夜咄怪奇談
見月純
黒雨のタクシー怪談
「チッ」
体に叩きつける雨に今日何度目かの舌打ちが漏れる。
ビニール合羽を着ているとはいえまだ9月の初旬だ、蒸されて汗が体中を伝うのを感じる。
まだ雨に打たれた方が不快度数的にはマシかもしれない。
思ったより仕事に手こずり、気付けば日はとっくに落ちて街灯もまばらな暗い山道を一人下っている。人っこ一人、車一台にも出会わず、オマケにスマホの電波も入らない。
「ハァ」
舌打ちはついに溜息に変わった。
思えば今日は朝からついてなかった。
まず昨日の深酒がたたったのか先方との打ち合わせに一時間近く遅刻。久しぶりの彼氏との一夜だったが喧嘩終わりで散々、その後のヤケ酒が原因である。明らかにイラついている担当者に提示した見積書がさらに機嫌の悪さに追い打ちをかけ、半分以上の値切り。現場に指定された場所がかなり辺鄙な山奥で、仕事にかなり時間をかけてしまう。
ようやく帰れると思えば突然の雷雨、車がスリップし木に激突。幸い体は無事だったが車はお釈迦。
そして今に至る。
どう考えても値段に見合った仕事ではない。しかし、今後の付き合いを考えると無下にする事もできない。今までおいしい仕事を頂く事もあった。今回の一件で今日の失礼はチャラにして頂いて、良好な関係に何とか戻したい所だ。ビジネスで築いた関係が壊れるのは一瞬なのだ。大事な仕事の前の飲酒は絶対に止めようと固く誓い、再びノロノロと山道を下っている時だった。
微かに向かいに灯りが見えた。小さな灯りは徐々にこちらに近づいてくる。かなり手前に接近した所でそれが車、タクシーである事に気づいた。
地獄に仏と思わず私は勢いよく車道に飛び出し手を挙げた。
甲高いブレーキ音を上げ、目前でタクシーは止まった。ドアが開き運転手が声を張り上げる。
「何を考えとるかねアンタ!」
「お願いです! 麓まで乗せてください!」
運転席に駆け寄り、こちらも負けじと大声を出す。
運転手の初老の男性は驚いたのか目を大きく見開き二の句が継げないでいる。
「お願いします! 車が事故して困ってるんです!」
私の懇願に我に返ったのか運転手はとりなすように口調を和らげた。
「わ、わかったから、ちょっとどこかでUターンしてくるからここで待ってて」
そう言うとタクシーはそのまま走り去った。
大人しく十五分ほど雨の中を待ったが戻ってくる気配がない。もしかして厄介な客だと思われて騙された? 一抹の不安がよぎり始めた頃、彼方にヘッドライトの明かりが見えた時には大きく安堵した。
目の前で停車したタクシーの後部座席のドアが開く。そのままだとシートを濡らしてしまうので手早く雨合羽を脱ぎ、足元にまとめて座席に収まった。
ドアが閉まり雨の山道をタクシーはゆっくりと走り出した。冷房が強いのか車内は少し寒すぎるぐらいだったが、蒸し風呂状態だった体には心地よくありがたかった。
私が一息ついたのを見計らい運転手が声をかけてきた。
「それで、お客さんどこまで行くかね」
「あ、とりあえず麓の駅までお願いします」
とにかく電波が繋がる場所に行って先方に一報入れる必要があるだろう。担当者の顔を思い出し、胃がぎゅっとなった。
「麓の駅ね。それにしてもお客さん、驚いたよ。女性が一人でこんな山に何の用事かね」
「あーまぁ、ちょっと野暮用で。あはは」
必要以上にこの運転手に情報を与える必要はない。ただでさえ失敗続きの一日なのだ。このタクシーには感謝しているが、厄介事が起こらないよう私は適当にあしらう事に決めた。
「そうかい」
幸いな事に運転手は深くは聞いてこなかった。これ以上話を膨らませないよう、私は顔を車窓に向けて狸寝入りをする事に決めた。
車が時々小石に乗り上げる振動と雨音が心地よい。そして微かなラジオの声。
ラジオ。久しぶりに聞いたなとぼんやりした頭で思う。
『始まりました。今夜も夜咄怪奇談。篠突く雨のこんな夜は怪談がぴったりなのではないでしょうか』
初秋に怪談とは季節外れだなと思ったがレギュラー番組なのかもしれない。語り手は抑揚の無い男性の声でまた不気味な雰囲気を醸し出している。しかし雨音と囁きのように語る男性の声は恐ろしくマッチしており、何故か情緒的なものを感じてしまった。
『今宵はリスナーさんから届いた、雨の日に似合う怪談を一話、お届けしたいと思います』……
彼女との出会いは大学一回生の頃でした。
地方出身の僕は大学進学を機に上京したのですが、初めての都会での一人暮らしという事で色々と不安が大きかったのを覚えています。
学部のみんなが集まる初めてのオリエンの時、中々声をかけられず周りでどんどんグループが出来ていくのをぼんやりと眺めていました。元々社交的な性格ではない自覚はあったのですが、環境を変える事で変われるのではないかと淡い期待を抱いていました。
しかし私はどこに行っても私のままなんだとその時痛感しました。
そんな時声をかけてくれたのが彼女だったのです。
最初の印象は眩しい人だな、という感じでした。明るく、覇気があり活発で輪に溶け込めない私なんかにも優しくしてくれる。あまりにも眩しくてその時はありがたかったのですが、私はこの人と仲良くなる事はきっとないだろうと思いました。
しかし予想に反して私と彼女は徐々に話す機会が増えて、仲が深まっていったのです。共通の趣味があるわけでもなく、好みも違う。それなのに彼女とは心地よく接することができました。美味しかったものや面白い番組等の他愛もない事から、講義や将来の夢についてなど何時間も語り合った事もあります。本当に色々な事を話しました。
そしてどちらから言い出したのかは覚えていないのですが、自然とお付き合いをするようになりました。私にとって初めての恋人と呼べる女性ができたのです。
ある日彼女に聞いた事があります。どうして私だったのかと。彼女はどこか寂しそうに「私に無いものを持っているから」と言いました。
彼女の眩しさは装いなのだと逢瀬を重ねるにつれ感じるようになりました。私が誰にもおもねる事なく在るのが羨ましかったのかもしれません。しかし、それは私も同じでした。であれば二人で支え合い無い部分を補っていけばいいと伝えました。その時の彼女の笑顔は今も忘れられません。
大学を卒業後、私は平凡な商社の営業に就職しました。彼女はどうやら代々の家業があるらしく、その仕事を不定期にしているとのことでした。しかし何度聞いても家業の詳細については教えてくれませんでした。
年齢的な事もあり、真面目に結婚を考えていたので、私はそんな彼女に不誠実さを感じ、口論する日が増えていきました。
彼女の仕事はどうやら夜勤らしく、夜に連絡がつかないと仕事に出ている、というケースが多くありました。
ディナーの約束をしていたある日、待ち合わせの時刻を二時間過ぎても彼女は現れませんでした。電話をしても電源が入っていないのか繋がらず、私は彼女に何かあったのかと心配していました。
翌朝、彼女から一言テキストメッセージが来ていました。
『ごめん、仕事が入ったから』
仕事だからと簡単に済まされた約束、彼女への怒り、悲しみ、このまま彼女が離れていくのではという恐怖から感情が抑えきれず涙に暮れました。
翌日彼女は私のマンションを訪ねてきました。彼女なりに謝ろうとしたのだと思います。しかし、私は彼女を許せず最終的にはかなり激しい口論となりました。気づけば彼女はいませんでした。これで終わりなのか。私たちの関係に亀裂を入れた仕事とはそんなに大事なものなのか。私は怒りに任せ、彼女の仕事を特定してやろうと考えました。特定してどうしたかったのかわかりません。その時はただただ衝動に突き動かされていました。いつまでも自分を隠している彼女を見たく無かった、自分が一番の理解者でいたかったという、ただの我儘なのだと思います。
翌夜、小雨が降る中彼女は深夜にマンションから車で出ていきました。私はバレないよう細心の注意を払いつつタクシーで後をつけました。
二時間ぐらい走ったでしょうか。彼女の車はとある寂しい山道を登っていきます。流石にピッタリ後をつけるとばれると思い、かなり車間距離を離して尾行してもらいました。運転手さん曰く、幸いこの山道の先にはとある神社しか無いとの事でしたので、彼女の行き先はその神社という事になります。しかし何故こんな夜中に神社なんかに。彼女の仕事とは一体何なのでしょう。
ここからなら徒歩でもいけるとの事でしたので、私は神社の少し手前で降ろしてもらいました。雨はかなり強くなっています。ここは携帯の電波が入らないとの事でしたので、運転手さんにしばらく後で迎えにきて頂くようお願いし、できるだけバレないよう黒の雨合羽を着込んで山道を神社に向けて歩き出しました。
強い雨が激しく合羽を打ちつけ、まるで滝のようで視界がとても悪かったです。しかし神社までは一本道のため、幸い迷う事なく目的地に辿り着きました。
その神社は廃神社と言って差し支えないほどの有様でした。鳥居は木が朽ちかけ、雨に濡れている事で黒ずみ、どこか不気味な雰囲気でした。さらに階段を上がった所に小ささなお社が見えます。
しかし、彼女の姿が見当たりません。車は停めてあったのでこの近辺にはいるはずです。
脇道らしきものは見当たらず、周囲は鬱蒼とした森に囲まれています。まさかこの中に?
そう考えて逡巡している時、雨音に混じってかすかにカーン、と甲高い音が響いてきたのを耳にしました。
最初は鳥の声かと思いましたが、それにしては規則正しく断続的に響き続けるので人為的なものだと思いました。雨音が激しく出所がわかりにくかったのですが、どうやら森の方から聞こえてくるようです。
私は意を決して暗い森の中を音を頼りに突き進みました。元々道など無い山中、しかも雨で地面はぬかるんでおり途中何度も足を取られましたが幸い音はすぐそこまで近付いています。
木々の間からチラチラと灯りが瞬いているのが見え隠れしています。徐々に黒い人影のようなものがぼんやりと見えてきました。彼女でしょうか? しかし、彼女だとしてもこんな場所で一体何を。
そこは木々が開けたほんの僅かな空間でした。私は木々の隙間から垣間見た光景のおぞましさに息を飲みました。
灯りはその人物が頭に鬼のツノのように刺した懐中電灯の灯りでした。そしてずぶ濡れの白装束のような衣が暗闇にぼんやりと浮かんでいます。そして、高々と振り上げる手には金槌。鬼気迫る勢いでそれを木に振り下ろし、何かを打ちつけています。木に金槌が打ち下ろされるたび、辺りにカーン、カーン、と甲高い音が響いていたのです。
丑の刻参り。真っ先に頭に浮かびました。
私は恐ろしくなり慌てて踵を返そうとしてその場で転倒してしまいました。
図らずも大きな音があたりに響きました。まずいと思い、慌てて視線を前方に移すと、
彼女と目が合いました。
それは紛れもなく私の愛する彼女でした。しかし、目は吊り上がり、口は半開きで両腕を脇にだらりと脱力して垂らしている様はどこかトランス状態に入っているようで、彼女であり、彼女では無い何か。姿も相まって鬼を連想しました。
刹那、彼女はこちら目掛けて走り出しました。手には金槌を握ったまま。
私は恐怖に駆られ、足をもつれさせながら何とか立ち上がり逃げ出しました。彼女を探しにきたのに、彼女から逃げている状況はあまりにも滑稽でしたがそれ以上に彼女が恐ろしかったのです。その時思い出しました。丑の刻参りを目撃されると術者に呪いが返ってくると。
私は愕然としました。まさか彼女は私の事を殺そうというのでしょうか。ちらりと振り返ると彼女はまるで地面のぬかるみなどものともせず、驚異的なスピードでもうすぐそこまで迫ってきています。
嫌だ、死にたくない。人間の生存本能というのはよくできたもので私にそんな力があったのかと思うほど足は限界を超えて動きました。
しかしあと少しで森から抜け出せるというところで背中に衝撃が走りました。何と彼女は金槌を私目掛けて投げつけたのです。
私はその場に転倒しました。痛みに悶え苦しんでいるところに彼女が馬乗りになってきました。女性にこんな力があるのかと思うほど強い力で彼女は私の首を締め始めました。
何とか彼女に自分だと認識して欲しくて声を上げようとしましたが、気道を圧迫され、掠れた声しか出ません。私は懸命に振り解こうとしましたが彼女の力は一向に緩みませんでした。徐々に視界が霞んできます。死にたくない、死にたくない。
手足をめちゃくちゃにばたつかせていると指先に何かが触れました。それは彼女が投げつけた金槌でした。その瞬間最後の力を振り絞り、腕をありったけ伸ばすとそれを手中に収めました。そして渾身の力をこめて彼女の側頭部に叩きつけたのです。
ゴシャ。と嫌な音と手応えがありました。彼女の力が緩むと同時に彼女を突き飛ばし、地面に押さえつけ、無闇矢鱈に金槌を顔面目掛けて振り下ろしました。それは何度も、何度も。
雨なのか血なのか汗なのか、気づけば私は雨合羽の意味をなさないぐらい全身ずぶ濡れになっていました。
そして目の前にはもはや原型がわからないぐらい顔面が潰れた彼女だったものが無惨に転がっていました。
私は絶叫しました。錯乱し、転倒しながらその場から逃げ出しました。誰かに夢だと言って欲しい、明日起きたら彼女は変わりなく側にいるんだと自分に言い聞かせながら山道を転がるように駆け降りて行きました。
どこをどう戻ったのか記憶があやふやですが、私は何とか家に帰りつきました。あれだけの事があったので全身血まみれのはずなのに、雨で洗い落とされたのかその痕跡はありませんでした。本当に夢だったのではないかと思いました。
帰宅後はぼんやりと放心して過ごし、そしてどれだけ時間が経ったのかすっかり外が暗くなった頃、自首するべきだと思いました。ノロノロと出頭の準備をしようと腰を上げた時です。
「ピンポーン」
インターホンが軽快に鳴ったのです。まさか警察が? そっとモニターを覗くと私は凍りつきました。
そこには彼女がいたのです。白装束ではなく、いつもの、普段通りの彼女でした。私は恐る恐る応答しました。
「はい…」
「あ、この間は本当にごめんなさい。埋め合わせってわけではないけど、今日ご飯どうかな?」
あまりの事に言葉が出てきません。
「急でごめんね。都合悪かったらまた今度で……」
私は慌てて了承するとエントランスへ降りて行きました。そこには彼女がいました。あまりにも普通に存在して、生きていました。
私の様子がおかしい事に気づいたのか、かなり心配されましたがいつも通り食事をし、他愛無い会話をして夢現のまま別れました。
やはり夢だったのだと胸を撫で下ろし一日を終えました。明日からまた普通に彼女と会えるのだと安堵と幸福感で眠りに落ちました。
次の雨の日、仕事を終えて家に帰ると見計らったようにインターホンが鳴りました。荷物でも頼んでいたかなとモニターを覗くと、そこには彼女がおりました。
「あ、この間は本当にごめんなさい。埋め合わせってわけではないけど、今日ご飯どうかな?」
私はその場に固まりました。よく見ると前に会った時と同じ服装です。
「え……」
「急でごめんね。都合悪かったらまた今度で……」
まるでこちらの声が聞こえていないように、彼女は一方的に話し続けます。慌ててエントランスに行くと彼女はおりました。間違いなく彼女だったのですが、私は恐怖を覚えました。
こちらを認識しているようでしていない。まるでこちらとあちらの狭間にいるような感じでした。
それから雨の日には必ず、彼女は私の元を訪れています。一字一句同じセリフで食事に行こうと誘うのです。最早彼女が生者でも亡者でもいいと思うようになっています。彼女と会える、それだけで自分があの日彼女を殺した罪が消えていくようでした。身勝手な事とは思いますが、この生活を続けていけば、いつか私もこの世から徐々に溶けて、彼女のいる世界に行けるのではないかと、雨の日を心待ちにする日々です。……
長い長い男の語りが終わった時、私は全身から滝のような汗を流していた。いや、これは汗なのか。
全てを思い出したのだ。
私の家業は代々呪いを請け負う拝み屋のような仕事をしていた。特に女性にこの能力が強く受け継がれるので母も、祖母も同じ事をしていた。
仕事が仕事なだけに表立っては請け負わず、政治家、大物芸能人、ヤクザなど裏の筋から依頼が回ってきていた。クライアントが大物だけに一案件で入る収入の額は莫大だった。
しかし後ろ暗い家業なだけに一生まともな生活は送れないと思っていた。裏の顔を隠すため、常に違う人格を装っていた。
そんな時に出会ったのが彼だった。目立つ所のない凡庸なただの一般人。私がなりたいと憧れた姿だった。
あの日、仕事を見られたと思った時はまさか彼だとは思わなかった。何よりも犯してはならないミスだった。
頭を殴られた時の彼の恐怖と悲しみに歪んだ顔が甦る。
私はあの時死んだのだ。
そして死後、車が事故したという都合の良い記憶に改竄され、私は雨が降ると彼の元を訪れ続けている。
嫌だ。いっその事あの世に行かせてくれ。私という存在を消してくれ。
頭が割れそうに痛い。
思わず頭を抱え込んだ耳元に、今まで呪い殺してきた者達の呪詛の声が吹き込まれる。
「己が死んだ日を繰り返せ。永遠に愛する者に殺され、贖罪を続けろ」
そしてまた存在と記憶が曖昧になっていく。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だいやだいやだ。
必死に抵抗した所で私にはなす術はなかった。
「お客さん、知ってます? この山にも運転手界隈で有名な怪談があるんですよ。こんな雨の日に山で乗せた女性客が、麓に着くと忽然と姿を消すんです」
運転手が振り返るとそこに女性の姿は無かった。
ラジオの声が虚しく、雨音と共に車内に響いていた。
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