あの日の本屋の✕✕✕✕理由は

時無ロロ

あの日の本屋の✕✕✕✕理由は

『誠に勝手ながら✕月✕日を持ちまして閉店致しました。長きに渡るご愛顧ありがとうございました』


 小綺麗にしてあるが、古さが隠しきれないスーパーマーケットの一画。本屋が無くなっていた。からっぽの本棚に掛けられたネットが、空調で僅かに揺れている。

 ああそうなんだ、とその場を後にした。俺の目的はペット用品と衣料品。本ではない。


 俺の目的はペット用品と衣料品。もっと言えば愛犬お気に入りのビスケットと、散歩時の自分の服。毛やよだれにまみれる事を考えれば、こういった店にある物で充分だ。秋物であれば、なんでもいい。悩む買い物じゃない。

 だというのに、服を見ているようで見ておらず、脳が勝手に掘り起こす記憶を観ている。


 まだ幼稚園に通っていた頃だったか、母に連れられて、このスーパーによく来ていた。食材や日用品を買って帰るだけの事が多かったが、あの日はお菓子のレシピ本が見たいからと本屋にも寄ったのだ。母は料理が好きだった。どれにしようかと静かに、しかしウキウキした様子の母を待つのも退屈で、勝手に離れて店内を歩いた。

 そこで幼い俺の目を引いたのが『はたらくくるま図鑑』だ。『図鑑』にはひらがなが振ってあったので、漢字が分からなくても読めたのを覚えている。図鑑という響きもさることながら、タクシーに消防車、ショベルカーやブルドーザーといった車の写真が俺の目には眩しく映った。初めて自分で欲しいと思った『本』だった。


 母にねだって買ってもらったそれを、帰宅すると待ちきれなかったというように開いた。そんな息子の様子に驚く父の顔も思い出される。休日で、家に居たんだったか。

「お母さんもこの本で、美味しいお菓子作るね。お父さんに読んでもらって、待っててね」

 母も気に入った本が買えたようで、いつも以上に優しくて嬉しそうだった。


 はたらくくるま図鑑は、中の文章も全ての漢字にひらがなが振ってあった。だから自分一人でも読めたのだが、俺も父も母の言いつけを守り、読んでもらって待っていた。正直、図鑑に夢中で待っているという認識ではなかった。父の読み聞かせも、聞いてるようで聞いていない、程度に聞いていたと思う。どうしても興味が車の写真の方に向かっていた。「もう一回こっち見る」とか、「まだこの車が良い」とか、何度も父の手を止めた。父は笑っていたが、少し困っていた気がする。


 そうこうしているうちに、母がお菓子を作り終えたのだろう。甘くて心地よい匂いが漂ってきた。

「おやつの時間。りんごタルトを作ってみましたー!」

 満面の笑みでりんごタルトを運んできた母は、俺達の返事を聞くより先に、るんるんとタルトを切り分けていた。


 母が作ったりんごタルトは美味しかった。父が「図鑑に溢すといけないから離れて食べなさい」と言うので、名残惜しいがテーブルの前で座って食べていた。図鑑とのしばしの別れだった。

 そのくせ父は「父さんは大人だから溢さないんだ」と、得意げに片膝を立てて座り、タルトを手掴みで頬張っていた。母が「お行儀悪いよ?」と注意していたが、俺は「大人になったら溢さないんだ……」と感心していた。

 そんなことはなく、父は何口目かでりんごの欠片を溢した。図鑑の上に。

 俺は手に入れたばかりの宝物を汚された事と、大人は溢さないなんて嘘だった事への、怒りやら悲しみやら。よく分からないままに大泣きした。父は母にしこたま叱られていた。

 今考えると、父が少し可哀想だ。父はお調子者で少しドジな人だった。悪気は無かったのだ。いや、行儀の悪い食べ方を子供に見せるのは、考えなしがすぎるかもしれない。俺が真似するようになったら、どうするつもりだったんだ?


 ふと我に返った。脳が勝手に始めた記憶上映会が終わった。眼前には栗色の長袖シャツがかかったハンガーを持った自分の手。一着はこれでいいか、散歩用の服。


 変な気分だった。子供の頃のほんの一日の思い出が、あの本屋を見たことで鮮明に蘇った。懐かしいと同時に、どうしようもなく嫌な気持ちが自分の中に滲んだのを感じた。

 二着目を手に取った時に、気が付く。あの本屋が潰れた事が嫌なのか。思い出の場所が無くなった事に、寂しさを覚えているのか。


 会計を済ませ、レジ近くの休憩スペースへ向かった。自販機で缶コーヒーを買い、喉に流し込んだ。ベンチに腰を掛け、コーヒーが身体に染み渡るのを待った。黄昏れていても仕方がないので、気持ちを切り替えたかった。


 初めて自分で選んだ本、わがままに困りながらも読み聞かせをしてくれた父、美味しいお菓子を作ってくれた母。落ちなかったタルトの染みも、今では良い思い出だ。あの本屋が無ければ、あの日は無かった。素敵な思い出をありがとう、閉店した本屋さん。

 そうなのだ。昔は昔、今は今だ。俺の帰りを待つ、愛犬の居る我が家へ帰ろう。


 ベンチから立ち上がろうとしたところで、ある考えが浮かんだ。犬用のりんごタルトはあるのだろうか。今は犬用のケーキだってある。様々なお菓子を作ってくれた母のように、愛犬にも他のおやつを食べさせてやるべきかもしれない。

 ポケットからスマホを取り出し、必要な単語を打ち込み、インターネットの情報を拾う。一秒経つか経たないかで検索結果が表示される。犬用のりんごタルトは存在するらしい。大手ショッピングサイトの商品から、犬用お菓子レシピ本もヒットした。驚愕だ。なんでもあるじゃないか。

 愛犬がむしゃむしゃとお菓子を食べる姿を想像した。作ってやりたい。母は料理が好きだった。息子の俺も、案外料理にハマるかもしれないな。


 ベンチに腰掛けたまま『愛犬が喜ぶお菓子の作り方』を購入し、りんごタルトのページまで飛び、必要な材料を確認した。これも買ってから帰ろう。


 俺は興奮を隠せない足取りで、食品コーナーに急いだ。

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