極短ホラー 偶然

狭霧

第1話 偶然

――また!

 香納乙子は身をすくませた。

「やあ!」

 片手を上げたのは年下の同僚・沢本勝喜だ。

「偶然だね、香納さん」

 近づいてくる。

――何が偶然よ!毎晩じゃないの!

 駅からの帰り道で、ここ十日ほど毎日沢本と出会ってしまう。沢本の自宅は世田谷で、乙子の住む目黒区とは方向が違う。

「なんでいつも会っちゃうのかな?これは――」

 人差し指を立てて笑った。

「運命?」

 乙子の背筋に怖気が走る。

――この男は、しゃあしゃあと!

 入社したのは乙子が先だった。その後一年遅れで沢本は入ってきたが、最初から乙子に馴れ馴れしかった。部内の多くが居る中、あえて大きな声で乙子を誘うこともあった。それとなく女の上司に相談もしたが、上手くかわしなさいと言われた。人員の増減は上からの目が厳しい。所詮は保身の為だということは見え見えだ。

 沢本の誘いはことごとく断ってきたが、最近になって乙子の帰り道に現れるようになったのだ。

「……困るんだけど……」

 小声で言うが気にもとめない。

「夕食まだ?だったら一緒に食べに行かない?」

 睨んでもひるまない。だが、困るのは本当だった。

――翔太君が待ってるのに……。

 部屋には同棲相手の今井翔太がいる。今日は早番の翔太が夕食を作る番だ。ドアを開けると良い匂いがして翔太の笑顔がある。料理上手な翔太は《美味しい!》といって食べる乙子を見ているのが好きだという。乙子は苛立った。

「本当に困るの!あまり私に――」

「どの店が良い?ねえ行こうよ!」

 脇をクルマが走り去った。一方通行なので速度を落とさないクルマは多い。

「ね?一回だけ!いいだろ?」

 そう言って沢本は乙子の手首を握った。

「いや!なにするの!放して!」

 その声に沢本の顔つきが変わった。笑みが消え、目がつり上がった。

「なんだよ!入社した時には《よろしくね》って言ったじゃ無いか!《分からないことは訊いてね》《頼ってね》って!あれは嘘だったのかよ!」

「何言ってるの!頭おかしいんじゃないの?」

 乙子も怒りに火が付いた。

「そんな社交辞令で何勘違いしてるのよ!」

「誘いかけたくせに!」

「はあ?ねえ本当にどこかおかしいんじゃない?病院行きなさいよ!」

「俺を誘ったじゃないか!」

 目が据わり、口には泡が見えた。

「ちょ……ほんとに……放して!」

 恐ろしくなった乙子は沢本の手を振りほどこうとした。だが沢本は放さない。空いていた片手で乙子の髪を掴んだ。

「欲しいものは必ず手に入れるんだ!付き合えよ!付き合え!付き合えって!俺と!絶対付き合え!」

「い……やぁ!だれか!だれかぁ!」

 叫びながら乙子は沢本に体当たりした。沢本はよろけ、乙子から手を放した。次の瞬間、激しいブレーキ音と共にドスンという鈍い音がして、沢本の身体は数メートルも飛ばされ、地面に転がった。偶然来合わせたクルマに沢本は轢かれ、動かなくなった。

 救急車とパトカーが駆けつけ、事情を聞かれる乙子の脇を沢本を乗せた救急車が走り去った。乗せる前に隊員が《心肺停止》と言っていたのが乙子にも聞こえていた。


 警察署でも事情は聴かれたが、ドライブレコーダーに残された映像から、沢本が乱暴をしていたことは証明された。乙子に非は無いが、結局起訴猶予として事は終わった。

 しばらくの間、会社でも話題になっていたが、それも少しすると引き潮のように消えていった。静かな日常が乙子に訪れたのだ。


 その日、乙子は駅からの道を歩いていた。

「今夜の献立は何かなぁ」

 優しい翔太が待つ家へと、自然と急ぎ足になる。事件以来別の道を使うようになっていたが、努めて忘れようとしていた。その乙子が一方通行の道に入った時、薄暗い前方の曲がり角から人影が現れるのが見えた。その人影の歩き方はぎこちない。今にも倒れそうになりながらゆっくり近づいてくる。乙子は足を止め、凝視した。人影は片手を上げ――。

《偶然だね》

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極短ホラー 偶然 狭霧 @i_am_nobody

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