第2話 ……おかえり

 まだ、部屋は暗かった。

 静かで、暗闇。余計な情報が消えた室内では女の声ははっきりと聞こえる。


「……そのつもり……だったんでしょ?」


 耳元で囁かれた様に明確に聞こえて、力の無い瞳だけが、闇の中でオレを見下ろす。

 女は下半身の下着を残して服は全て脱いでいた。整った肢体が月明かりに晒されて素直に綺麗だと思える。

 全てを呑み込むような妖艶な魅力。女はゆっくり口を開く。


「名前……言わない方が良いよね? その方が……面倒ごととか無いし」


 力の無い瞳と首の傷はコレが当たり前と言わんばかりに迷いの無い行動だった。

 だからオレは自分の中の“欲”に従った。


「……そう言うの好きなんだ」


 いつも布団に入って来て、オレの胸の上を寝床にするビスケットの代わりにして女を抱きしめる。

 そして、そのまま睡眠欲を身を委ねて、意識を閉じた。


「…………しないの? ……ねぇ?」


 そんな女の声が聞こえたが、意識は完全にシャットダウンされる――






 ビシ、ビシ、ビシ。


「…………あー、ビスケット。おはよう……」


 オレはビスケットの猫パンチ連打で眼を覚ました。コイツは的確に鼻を叩いて来るので前世はボクサーか何かだとオレはいつも思ってる。

 身体を起こして時間を確認すると昼の12時を回っていた。空腹になったビスケットは飯をご要望らしい。


「…………帰ったか」


 女の姿は無かった。オレの服も寝たときのスーツ姿のまま。それにしても……12時か。久しぶりに馬鹿みたいに寝たな……


「…………」


 睡眠欲を満たされたオレの脳内は昨晩の迫ってきた女の肢体が思い起こされる。

 そりゃ、男なら少しでも性欲があればヤる事ヤッてただろう。しかし、二徹後の身体は流石に脳の休息を最優先にしたらしい。


「あー、はいはい。今用意しますよ」


 ビスケットは押入れから、空の容器を前足で弾く様に目の前に持ってくる。オレはその容器を持って立ち上がり、フードの餌を入れて水も代えてやった。






 その後は風呂に入って昨晩買ってきたコンビニ飯を食べつつテレビを見る。そして、念のため財布の中身を確認するも特に被害は無し。

 あの女は本当にただ泊まって行っただけの様だ。


「……まぁ、変な被害はなくて良かった」


 そのまま布団を畳んで部屋の掃除。ビスケットと猫じゃらしで遊んでいると、携帯が鳴る。表示画面は“後輩”だった。


『先輩! 起きてたっすね!』

「なんだ? なんか仕事でミスでもあったか?」

『いや! 岸沢さんが今の時間も寝てたら精神病の可能性があるから確認するようにって!』

「オレが鬱になったら会社の体制が極限まで絞られた瞬間だと思ってるわ」


 そうやって多くの普通なヤツは辞めて行った。残ってるのは普通じゃないヤツばかりである。


『そうっすか? 結局は仕事は体力勝負だと思うんっすよ! 先輩も朝ランニングしましょう! ウチ、迎えに行くっすよ?』

「何で、只でさえ少ない体力を自分から減らしに行かにゃならんのだ。しかも朝から」


 体育会系の後輩は社内でも犬みたいに走り回っている。あの体力は毎朝のランニングの積み重ねかよ。正気じゃねぇな。


『いやー、ウチの習慣みたいなモノなんで! やらないと気持ち悪いって感じがするっす』

「オレはビスケットと遊ぶからそんな時間は無ぇ」

『あ! ウチもビスケットちゃんと遊びたい! 最近は先輩の家に行ってないし……』

「岸沢誘って猫カフェにでも行け。じゃあな」

『うっす!』


 通話を切る。

 後輩は今の会社に来て一ヶ月。短絡的なメンタルのおかげなのか、未だに生き残っている。

 基本的にはオレの補佐。他に人手が必要な時はそっちに回しており、今回は同僚の補佐をさせた。

 明日からはまたオレの元へ帰ってくる。やらせる仕事なんていくらでもあるので、暇だけはしないだろう。






「ほんっと! 先輩! スミマセンっ!」

「あー気にすんな。このコピー機、よく止まるんだ」


 次の日、資料のコピーを頼んだ後輩が中々帰って来ないものだから様子を見に行くと止まっているコピー機の前であたふたしていた。


「こいつは予備の用紙をMAX補充すると止まるんだ。数は半分だけ入れて再起動をかけて――」


 ガーと、元気にコピーを始めるコピー機。オレの3倍はこの会社で社畜をやってるコピー機先輩は、止まる度に退職を考えてやった方が良いとオレは思ってる。


「お、おお! 流石っす!」

「お前も社内要望でコピー機の事を出しとけよ」

「了解っす!」






「朝比奈」

「なんだ?」


 後輩の件を片付けて自分のデスクに戻ったオレに同僚の岸沢が話しかけてきた。


「部長が呼んでたわよ」

「……りょーかい」


 部長に呼び出されると言う事は間違いなく良い事ではない。

 オレは部長のデスクの前に行くと、


「ああ、違います。それはBパターンがおかしいのではないですか? 考えられるのは経路の条件が――」


 と、固定電話の受話器を耳と肩に挟んで顧客とのやり取りをしている部長はオレの存在に気付き、デスクの上にある資料を取って差し出して来た。オレは受け取る。


「朝比奈、ソレを頼む」


 それだけを言って部長は再び顧客との会話に戻る。オレは席に戻りつつ資料の触りをパラっと捲って内容を軽く見た。


「……また火消しかよ……」


 今日も日付が変わるまで帰れそうに無い。






 先輩! 今日こそは手伝うっす! 一緒に徹夜するっすよ!


 お前のやる範囲を決めとくから今日は帰れ、と20時まで他の業務をやっていた後輩を帰し、オレは新たな火消し案件の内容を把握。

 相変わらずクソみたいな事になってやがる。一度、顧客と話して内容を説明して妥協させないと完成さえもしないぞ。


 大まかな作業プランを簡単に作って帰るか、と見た時刻は日付が変わっていた。


「一体……何がどうなったらあんな仕事が出来んだよ……クソが」


 帰路に付きながら、毎回のように仕事に対する恨み辛みを吐く事で精神を保っていると自覚している。当然、今日もコンビニ飯。


「…………は?」


 アパートの階段を上がって廊下の先を見ると、昨日の女がオレの部屋の前に体育座りをしていた。


「…………おかえり」


 相変わらず力の無い瞳でオレを見る。勘弁してくれよ……

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