第5話 動かないで

 最初に、突風が訪れた。

 目の前から突然に訪れる、猛烈な風。

 少女は顔を逸らし、風の勢いを腕で遮った。

 だが、直後に悪寒がして、即座に視線を前に戻す。

 目の前に立っていた女の人。その立ち姿に変化はない。

 しかし魔力が、豹変していた。

 少女は驚愕する。目を見開き、口も半開きになった状態で、地に着いたままの尻を後方に滑らせ、

 そして、

 それはあまりに巨大だった。巨大で澄み切っていた。


「もう、大丈夫だから」女はそう言った。


 まるで、鍛え上げられた筋肉や大きな体のように、ごく単純で明瞭な強さが、そこにはあった。

 化け物が数歩、ゆっくりと後ずさる。

 だが、相手につられるかのように、化け物の魔力も勢いを増した。

 獣の本能、あるいは、捕食者のプライドなのかもしれない。

 化け物は、攻撃を仕掛けた。


「ワたさまアかたあ」


 頭部にあたる街灯の柱をぐにゃりと曲げて、畳み、引き寄せ、そして限界まで力をためる。縮んだバネのようになった支柱に、禍々しい魔力が上乗せされ、異常なまでの威力となったそれを一気に解き放った。

 強烈な運動エネルギー、魔力の奔流、打ち出された衝撃波が、同時に前方へ襲いかかった。

 ただの頭突きだ。けれど、そのただの頭突きはきっと、町を簡単に壊せるだろう。少女がそう直感するほどに異次元的で、不可解な攻撃だった。

 だが、この町がさらに壊れることは無かった。

 少女はまたしても突風にあおられて、腕で顔を覆う。

 その頭突きが持っていた果てしない威力は、少女の目の前にいる女が手にしていた剣によって、全て殺された。

 女は、片手に持った剣一本で、頭突きを受け止めていた。

 普通の剣ならあっという間に折れている。しかし彼女の魔力を全身に通したその一振りは、刃こぼれ一つ負っていない。

 女は、その状態のまま、もう片方の手で剣のブレード部分に手をかざす。

 その瞬間、剣に通る魔力が何倍にも膨れ上がる。

 まるで、太陽光をふんだんに吸収した宝石が独自の輝きを放つように、その剣は彼女の魔力を余すことなく吸収し、そして存分に活かしきっていた。

 女は剣を振りぬき、受けた攻撃をはじき返した。

 魔獣の巨体が、態勢を崩す。

 ほんのわずかな時間だったが、それでも彼女には十分すぎた。

 女は両手で握った剣を頭上に構え、ただまっすぐに、振り下ろした。

 魔獣の持つ魔力の層が一瞬で寸断され、そしてその一撃は、化け物の巨体を真っ二つにした。

 白い大きな人体が二つに分かれ、片側に残った街灯が悲鳴をあげる。


「アああエエエああああアアアアア」


 叫びながら、魔獣は、後方に跳んだ。

 そして二つの体がゆっくりと近づいて、徐々に、その断面が縫合ほうごうされていく。


「再生……」


 少女は顔をしかめながら呟いた。口にした後で、今目の目で起こっているおぞましい現象に『再生』という言葉は不適切だと思った。それほどまでに、強い不快感を覚えた。


「君、ちょっと来て」


 女がそう言って、少女に向かって左手を伸ばした。目線は絶えず魔獣のほうへ注がれている。


「え……」

「私から離れないように、ほら」


 少女は何も考えられなかったが、言われるがままにその手を取った。

 すると、よわい十四の体がぐいと引っ張り上げられる。

 女は自分の側まで少女を近づけると、彼女の肩を抱き寄せて、横腹のあたりにピッタリくっつけた。


「あの、」


 不安から来る発言だった。

 だって普通、こんなにひ弱な子供が近くにいたら邪魔だ。「さっさと逃げて」と言われるほうが自然に思えた。

 しかし女の人は、はっきりとこう言った。


「動かないで。大丈夫、絶対に守るから」


 少女は口を閉じた。

 それから、女の腹に両腕をまわして、しっかり抱き着いた。

 さっきとは打って変わって、この場から逃げるのが馬鹿らしく思えた。

 縫合を終えた魔獣が、女を睨む。

 女は剣の先をそちらへ向けた。

 その時、魔獣の首がピンと伸びた。街灯の灯りが天高く掲げられる。

 少女にとって、魔獣のその仕草は不吉だった。

 そしてその予感は当たっていた。

 街灯の灯りが、一瞬、眩い閃光を放ったのだ。

 少女も、女も、わずかな時間だが目がくらんだ。

 だがそれは、ただ寸刻の目くらましには終わらなかった。

 少女が目を閉じた時間は一秒にも満たなかったが、目を開けたとき、魔獣の巨体は消えていた。

 鎖がしなる音がする。


「っ――!」


 一瞬で鳥肌が立ち、慌てて周囲を見回すと、それは、背後に立っていた。

 移動はそれほど早くなかったはずなのに。

 少女が魔獣の姿を捉えた時にはすでに、膨大な威力を秘めた鎖が、目の前まで伸びていた。

 女も振り返っていたが、対処の動きはとっていなかった。

 少女は目を閉じて、女の体に顔をうずめた。死を悟ったが故の行動だった。

 だが、数秒経っても、死の瞬間はおろか痛みでさえ、訪れなかった。

 代わりに、また金属音がした。

 目を開けると、平然と立っている女の姿が見えた。

 鎖は地面に放り出されていた。

 賢い少女は察する。


「すごい……」


 はじかれたんだ。

 今の攻撃では、女の人の魔力を破ることさえできなかった。

 魔獣の攻撃は、攻撃にならなかったのだ。

 圧倒的。

 女は、対処する必要がないからしなかった。それだけのことだった。


「うううっすゅいいおう」


 魔獣は再度、首をぐにゃりと曲げた。

 攻撃をしかける気だ。

 しかし、明らかに先の頭突きではなかった。

 頭部の街灯、その仄かな灯りに向かって、大量の魔力が収束をはじめた。

 少女は漠然とした、しかし強烈な危機感を感じた。

 今魔獣が放とうとしている一撃こそが、町を消し飛ばした一撃に違いなかった。

 みるみるうちに、大量の魔力がごく小さな一点の灯りに集っていく。

 それを見た女は、体の正面を確と魔獣の方へ向けるため、剣を左手に持ち替えて、代わりに右腕を少女の肩にまわした。

 そして魔獣を正面に捉えると、左腕に持った剣を、右肩の上まで引き寄せた。

 つまり、単なる水平切りの予備動作だった。

 動きは単純。だが、その内で起こっている魔力の動きは、常軌を逸していた。

 女は少女の体を、より強い力で抱き寄せた。

 それを感じた少女は、もう一度、女の体に顔をうずめる。

 先ほどとは意味が違う。それは魔獣の攻撃に備えるためでなく、女の攻撃の余波に備えるための行為だった。

 魔獣の持つほぼ全ての魔力が、小さな灯りに凝縮され、禍々しい魔力はどこまでも黒い炎となる。

 間もなく、それは放たれた。

 黒い灯りから放出される濁流。

 反動で首が後退し、殺しきれなった勢いの分魔獣の体が後ずさる。

 真っ黒い、極太の光線が、至近距離で飛来する。

 だが女は、その絶望的な状況を見ても何も動じず、どころか、魔獣の顔をまっすぐに見上げた。


「今、終わらせてあげる」


 鋭い視線に微かな優しさを交えてそう言い、そして彼女は、魔力を存分に蓄えたそのつるぎを、まっすぐ水平に、振りぬいた。


通すべきただ一筋の理リベレイト・ワン


 単なる斬撃。

 物理的なエネルギー、魔力、衝撃波が構成する、シンプルな攻撃。

 だが、拮抗きっこうする余地などなかった。

 斜め上方へ放たれた斬撃は、眩い光と轟音を放ちながら、近くの地面をえぐり、崩れた屋根をかすめ取った。しかしそれでもなお、威力はおさまらない。それは遥か彼方の上空まで切り裂いて、周辺の空を覆う曇天にまで到達し、ついには、そこに一筋の雲間を生み出した。

 魔獣の放った魔力の主砲など、その斬撃の威力には、微々たる影響さえ与えなかった。

 それを至近距離で受けた魔獣の体は崩壊した。再生の起点すらないほどバラバラに、十全に、きれいさっぱり、消えてなくなった。

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