳴は即座にローザリンデに切り伏せられた。間髪入れずに命じる冷静さには感嘆を覚える。

 リアンは丸く目を開いて「は?」みたいな顔をしていたが、冷めた眼差しのローザリンデを前にしてキュッと口を噤む。

 ローザリンデはため息を吐いて、ようやくリアンに向き合った。


「貴女の罪悪感を紛らわせるために、私を利用しないでくださる? 貴女を叩いたら私の手が痛くなるじゃない。お断りするわ」

「それは……ごめんなさい」


 リアンは叱られた子供のように、しゅんと肩を縮み込ませた。

 その様を気にかけることなく、ローザリンデは今度はゲオルクに視線を投げかける。


「そういうことでしたら、ゲオルク様のお好きになさるといいわ。貴方の家の事情も心情も、察せなかった私にも至らない点はあったのでしょうし」


 実際にはそこまで親しくなる前にリアンとゲオルクが仲良くなってしまったのでローザリンデに非はないのだが、自身にも問題はあったことにして身を引く。

 その態度は凛として美しかった。


「その代わり今後一切、私の前に現れないでちょうだい。ご機嫌よう、ゲオルク様」


 そう告げると、ローザリンデは颯爽と身を翻した。

 そんなローザリンデに向かって深く頭を下げたゲオルクとリアンを横目に、ローザリンデの後に付き従う。


 ゲオルクとリアンの性格上、今から本当に駆け落ちをする気だろう。やると決めたら二人とも脇目を振らずに突っ走りそうだ。

 ホイス侯爵家はゲオルクを勘当して終わりだろうが、リアンの家は可愛い娘を諦めたりはするまい。

 財力も愛情もある家なので、きっと娘を探し出すはずだ。そしてゲオルクの事情を聞いたら、リアンの家の婿養子にでも入れることになるんじゃないだろうか。


(そうならなくても、あの二人ならたくましく幸せに暮らしていきそうな気もするな)


 別に個人的な恨み辛みはないし、今後ローザリンデに関わらないなら、俺にはもうどうでもいい話だけど。


 しばらく人気のなくなった学園の門までの道を歩いた後、深くローザリンデは息を吐き出した。

 その細い背中はひどく疲れているように見える。ゲオルクに対して情はないように見受けられたが、婚約破棄にショックを受けているのだろうか。


「こちらとしては都合の良い幕引きですが、お疲れになられましたか?」

「どこが都合の良い幕引きなの? 結局、私は捨てられた女のレッテルを貼られるのよ」


 心底迷惑そうにローザリンデが言う。

 しかしあのまま浮気男と結婚してもしがらみは残っただろうから、結果としては妥協しているのだと思う。だからこれは単なる八つ当たりのようだ。

 不条理な責め、すごくいい。思わず笑顔になってしまう。

 だが俺はローザリンデが大事なので、焦らすことなく用意しておいた対策を口に乗せる。


「それなら心配ありません。浮気男との婚約破棄を待ち構えていた、将来有望な期待の大型新人である国の魔法師に求婚されることになってますから」

「……なんですって?」


 ぴたりとローザリンデが足を止めた。水色の瞳が信じられないものを見たみたいに、じっと俺を見上げる。


「アロイス……まさか、私に求婚する気なの?」

「もちろんしますよ。絶好の機会ですからね。俺は平民ですけどこれでもかなりの有望株なので、その心を奪ったとなればローザリンデ様は令嬢達の羨望の眼差しを独り占めできますよ」


 幸い、俺は顔もいい。身長もかなり伸びた。冷ややかに見える切れ長の紫の瞳で熱く見つめられたいと、よく女性達が騒いでいたくらいだ。

 そういう訳なので、婚約破棄したくらいで愛する女王様を周囲に面白おかしく辱められることはない。ローザリンデは絶対に俺が守る。

 そんな犬の矜持を持って頷いたら、ローザリンデが怖いくらい真剣な顔をした。


「アロイス。あなたを拾った私に恩を感じてるのはわかっているけど、そこまでしてくれなくていいの。結婚はちゃんと好きな人としなさい」

「だからローザリンデ様に求婚してるんじゃないですか」


 前世からの推しだ。自分の手で幸せにできるなら、それを選ぶに決まってる。

 真面目に諭されたので、同じく真面目な顔をして即答したらローザリンデは目を丸く瞠った。

 数秒絶句した後、ローザリンデの頬がじわじわと熱を帯びていく。

 今まで主人としての立ち位置を崩さなかったローザリンデだが、婚約破棄したことでようやく俺をただの従者ではなく、一人の男として見てくれたらしい。

 それがわかって、ようやく報われた気持ちで笑顔が溢れた。


「好きですよ。ずっと。それこそ、生まれる前から好きでした」

「それは言いすぎよ」


 本当のことなのに、ローザリンデは素っ気なく切り捨てる。だがその顔は見るからに赤い。熟れた林檎みたいだ。初めて見る。

 ほら、やっぱり悪役令嬢は最高に可愛いのだ。


「アロイス、本当に私を好きなの? お高く止まっている女性が全員好ましいわけじゃなくて?」

「誰でも良いわけがないでしょう。俺はローザリンデ様だからこそ、あなたの犬になりたいんです!」

「そこは人間でいてほしいわ」


 間髪入れずに冷たく切り返すところは、さすがローザリンデだ。好き。

 こんな風に可愛い奥様の尻に敷かれる生活が送れたら、毎日がご褒美じゃないか。絶対に長生きする。


「それで、お返事は?」


 期待してローザリンデの顔を覗き込んだら、べしゃりといつになく容赦なく片手で顔を抑えられた。不意のご褒美、ありがとうございます!


「待って。まだ混乱してるの。でも、ちゃんと考えるから」


 真っ赤な顔のまま、ローザリンデは早口で約束してくれた。しばらく視線をうろうろと彷徨わせてから、窺うみたいに上目遣いで俺を見る。


「あなたが望むように、踏んだり、罵ったりは難しいと思うけど……もし結婚したら、アロイスの腕を枕にするぐらいなら、してあげられると思うわ。たぶん」


 蚊の鳴くような声で、耳まで赤くしながら言われた。

 これはもはや、最高のプロポーズと受け取っていいだろ!


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