第三十七話 馬鹿みたいな二つ名
そして、ようやく
この年齢の女性、やはり……伯爵夫人なのだろう。自ら殺しに来たのか、と信じがたい気持ちだった。
「オリバー!」
名を呼ばれて、そちらに目をやると、母・マーサがこちらに歩いてきていた。立ち上がり、詰め寄る。
「ギルバードは!?」
「ちゃーんと校門まで一人で来たわよ。無事、試験を受けてるわ。ブランドンさんが親切にしてくれて、校舎のなかで着替えさせてもらったの」
「ああ! 本当に良かった」
オリバーは頭を抱えるようにして、歓喜した。喜びのあまり涙が滲む。
子どもに任せて、責任を放棄するような、とんでもない賭けに出てしまったのに、ギルバードはそれに応えてくれた。申し訳なさと安堵で心が震えて仕方がない。
一方、マーサは鼻をハンカチで抑えて、顔を顰めている。オリバーの嗅覚は麻痺していて、もう感じられなかったが、辺り一面、血の匂いが濃く漂っていた。
「……あんた血まみれだけど、一体どうしたの。ウェルザリーさんも。そしてこの女性は誰?」
母の質問責めを受けつつ、オリバーはカイの横に座り込んだ。疲れ切っていた。
「まじで疲れた……。ちょっと休ませてくれ」
◆
オリバーは宣言通りほんの少しだけ休んで、すぐに体を起こした。
彼自身も体力の限界を迎えていたが、カイは失血で、目を覚ましたとしても立ち上がることも難しい状態だと予想できた。
取り急ぎ、母が泊まった宿まで運ぶことにした。
オリバーはカイの膝裏と背中に手を差し込んで、抱き上げる。腕の中の彼が、薄く目を開ける。
「ん……」
「カイ、ギルバードは無事に試験受けれてるからな」
伝えると、薄く笑った。弱々しい笑顔が痛ましかった。オリバーはマーサに頼んで、荷物の中の水をカイに飲ませる。最初は口のまわりに跳ねた血を洗い流して、次に口中に注ぐ。水分が触れると音を立てて飲んだ。唇に水滴が転がる。
「この女性はどうする?」
荷物を持ってくれているマーサが、夫人の顔を覗き込む。
「ああ、忘れてた。カイは、そいつに刺されて大怪我を負ったんだ」
「やはり伯爵……夫人だ」
カイが小さな声で言う。顔を見て判断したらしい。
「そんな身分の人が?」
マーサは驚いたように瞬きをした。
「ここに置いていくわけにもいかないわよね。起こすわ」
放置でいい、と思いながら、母に任せた。疲れ切っていて、心底どうでもよかった。とにかく早く、カイを血まみれの服から着替えさせて、ベッドで眠らせてやりたい。
マーサが体を揺すると、伯爵夫人は目を開いてすぐに覚醒した。後ずさろうとして、後ろに立つ木に体をぶつける。濃い栗色の髪が顔にかかって、張り付いていた。
「ええと、私はマーサ・スミスと申します。あなたは?」
夫人は答えず、あちこちに目をやって、怯えている。
「怪我はないですか? 馬車を呼んで、お屋敷まで送りましょうか?」
マーサが優しく問いかけ続けるが、夫人は荒い息を繰り返すばかりで返事もしない。
「あの子どもは」
ようやっと、声を震わせながら言った。
分かっているだろうに、聞かせてもらいたいらしい。オリバーは、つっけんどんに答えた。
「王立中で試験を受けてる。残念だったな」
「ああああっ! なんで……どうして上手くいかないの。終わりよ、私が育んできたあの子たちが一体何をしたっていうの」
「そんなの、こっちの台詞だ。カイもギルバードも何も悪いことなんてしていない」
オリバーが静かに吐き捨てると、カイの閉じた目尻から涙が溢れた。
地面に突っ伏して呻く夫人の首筋が、髪の毛の隙間から見えて、そこにはどす黒い痣ができていた。おそらくオリバーが掴んだ時にできたもの。
マーサが困ったようにその様を見つめていた。
「どうしましょう……」
「置いていこう。元気いっぱいじゃないか。一人で帰れるさ。伯爵夫人様、早く帰って自分の首がどうなってるか、見たほうがいいですよ」
夫人は首に手を添えた。痛みが走ったのか、肩が竦んだ。
ふと思いついて、オリバーは笑いながら言い募った。
「俺の名前はオリバー・スミス。ご存知ですか?」
夫人が、地面から睨めあげるようにこちらを見る。それを強い視線で見下す。
「魔法使いの皮を被った悪魔、スミス学舎の育てた厄災……」
「ああ、そうです。光栄ですね。……そんな厄災の悪魔があなたに呪いをかけました。首を通じて体の神経に指の末端、すみずみまで」
「何を」
「あなたがこれから先、ギルバードに仇をなそうとした時に、どんな呪いだったのか分かるはずです。まあ……分かった時には、もう遅いですが」
はったりだ。実際は、魔法の素を体の中に沈めようとしたための後遺症で、痛みと痣が残っただけ。
知る限り、遅効性の魔法は存在しない。呪いなんて、お伽噺だ。
ただ、あのオリバー・スミスが言うと真実味がある。己につけられた馬鹿みたいな二つ名に感謝した。箔が付くってもんだ。
「では、俺の呪いがあなたを食い殺さないことを祈っていますよ」
伯爵夫人は恨みがましそうにこちらを睨みつけるが、決して体は動かさない。はったりが効いているらしい。
マーサの後ろについて、オリバーは歩き始めた。
力が抜けたカイの体を、壊れもののように大切に運んだ。
◆
大怪我をしたのだ、と宿の主人を泣き落としの如く説き伏せて、部屋を貸してもらった。カイの洋服を脱がせて、狭いシャワールームで丁寧に血を洗い流した。
オリバーも自身の血まみれの衣服を脱ぎ捨てて、カイを洗うついでに湯浴みをした。
腕の中の彼は、わずかに意識が戻る時もあったが、力が入らないのか大人しくオリバーに体を預けていた。
「ごめんね」
か細く口にするのを聞きながら、彼の体温を素肌で感じていた。極力、体のラインや性器を見ないようにしながら、洗ったけれどどうにも難しくて申し訳ない気持ちになった。
替えの衣服を着せて、髪を大雑把に拭いてやった後、ベッドまで運んだ。カイは湿った髪の毛のまま、こんこんと眠り続けた。
息をしているのか心配になって、たまに口元に手を触れて確認してしまうほどだった。
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