第5話

襖の前で、かれこれ10分くらい私は立ち尽くしていた。この襖の奥が龍哉さんの自室である。


 あれから更に数日経っていた。話すチャンスを作ろうとしても、龍哉さんは私の目の前に来るとわざとらしく肩を落として気を引こうとしてくる。私は私でそれに反発して、フンッとそっぽを向く。龍哉さんはそれを見てさらにがっくりとする。まさしく負の無限ループである。


 そんなことばかり飽きもせず繰り返していたら、案の定、時枝さんが怒った。



「お嬢様、それではいつまで経っても学校にはいけませんよ」



 確かに。


 否が応でも、私は龍哉さんときちんと腹を割って話す必要がある。時枝さんは私を部屋の前まで引きずり、立たせた。行くしかない、それに、退路の一本道は薙刀を携えた時枝さんがいる。背水の陣とはこのこと、私は前に進むしかないようだ。ええい、女は度胸である。



「…失礼しまーす」



 ゆっくりと襖を開ける…顔を上げてすぐ目の前に飛び込んだのは、龍の片目だった。



「…っ!」


「姫乃様っ!」


 龍哉さんは慌ててシャツを着る。焦ってボタンが上手く留められない様子で、あれやこれやと苦戦していた。私はそれを尻目に、その背中に描かれていた「龍」を思い出す。

 

 タトゥーなんてお洒落めいたものではない、あれは和彫りだ、刺青だ。


 この一週間と少し、馴染んでしまったせいか、考えないようにしていたせいか、それとも、柔らかく楽しそうに話をする龍哉さんの雰囲気がそうさせていたのか、すっかり頭から抜けていた。


 この人も、ヤクザだ。がっちがちの、しかも次期当主だ。



「…大変見苦しいものを」


「………。いえ、私こそ、急に開けて失礼しました」



 へたりとその場に座り込む。やっぱり、あんなものを間近で見てしまった驚きは隠せない。

 龍哉さんは私にゆっくり歩み寄り、その長い指が私の顎をすくう。むりやり、目を合わせられる形だ。



「これでわかったでしょう?」


「……え?」


「貴女を買った私は、れっきとした極道の人間です。見かけばかり好青年風なので、貴女も勘違いされたかもしれません」


「…」


「…私が貴女を『買った』という噂話は光よりも早くこの業界を駆け抜けたことでしょう。貴女という人間の『価値』は、今までの何千倍、いや何億倍と膨れ上がっています」


「…」


「隙だらけの貴女は格好のターゲットですし、私の弱みです。だから、不用意に外に出したくなかったんですけど…」



 龍哉さんは、はあとため息をついた。



「…私だっていろいろ考えたんですよ」


「…はい?」


「セキュリティのしっかりした女子校となると、山の中で、しかも全寮制とかになりますし」


「…へ?」


「そんなとこでも、男の教員っているんですね。びっくりしました…それなら、同級生に男子がいても変わらないじゃないですか」


「…それって、もしかして」


「…仕方がない、私の負けです、もう学校に行ってもいいです」


「…!本当ですか?」


「…はい、非常に不本意ですが」


「あ、ありがとうございます!」



 この屋敷に来てから、こんなに大きな声で喜びを表現したのなんて初めてだと思う。龍哉さんも目を丸くしていた。



「ただし、条件があります」


「龍哉」


「ひとつ、護衛がつきます、もちろん目立たないように。ふたつ、門限は必ず守ってください。みっつ、もしものときは送迎つきです」


「う」


「これだけは譲れません。あきらめてください。そして、よっつめ」



 まだあるのか…と辟易していると、頭の上に大きな手のひらが乗った。龍哉さんは、何度も何度も繰り返し、やさしく撫でている。



「いじめてくる奴がいたら必ずご報告ください、我々の方で何とかしますので」


「…それは、ちょっと」


「なに、少しばかり注意するだけですってば」



 怪訝そうに眉をひそめる私を見て、龍哉さんは目を細めてくすりと笑う。そして、『楽しんできてください』と付け加えた。

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