後述
後-1
塾の手伝いを終えて雑居ビルの外に出ると、周囲はぼくの好きな夜の景色になっていた。見上げた空には小さな雲があり、その隙間に星が一つ光っている。このまま家に帰るにはもったいない夜だった。
いつもの逆回りで夜の散歩コースを歩いてみようか。
ぎらつく繁華街を抜け、しっとりとした住宅街を五分ほど歩くと、もみじ公園の冷たい外灯の光が見えてくる。公園の敷地に一歩踏み込んだところで深く息を吸うと、いつもの公園の匂いがした。
園内の遊歩道をゆっくりと歩いていく。自分の足音に混じってどこからか人の話し声が聞こえてくる。その会話の中に、「とうどうせんせい」という言葉が聞こえたような気がした。闇をすかして前方に目をやると、砂場のとなりにある背もたれつきのベンチに二つの人影があった。
ぼくは足音を忍ばせ、公衆トイレの陰に身を寄せた。
「資料庫の一番奥の棚で見つけました」
「愛媛みかんの段ボール箱の中でしたか」
「そうです」
「じゃあ私が仕舞ったときのまま保管されていたのですね」
この声の片方は、たぶん克巳さん――東堂先生のお兄さんだ。ということは、もう一人は元教え子の後藤さんだろうか。
「先生が辞められてからずっと気になっていたことがあるんです」
「どうぞ、遠慮なく」
「卒業のときに返すっておっしゃった約束、なぜ守られなかったのでしょう」
「そうですね。約束、守りませんでした。辞職の前日に学年主任の梅田先生に引き継ぐことも考えたのですがやめました」
「理由、聞かせてもらえますか」
「返すのなら全員に――でなければダメだと思ったからです。でもそれは不可能になってしまいましたから」
「全員に――あ、そういうこと――」
「私の自分勝手なこだわりです。みなさんにとっては迷惑な理由ですよね」
「いえ、そういう理由だったのなら、約束を破ってもらって良かったと思います。うん、良かったです」
ここで会話が途切れた。
それは気まずい沈黙という感じではなく、お互いが次の言葉を選ぶための時間だということが伝わってきた。
ここまで確認できれば十分だ。これ以上立ち聞きするのは悪意趣味というものだ。
ぼくは公衆トイレの陰からそっと離れ、もみじ公園の外に出た。
次は桜池神社だ。
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