数ある不幸のうちの一つ

 カイが十六歳になったばかりの頃のことだった。


 今住んでいるクローの森ではない、炭鉱の近くで暮らしていた。職探しに難航した末にたどり着いたのがここだった。家は持たず、安宿を拠点としていた。


 まだギルは五歳だった。面倒を見てくれる人など当然いなかったから、毎日不安に思いながら、彼を宿に置いて働きに出た。


 つるはしを振るっては、採掘した石炭をトロッコに乗せて運んだ。その繰り返し。手のひらが痛い、ふくらはぎが痛い、肩が痛い。いやもう全身痛かった。


 働いているのはカイと同じ浮浪者やお尋ね者ばかりで、労働環境は劣悪だった。時間感覚を失っても、働かされ続けた。息つく暇を見せたら、腹を殴られた。


 そんな最悪の職場でも、親切にしてくれる人はいた。名前は忘れたが、男三人だ。痩せ細ったカイに食べ物をくれた。


『家においでよ。美味しいバタークッキーがあるんだ』


 バタークッキー! ひどく甘美な響きだった。穏やかに暮らしていた頃を思い出してしまうお菓子だった。ギルは生まれてから一度もそれを食べたことがない。持って帰って食べさせてやりたい。


 知らない人について行ってはいけない、とギルにはさんざ言い聞かせていたが、カイは自分のことには無頓着だった。それに一緒に働いているのだから、全く知らないというわけでもない。


 さて。




 連れていかれたのは、家とは名ばかりの藁置場だった。そこで、三人がかりで手篭めにされた。暴れたが無駄だった。


 確かナイフで足を傷つけられて、それで怖くて動けなくなったのだと思う。自分の言うことを聞かなくなった体は、男たちの言うことには従順だった。


 喫食したり言葉を喋るためにあったはずの口を、カイが想像もしていなかった使い方で、された。

 内臓がひっくり返るような目に遭った。それでも終わらなかった。


 渾身の力で体を抑え込まれると、その手の跡が鬱血痕になって残るのだと、その時に初めて知った。


 長い長い悪夢のような現実が終わり、地面に置き捨てられて、這いずるように近くの川まで行って体を洗った。いつまでも皮膚がぬるついていた。


 手形と分かる痣や赤い痕を身体中に拵えた、その姿が水面に映る。カイはそれを見つめて、見つめて……一人うずくまって、泣き出した。


 ああ、けれど。こんな目にあったのが、ギルバードでなくて本当によかった。


 さらに涙が溢れた。獣みたいに生きていて、周りからも人間扱いされなくたって、この気持ちを持っている間は、確かに人である、と思えた。


 俺の救いはギルだけだ。あの子のために生きている。

 噛み締めて、我が子の待つ安宿へと、痛む体を引きずって帰った。

 明日も、いや、もう今日かもしれないけど、働きに出なければ。


 来年、ギルは六歳になる。決まった家に住んでまともな服を着せて、初等学校に入学させてやらねば。そして、おいおいは王立中へ。とにかく金が必要だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る