アリスの殺意

 今日は一日中雨の日だった。


 僕は小学校入学以来、傘を全部で10本以上は盗まれていた経験と実績があったので、基本的に傘は差さない。黄色い雨合羽を着て出勤し、ロッカーにかけて置いている。


 傘を盗む奴は最低だと常々思っているが、それ以上に愚かな行為だと感じることがある。

 コンビニで割高な傘を買うという行為だ。

 天気予報の確認を怠り、当日の雨に困った挙句、コンビニで割高な質の悪いビニール傘を買う。家に持ち帰ってから無駄に買ってしまったビニール傘を持て余してしまう。


 コンビニ傘を買うやつは総じて馬鹿だ。そして意外にもスーツを着たサラリーマン客が最もコンビニ傘の購入率が高い事が体感で分かった。ホワイトカラーのエリート層な人達も案外馬鹿なんだろうなと、コンビニの傘売り場に群がる人を見て鼻で笑ったその時だった。



 来店客を告げるアラームとともに一人の若い女性が入店してきた。

 彼女はビジネス用バッグを頭にかざして傘代わりにしながら、慌てた様子で中に入ってきた。雨に軽く濡れたであろう髪にはいくつもの雨粒が付着し、コンビニの照明に当てられたそれらは、まるで宝石のように光り輝いていた。


 宝石が周囲に散りばめられた彼女の小さな顔は、意地らしくも可愛らしい表情で曇天を恨めし気に見上げていた。僕はそんな彼女の姿を見て、先ほどまでの悪態を瞬時に撤回した。


 ポッポさんにスマホを渡さなければ。


 息をつくのも忘れて遺失物置場に向かおうとしたその時、彼女がポケットから取り出したものを見て動きが止まった。それは真新しいスマホだった。彼女はなくしてしまったスマホは諦め、新しいスマホを買い替えていたようだった。


 ただ、それはそれでしょうがない。新品のスマホを買っていようといまいと、古いスマホを彼女に届ける義務が僕にはあるのだ。ポッポさんのヒーローにはなれなかったという小さな落胆はため息とともに軽く流し、遺失物置場に向かおうとした僕は、次の光景に心臓が停止しかけた。


 背の高い30代くらいの紳士そうなスーツ男が続けて入店してきて、ポッポさんと親し気に話をしていたのだ。男は優しく撫でるようにポッポさんの身体についた雨粒を払いのけ、ぽんぽんと背の低い彼女の頭を叩く。


 ポッポさんははにかんだような笑みを浮かべながら、傘売り場の傘を紳士風男と並んで見ていた。頭の中が熱膨張を起こしてたまらなく熱いのに、胸の真ん中には空洞ができて風が吹き抜けていく底冷えを感じる。


 これまでの全部は無駄だった。

 全てがまやかしで、独り舞台に立った、一人ぼっちの主人公。

 一人で勝手に頑張り、一人で勝手に盛り上がり、一人で勝手に達成感に酔いしれる。


 いくつものスポットライトに当てられたその独り舞台は、真向かいで開かれた大きな舞台の登場により強制的な幕引きとなる。


 泥が脳の血管を流れているような気持ちの悪さと意識の混濁。鈍る思考と気もそぞろな手つきでレジをこなす。隣のレジで買い物をしている仲睦まじい2人の様子を、死人の目でぼうっと眺めていた。傘をレジに差し出す目の前のアホ客の舌打ちに気づかないほど、ぼんやりとしているのが自分でも分かった。


 ポッポさんと紳士風男は買ったばかりの傘を差してコンビニを出て行った。


……………………僕も、追いかけなくては。


 これは残り滓のような義務感からか、果たして別の、胃の底から込みあがってくる熱を持った何かのせいか。口の中に鉄の味を感じる。手で軽く拭うと、噛みしめた唇から赤い色の液体が拭った手に付着していた。


 正常な判断力を失った僕は、黙ったままレジを離れる。立ち去る僕にグエン君は何か文句を言いかけたが、僕の表情を見るなり、ヒィッという動物の悲鳴にも似た鳴き声一つ上げるだけで黙ったまま見送ってくれた。僕はどんな顔をしていたのだろうか。


 ロッカーに入れたはずの黄色い雨合羽はなぜか入っていなかった。

 確かに出勤の時に着ていったはずなのに。まぁいいか。もういいか。


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 どんよりした空模様は僕の将来と心を映し出しているようだった。日陰者の自分は一生日陰者だと、雨粒とともに容赦ない現実を僕に叩きつける。歩くたびにTシャツが水を吸って重たくなっていく。これが僕の沈みゆく未来とするならば、傘を差して並んで歩く2人は、約束された幸せの未来と言えるだろう。


 前髪から滴る水が口に入り、僅かに塩気を感じる。冷えていく身体に反して腹の底から吹きあがるマグマが心の芯を煮えたぎらせる。


 道を行き交う人々は誰にも僕なんかに目もくれず、自分達だけの幸せの世界に向かってそれぞれ歩いていくのだ。日陰者はただただ日々の現実に打ちひしがれ、低空飛行を続けてやがて地面に落下する。幸せな人々は、落下したそれらを知ろうともせずに、無自覚に踏みつけ過ぎ去っていく。


 2人から1ミリも視線を外さず息を殺して後を追う。何日も何日も繰り返し白ウサギを追いかけたアリスは、白ウサギの辿る道のりをすでに頭の中に叩き込んでいる。決して逃がしはしない。


 新幹線高架下のまっすぐな道に差し掛かった。紳士風男はそこでポッポさんと別れた。手を振りながら歩き去る彼を、愛おしそうな目でポッポさんは見送っているのを確認し、ここだと核心じみた決意が固まる。


 こちらの決心を感じ取ったのか、彼女はこちらを見て慌てたように走っていく。コンクリートの柱の陰に隠れているので、僕を視認できないはずなのになぜだろう。そんな疑問を考えている時間はなさそうだと、いくばくかの遅れを取りつつ追いかけようと足を踏み出す前に。


 僕の横を黄色い雨合羽を来た小太りの男が駆け抜けていったことに腰を抜かしそうになった。男の顔は合羽のフードに隠れてよく見えなかった。ただ、異様な雰囲気を纏っている事だけは伝わってきた。あんなのがいつから僕の近くにいたのだろうかと呆気に取られながらも、僕もつられて後を追いかける。


 ポッポさんと黄色い雨合羽男の距離は徐々に縮まりつつあった。焦ったポッポさんは手に持つ傘を投げ捨て、全速力で逃げていく。しかし、ヒールの靴にビジネスバッグを持つ彼女に対し、黄色い雨合羽男はスニーカーで荷物はなし。


 よろけるポッポさんは歩きづらいヒールも脱ぎ捨て、裸足で駆ける。どこか隠れやすい路地へ逃げ込もうとでも思ったのか、彼女は例の路地裏に入り込んでしまった。そこはこれまで彼女が毎回入っては霧散するように消える袋小路。


 黄色い雨合羽男に遅れを取りながらもなんとか路地裏まで辿り着いた。僕はマンションの壁に身を潜めながら路地裏を覗き込む。


 今回、ポッポさんは路地裏にちゃんと立っていた。霧散してなどいない。確かにそこに立っている。恐怖で足を竦ませながら、正面に立つ黄色い雨合羽男を怯えた顔で見上げている。

街灯1つ差さない暗がりでよく見えなかったが、黄色い雨合羽男は何かを天高く掲げていた。


 騎馬に乗った騎士が空へと掲げるように持つそれを、容赦なくポッポさんの身体めがけて刺していく。


 何度も何度も何度も。


 彼女の叫び声は激しい雨にかき消され、すぐに途絶えた。大量の赤い液体が雨に流されて路地裏に広がっていく。彼女が力なく倒れ伏した後も、馬乗りになって何度も刺しているようだった。


 倒れたポッポさんの瞳には、かつて宿っていた光はすでになくなっていた。

 その虚ろな瞳にはもう何も宿していないはずなのに。

 ぽっかりと空いた空虚が僕の視線と合ったような気がして。


 ヒィィィッと情けない声が路地裏中に響き渡る。

 僕の声かと思ったが、我に返って尻もちをつきながら恐れおののいている黄色い雨合羽男の声のものなのか。どちらのものかは分からなかった。


 黄色い雨合羽男は血に塗れた包丁をその場に置いたまま、火がついたようにその場から走り去ろうとこちらに向かってくる。通りに出てきた黄色い雨合羽男の顔が街灯に照らされ、そいつが誰なのかをマンションの陰に隠れながら認識した。


 そうか。思い出した。

 これまでのことも全部そういう事だったのか。

 なるほど、合点がいった。

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