あいとは

清寺伊太郎

あいとは

 愛とは何でしょうか。心でしょうか。欲でしょうか。それとも神様とかそういう類のものなのでしょうか。

 わたしにはちょっとした変態性があるのかもしれないのです。恋仲にある男女をいつまでもいつまでも追い続けて見続けていたいのです。それに古い価値観を持っていますから男性は逞しく、女性はしおらしく、男性のほうが背は十センチほど高くて、女性が彼を輝く目で淑やかに見上げるのです。にもかかわらず男性は照れ臭くって口を結んで、真正面を向いたきり彼女のその水晶玉のような光を横から受けるのです。だけどもですよ、手は大切に握られているのです。

 こんな光景を永遠に見ていたいです。実は実際にあったことなのです。昨日、一昨日と見た光景でした。その前は一週間ほどありませんでした。わたしはそんな者たちに爆殺願望があるのではないですよ勿論。むしろ、本当に感謝をしています。二人の背中を見るたびにわたくしは感涙の至りなのであります。

 あいとは。何年も生きていますと、この世界を漂浪していますと、感情の起伏というものが、人生の長さとともに押し伸ばされているようになっていきます。時間という液体に希釈されてしまうのです。そのために確信がなくなってくるのです。愛って本当にあるのかと。はて、なぜ愛なのか。喜びや怒り、悲しみでもよかったんじゃないかって思いますよね、感情の話ですから。全く妥当な疑問です。ですから私も正直に打ち明けましょう。全く以て明瞭です。私がひたすら愛を欲していたからです。

 私は愛を知らない人間ではありません。この場合、後に出てくるような狭義な方ではなく一般的に用いられる愛です。愛情。母からの無償の愛。友愛。告白。一人で生きていかない限り、どこかにきっと愛は存在していたのでしょう。愛が電子のような受け取り可能な通貨だったならばもっとわかりやすかったのですが、残念ながら愛は私たちには見えません。しかし人は愛を感じると言います。触れた時に、抱きしめた時に、通じ合ったときに。オキシトシンとかセロトニン等とはきっと別物なのでしょう。ここで唯物論者は脱落ですかね。

 ではなぜ私が愛を疑うようになったのかと言うと、それがまさに先述したような理由で人々から失われているのをしばしば感じるからです。

 結婚。あれは、愛の儀式ではないのですか?永遠の愛を誓うものではないのですか?カトリックだけですか?同居と同姓と新たな関係の単なる契約ですか?そんな成人前の飲酒みたいな破られ方をしないで貰いたいです。…綺麗事ですね。知ってます。与太話ですが私、綺麗事、とっても好きです。…分かっていますとも。結婚は魔法じゃない。結局は愛の生成物の余剰の売買の結果に過ぎない。子どもができたとして、その子に貢ぎ続ける愛は無限じゃあない。人間最後は恋愛「勘定」なんか言ってみたりして。あれ…気づきましたか。私はここで愛を通貨のように使いましたね。なので私は愛は見えない消耗品と同じだと思うことにしました。

 ここまでくれば同意してくれる人もいてくれるでしょう。しかしそれだけに寂しい答えですね。さっきも言ったように私は綺麗事が好きなのです。永遠があるなら永遠を見たいし、愛が世界を救うならばそれを信じてみたい。だから、愛の解れを目の当たりにした私はひどく心を痛めるのです。素敵な愛が苦しみを産んではならない。愛が憎しみを強くしてはならない。そう思い込みました。そしたら取るべき行動は一つですよね。「これは愛ではない」と定義するのです。~でない。を定義と呼ぶのは違いますかね。でも本体が見つからないのですから外殻を埋めていくしかありませんよね。否定神学的なやり方です。

 肉欲の方はどうでしょうか。愛でしょうか。個人的な思考でしかないのですが、私はプラトニックラブ信者ですのであまり乗り気ではありません。人間がここまで繁栄できたのはひとえにこの欲望のおかげなのは否定できません。その源泉は愛にあるのでしょうか。その壮大さは永遠に匹敵するでしょう。しかし生殖、繁栄は本能です。故に機能的な側面もあるように思えます。脳の中枢からの指令によってテストステロンやらエストロゲンが刺激された結果でしかないのではないでしょうか。まあ、ここにきて脳還元主義、唯物論者の復権ですか。やめておきます。いずれにせよ性行為を通じて愛を確かめると表現する人は多そうですが、行為自体を愛と呼ぶ人はいささか珍しい感じがしますね。欲こそ時間によって希釈されてしまう感覚ですしね。よって「これも愛ではない」と思います。

 私はヘテロセクシュアルなのですが、異性には愛してもらいたいと思います。同性は自分から好きな人間に近づくことが多いですが、異性は違う感じがするのです。そういった意味では愛が友情の延長線上にあるということも否定されると思います。愛が、~でない。という曖昧な認識の私には誰かを本気で愛したというような経験がありません。ただ人を愛したいという気持ちがとても強くありました。それは、愛が合わせ鏡のように相手に映るものと信じていたからです。しかし当然ですが私の愛は確信を伴っていないのでそれはそれは、どうもそのまま虚像として一向に報われるはずもないのであります。だから待つことにしました。誇張でもなんでもなく奇跡を待つことにしました。私に愛の実像を伝えてくれる伝道者を待つことにしました。そこからは極めて空虚な時間でした。私は因縁あって、孤独に苦しんでおりましたので、いよいよ愛を渇望し、同時に愛は遠い遠い夢のように思えました。しばらくしたそんな時です。私は一組の男女を駅の近くで目撃しました。それは友人でした。友人が異性と歩いていました。私は思わず隠れましたが。目を離せませんでした。すると、女性の方が男性に体を寄せ、甘えているではないかと思いました。その瞬間、私は二人が恋仲なのだと確信いたしました。二人は笑い合いながら何かを言い合っているようでした。そんな二人を見て私は、色と形を見ました。紅白。混じりあっては桃色。私は愛には単純な人間です。形象は柄にもなくハートでした。そこからです。私は愛の在処を見つけたのです。二人の示すものを受け取るのです。二人の歩みを見て自らを重ねるのです。しかし隣に誰もいなくてすぐに意識を彼らへ帰すのです。するととても素敵な景色があるのです。私は幸せです。だから皆さん、手をつないでください。抱きしめあってください。あなたたちの思う愛で、愛し合ってください。

 分かったんですよ。愛が何なのか。あくまで私にとってですが…。夢を、流し込むのです。此の空っぽの愛の心に。期待で胸をいっぱいに。上がり続ける要求値を、乗り越えられる、この無知ゆえの愛の創造受容力。君らがいるから愛があるんだ。愛があるなら信じ続けられる。愛は無限。昨今のトレンドは知らないけれど、ラブストーリーはハッピーエンドがいいでしょう。

 

 

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