第19話 よく手を出さなかったわね

 人には二つの生き方がある。

 “自分”を持って生きるか、“使命”を持って生きるか。

 私は後者だった。


「どんなに大きな石を海に投じても波紋は波に掻き消される。世の中とはそう言うモノだよ」


 祖父は世の中を良くする為に生きたが、最後にはそう結論を出したらしい。


「海が世界。その上を進む船が国。船に乗る者達が国民。甲板に出れる者たちは富裕層で、船底でエンジンを管理する者たちが一般層だ」

「……お祖父ちゃんは?」

「ワシは甲板に出る者達ではなく……“使命”を持つ『神島』に成りたかった」

「『神島』?」

「彼らは深海から船に上がり、用が済んだら再び深海に戻る。その行動に差別は無い。船にとっての異物を排除するだけの平等な存在なのだ。生まれながらに“使命”を持つ彼らを私は羨ましく思う」


 その日は夏の大空だった。

 大きな入道雲に蝉の鳴き声に混ざって風鈴が涼しげな音色を響かせる。

 ソレを縁側に座って祖父と感じていた。


「そして、ミカ。お前も既に“使命”を持っている。それに向かって揺るがなく進む事が出来る眼はジョーを思い出すよ」

「ジョー?」

「お祖父ちゃんの友人さ」


 それが祖父とした最後の会話。

 次に祖父の事を聞いたのは、受験シーズンの真っ只中。縁側で眠る様に亡くなっている所を祖母が見つけたそうだ。

 葬式には私は出なかった。いや、受験で出れなかったが正しかった。


「…………」


 私は受験会場で祖父が最後のチャンスをくれたのだと感じた。

 ここで、受験を止めて祖父の葬儀へ行けば私は“自分”を持って生きただろう。


「それでは試験を始めます。開始はこの時計で9時から12時まで。答案を全ての書き終えた者は提出し、帰っても構いません」


 試験開始まで10分……私は――


「…………時間です。それでは始めて下さい」


 私は“使命”を選んだ。それが正しい素質だと祖父が背中を押してくれた様な気がしたから。






 『使命』とは個人や組織の持つ、目的意識の事を差す。

 祖父の言う通り、私は物心が着いた時から己の中で自分のやるべき事がしっかりと見えていた。


 高校生になってから私は己の中で足りない“経験”を集める為に手を伸ばしていた。

 しかし、それはやたらに手を伸ばして良いワケではない。“使命”の為に必要なモノだけを取り込まなければ無駄な時間を過ごしてしまう。


「会長」

「どうしたの?」


 生徒会長になったのも、多くの人の上に立った者の視線と責任感を“経験”する為だった。


「鬼灯さん絡みで問題が……真鍋君が殴られました。会長の言う通り先生には報告せず、風紀委員が場に入って抑えてあります」

「……そう。私が話を聞くわ」


 私は副会長にお礼を言って歩き出す。

 不謹慎かも知れないが、私は運が良かったのかもしれない。

 同級生の鬼灯詩織ほおずきシオリさんは傑出した存在だった。それに対応する方法を少なからず“経験”する事が出来たのだから。


「会長、今回の件はご迷惑をおかけしました」

「助かりました」


 殴った生徒は前々から素行が悪く、鬼灯さんに強引に言い寄った所を真鍋君が止めに入り殴られたのだ。

 私が説得し、退学も停学もさせずに事を納めた。人の行動心理を大体読めてきている。


「真鍋君もよく手を出さなかったわね」

「……それは正しく無いからです」


 真鍋聖まなべコウキ君。同級生である彼も年齢にしてはかなり達観した考えを持つ。


「鬼灯さん。貴女が良ければ生徒会に入らない? 何か、組織に所属して置いた方が良いと思うの」

「……私は家族の事がありますし。バイトもしていますから。折角のお誘いですが」

「そう。それなら強要はしないわ」


 その後、鬼灯さんと真鍋君は弁護士になったそうだが、鬼灯さんの事は殆んど聞かなくなった。傑出したモノが枯れてしまったのか、それともソレを抑えた生き方を選んだのか……

 少なくとも彼女は“自分”を選んで生きる事にしたらしい。






 有名大学に現役で受かり、必要な“経験”を得る為に多国語サークルに入った。

 言葉を持ってして、他の国の人達と話す事は必要な“経験”の一つだ。

 日本人の持つ価値観と文化。それによる海外との違いを知る為にも会話が出来なければならない。


「ミカのイングリッシュ。スゴク聞き取りヤスイヨー」

「そう言って貰えると“経験”が形になってると実感します」


 多国語サークルのOBが海外のホームステイ先にツテがあり、私は『フォスターカントリー』に三ヶ月間、お世話になっていた。

 牧場にて動物達との触れ合いにより、海外の畜産事情を知りつつ、最も有益な英会話を更に深める。効率良く“経験”を得られる。


「デモ何か堅いヨー」

「訛りの問題でしょうか?」


 『フォスターカントリー』の長女であるダイヤ・フォスターさんは近々、ニューヨークの学校に通う予定らしく、実家の農作業を継ぐ事は考えていないらしい。


「イングリッシュじゃないネ。ミカのフェイスヨ」

「顔付きですか?」

「ずっと、シカメッ面デース。そんなんジャ疲れるネー。ソウダ!」


 ダイヤさんは私の手を引くと、そのまま馬房へと引っ張って行った。中には三頭の馬が居り、その内の一頭の手綱を握る。


「ハイン。乗るネー」

「乗馬ですか。私は一人で乗るなと言われていますが」


 これはあまり必要の無い“知識”なので、その指示には従っていた。


「ワタシがペアだからダイジョブネ。ハイン、今から乗るヨー」


 ダイヤさんは優しく撫でてこれから騎乗する事を馬のハインに伝えると、馴れた様に跨がった。


「ミカ、ウシロに乗りナ!」


 親指をピッと自分の後ろに差すダイヤさん。躊躇う理由も無いので、少し危なげながらも鞍の足掛けを使って登る。


「確か、脇の下から手を前に組むんですよね?」

「ソウダヨー」


 小柄なダイヤさんは、私が落ちない様に掴まっても安定した様子で手綱を握っていた。

 そして、馴れた様にハインを歩かせ始め、トコトコと牧場内に放逐している動物達の様子を見て回る。


「アニマルはワタシ達の感情も細かく見てるデース。だからミンナ、ミカのコト心配してるヨー」

「心配……ですか?」

「YES。マジメにカントリーを手伝ってくれるの、ダディもマザーもワタシもシスターズも嬉しいネ。でもアニマル達は心配してマース」


 動物に心配される。それは今までに無い“経験”だ。


「ナニか、ジャパンに大事な用事があるんじゃナイカー? って良く言ってるヨー」

「……生まれ育った環境の違いでしょうか? 私には動物達はいつも通りに見えます。皆、健康体ですし」

「ンー、ミカみたいなジャパニーズ、始めてヨ。ずっと、リストとにらめっこするダディのフェイスになってるネー」


 自分の立ち振舞いは物理的な“益”を左右させるだけでなく、場の“空気”……精神的な感覚にまで影響が出ると言う事か。

 これは良い“経験”になった。


「……ハイン! GO!」

「!? わっ!? ダイヤさん!?」


 唐突にダイヤさんはハインを駆け出させた。私は振り落とされないように小柄な彼女に強くしがみつく。


「イイネー、その驚いたフェイス、ミカの本心出てるヨー」

「二人で乗馬した時は走るなって言われませんでした!?」

「ダディ、ワタシにキャンディー並に甘いからダイジョブネー」


 普通に停止させられ、ハインから降りるように言われるとダイヤさんと並んで正座をさせられ怒られた。

 罰として、ゴメンネー、ミカー、と謝るダイヤさんと馬房の藁掃除をさせられたが、悲観よりもどこか違う感覚があった。

 時には型から外れた行動も、心に余裕を持たせる為には必要な“経験”になる事を知ったのである。






 三ヶ月のホームステイから戻り、その経験から多国語サークルの会長に就任。

 勉強は勿論、物好きが私に告白などもしてきたが、恋慕よりも“使命”が勝っていた私は彼らの好意に応える事は出来ないと断り続けた。

 まぁ、その後。私に告白してきた者たちは別の女子と仲良く歩いて居たので、判断は間違って居なかったと思っている。


 そして、就職活動の時期になり就職ガイダンスやキャリアセンターに足を運んだ。

 在学中に司法試験に合格していた事もあって、弁護士や検察官といった法律専門分野での就職を斡旋されたが……


「これを受けてみようと思います」


 私はランクが10ほど下がる中小企業に応募する事にした。

 ソレを聞いた教授や知り合いは、一体どうした? と言った感じで説得して来たけれど、私は自分に足りない“経験”がまだあったのだ。


 理不尽と逆境の中で働くと言うこと。

 私が目指す場所は、まさにその様な人の感情が絶えず入り乱れる場所である。

 順風満帆で綺麗な道を歩いてきたが、ソレだけではダメなのだ。


 安全な道を歩き続けると言う事は薄い毒を飲み続けている様なモノ。じわじわと知らない内に自分を侵食し、困難な事に対して逃げ道を考える様になってしまう。


「岸沢美夏です。志望動機は、この会社でしか得られないモノがあると思ったからです」


 そうならない為の“経験”が必要だった。

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