Epilogue

Epilogue-1

 ――――何千、何万と蝶を見てきた。


 蝶は〈神々〉から愛されている。それはすなわち、悪食がかつて言っていたように、死という概念に近付いてしまうことと同義だ。「普通」から離れてしまうことは心を軋ませる。どの世界でも、蝶は一人では抱え切れないほどの苦しみに呑まれていた。


 雪蝶はそんな蝶の元に訪れ、蝶が抱えている苦しみを共に背負った。蝶が生まれてから蝶が死ぬまでの全ての時間軸を観測し、干渉する。とある世界の蝶の苦しみを和らげ終えたら、また次の世界の蝶の苦しみを和らげ始める。


 最初の頃は、幸せだった。

 最愛の人を救えることに、罪滅ぼしのような幸福感を覚えていた。


 けれど、それを繰り返すうちに、雪蝶の心は段々とひび割れていった。

 世界を渡ってしまえば、次の蝶は雪蝶のことを知らない。雪蝶は零から全てを説明し、零から関係を築いていかなければならない。そんな当たり前が、少しずつ、少しずつ雪蝶の心を壊していく。


 それに、長い時間を掛けて一人の蝶と深い絆で結ばれたとしても、その蝶は最終的には寿命を終えて死に、死後の世界へと導かれてしまう。〈高位の存在〉が干渉できるのはあくまで生きた人間が存在する〈並行世界〉のみであり、死後の世界とは隔絶されていた。だから雪蝶は、蝶との数多の別れを経験しなくてはならなかった。


 昔は、〈高位の存在〉となれば、蝶との永遠が手に入ると思っていた。

 でも手に入った永遠は、結局のところ仮初めだった。



『――――君もこれから、段々と壊れていくんだ』



 もう何度目かもわからない蝶の葬式を目にしながら、雪蝶はふと昔悪食から言われた言葉を思い出す。


 悪食の言っていた通りだった。蝶に執着することで生まれる心の穴を、雪蝶は一時的な殺戮さつりくという手法によって埋めていた。数多の生命いのちを奪い、芳醇ほうじゅんな血の香りに包まれる時間が愛おしくて堪らない。それはきっと、雪蝶の愛の始まりが血で彩られていたからだった。


 そして、それだけではない。自分では普通に接しているつもりなのに、蝶――特に出会って間もない頃の――を怯えさせてしまうことが、時間経過に比例するように増えていった。そんな思いなんてさせたくないのに、最早雪蝶はどのように振る舞えば蝶を怖がらせずに済むのか、ちっともわからなかった。


〈高位の存在〉が壊れていってしまうのには、様々な理由が存在している。同じような〈並行世界〉に延々と干渉し続けなくてはならないこと、記憶や生命いのちを操ることを許されて人間であれば到底手に入れることのできない強大な力を得てしまったこと、より「高位の存在」である〈神々〉の意見を絶対に受け入れなければならないこと――雪蝶もまた例外なく、そういう影響を受けてはぼろぼろになる。


 自分が「雪」ではなく「雪蝶」になっていくのを、雪蝶はひしひしと感じていた。

 火葬炉で燃えていく蝶の亡骸なきがらを、雪蝶は優しく抱きしめる。


「ごめんなさい、蝶……私はもう……かつての貴女が好いてくれていた私では、ないのです……」


 蝶が段々と灰と骨だけになっていく。閉じられた雪蝶の瞳から涙が滑り落ちて、乾いた骨を微かに濡らした。赤黒い蝶がゆらゆらと舞っている。その幻の虫は、雪蝶の執着の証だった。


 ◇


 雪蝶は、夢を見ていた。

 また、あの夢だ。

 最後の〈階層試練〉。始まりの蝶と過ごした、最後のひととき。




 潮の香りに満ちた世界に、雪と蝶がいる。


『消えてしまえば、初めからいなかったのと同じになる。そうすれば皆悲しまないし、〈高位の存在〉になれば〈神々〉からの愛の証である死にたい気持ちもなくなって、私も楽になれる。……だから私は、〈高位の存在〉になりたかったの』


 儚げな表情を浮かべながら、蝶はまたその言葉を雪へと告げる。


『何でっ……何でそんなこと、しようとするんですかっ……!』


 それを、雪は真っ向から強く否定する。


『嫌ですよ! 蝶がいない世界なんて意味がない! ぜんっぜん、意味がない! そんな世界こそが消えてしまうべきなんです!』




 そう叫んだところで、雪蝶はばっと目を覚ました。


 雪蝶の視界に美しいオーロラが映る。はあ、はあと呼吸を繰り返しながら、雪蝶はオーロラの浮かぶ空を見た。緑色と桃色の光が混ざり合った、神秘的な情景だった。そうしていると、少しずつ心が落ち着いてくる。恐ろしい夢を見てもすぐに現実に引き戻してくれるから、最近は絶景の側で眠るのが好きだった。


 夢があそこで終わってよかったと雪蝶は思う。蝶が自殺する瞬間なんてできることならもう二度と目にしたくない。真っ白な雪が積もった地面に横たわりながら、雪蝶は真っ赤な唇を噛む。



 ――――蝶がいない世界なんて意味がない。



 夢の中で自分が叫んだ言葉を思い出して、ああ、確かにその通りですね、と雪蝶は心の中で呟いた。

 結局のところ、雪蝶の存在している世界にも蝶はいないのだ。雪蝶は〈高位の存在〉で、蝶は人間。だから、歪みが生まれてしまう。雪蝶の愛は膨らみ続けるのに、蝶の愛は膨らんでは萎み零に戻って、また膨らんでの繰り返しだ。

 雪蝶は右腕を顔に乗せ、深く息を吐く。


「…………どうすれば、いいのでしょうか」

「こんな綺麗な場所で悩み事?」


 懐かしい声が聞こえて、雪蝶はばっと上体を起こす。



 悪食が、立っていた。



 彼の黒い髪は、オーロラに照らされて静かにきらめいていた。闇のような瞳の中にもオーロラの光が閉じ込められていて、どこか歪な輝きを放っている。右手に持っているのはフィナンシェのような何かだった。

 雪蝶は忌々いまいましげに悪食を見つめながら、微笑んだ。


「ふふ、何の御用ですか? 私はお前に用事なんてありませんけれど」

「あはは、相変わらず冷たいねえ。久しぶりの再会なんだし、ちょっとくらい喜んでくれてもいいんじゃない?」

「そう仰るのであれば、もっと喜ばれるような存在になってみるのはいかがでしょうか?」


 雪蝶はそう言いながら立ち上がり、浴衣に着いた雪をはらはらと落とす。

 悪食はフィナンシェを食べながら、「あるよ? 雪蝶が喜ぶような話」と微笑んだ。

 雪蝶はいぶかしげに悪食を見据える。


「どうせお前のことですから、喜びを履き違えたような話をしてくるのでしょう?」

「信用がないなあ、全く。まあ、聞いてから判断したらどう? 聞くだけなら別に損はないと思わない?」

「まあ、そうかもしれませんね。下らない話だった場合は、お前を焼けばいいだけですものね」

「怖っ。暴力的な女の子はモテないよ?」

「うふふ、それは好都合ですね……私はただ一人だけに愛されればいいので」


 微笑みながら言う雪蝶に、悪食は「相変わらずで何より」と笑いながら、残りのフィナンシェを口に放り込んだ。


「それで、私が喜ぶような話とは一体何でしょうか? 聞くだけ聞いてさしあげます」

「お、聞く気になってくれたんだ。まあ、立ち話も何だし、ちょっとついてきてよ。久しぶりにデートしよう?」


 笑顔で言う悪食に、雪蝶は微笑みながらいつかのように「は?」と告げた。


 ◇


 悪食に案内されたのは、星空の見えるレストランだった。

 天井がガラス張りになっていて、床には真っ赤なカーペットが敷かれている。照明は夕暮れのような橙色で、店内を儚げに灯していた。


「はい、どうぞ」


 目の前に座っている悪食からメニューを渡されて、雪蝶はそれを受け取ると眺める。



 目玉のソテー(黒色、茶色、青色からお選びください)

 唇のサラダ

 皮膚のオムライス(爪入り)

 胸肉のカレーライス

 もも肉のシチュー

 心臓のアイスクリーム

 血液のワイン(血の濃さを調整可能です)

 胆汁のソーダ



 悪趣味な文字列が紙の上で踊っていて、雪蝶は顔をしかめた。


「……ちなみに、何の動物を使用しているお店かお聞きしても?」

「あはは、人間に決まっているじゃん。で、どれを頼む? 折角だから奢ってあげるよ」

「ふふ、生憎カニバリズムには興味がないのですよ……なので、水で結構です」

「えー、つれないなあ」


 そう言って、悪食は笑う。よく考えるとこいつがまともなレストランに通っている訳がなかったですねと心の中で呟きながら、雪蝶はテーブルの上に置かれている水に口をつけた。変な味がしたが、深くは考えないことにした。


「じゃあ、僕だけ頼んじゃおっと。すみませーん」


 悪食は店員を呼ぶと、黒色の目玉のソテー、胸肉のカレーライス、心臓のアイスクリーム、胆汁のソーダを頼む。ふと雪蝶が店内を見渡せば、ちらほらと〈高位の存在〉の姿が見受けられた。悪食の注文が終わり、店員は一礼すると去っていく。


「ここの人肉、本当に美味しいんだよ? 目玉のソテー、一口あげるから食べてみなよ」

「ふふ、遠慮します」

「変化を怖がる者は成長しないと思うけどなあ」

「うふふ、成長ではなく退化という言葉を使用したらいかがでしょうか?」


 微笑みながら言う雪蝶に、悪食はテーブルに頬杖をつくと、にやりと笑う。


「……少し見ない間に、随分と微笑むようになったね。まるで、あの蝶みたいだ」


 その言葉に、雪蝶は微笑いながら目を細める。



「……汚れた口で、私の蝶のことを語らないでいただけますか?」



 雪蝶から殺気が溢れる。

 数多の赤黒い蝶が、雪蝶の周りを舞っていた。

 悪食は自身の両手を合わせながら、「ごめんごめん」と軽く謝罪してみせる。


「でもさ、雪蝶が喜ぶ話をするには、蝶について触れないといけないんだよ」

「……何故?」

「だって雪蝶が今抱えている悩みって、〈高位の存在〉である君と、人間である蝶の間に生じてしまう、絶対的な隔たりに由来しているものでしょ?」


 雪蝶は目を見開いた。

 どうして、と思う。〈高位の存在〉は人間の記憶には干渉できるが、同じ〈高位の存在〉の記憶には干渉できないはずなのに……


「どうして、って顔してるね。まあ、。一人の人間に執着している〈高位の存在〉が、きまって辿る道だから」


 そう告げて、悪食は用意されている水をとても美味しそうに飲んだ。


「だから僕は、その解決策を提示してあげに来たの」

「……何ですか、その『解決策』というのは?」

「あはは、ようやく興味が湧いてきた?」


 からかうような口振りをする悪食に、雪蝶は「早く仰ったらどうでしょうか」と微笑う。


「急かすねえ。まあ、簡単なことだよ」


 悪食はそこで一拍置いて、真っ直ぐに雪蝶を見つめた。



「――――蝶を、〈高位の存在〉にしてしまえばいいのさ」



 提示された解決策は、確かに余りにも単純だった。

 何も言わないでいる雪蝶へ、悪食はくすくすと笑みを零す。


「〈高位の存在〉は、〈階層試練〉を行うことができる。もっとも、その内容が〈神々〉に認められれば、ではあるけどね。だから君が、蝶を主役にした〈階層試練〉を主催すればいい。成功すれば、蝶は君と同じ〈高位の存在〉となることができて、二人の間に今存在している絶対的な隔たりはなくなる」


 少しの間、雪蝶と悪食の間を沈黙が満たす。

 悪食の頼んだ胆汁のソーダが店員によって運ばれてきて、ことりと音を立ててテーブルに置かれた。

 幸せそうにソーダを啜る悪食の前で、雪蝶がようやく口を開いた。


「……その解決策を、私が一度も考えたことがないと思っているのですか?」

「思っていないよ? だから僕は、雪蝶の背中を押しに来てあげたの」


 笑う悪食に、雪蝶は酷く苦々しげに微笑んだ。


「きっと君は、怖いんでしょ?」


 悪食はまた、ソーダを啜る。


「〈階層試練〉に参加することにも、〈高位の存在〉であり続けることにも、苦痛が伴う。どうせ、蝶にその苦しみを味わわせたくないんでしょ? 君は一見全てが異常なように見えて、ある一部分だけはどうしようもなく正常だ。……それが、君の弱さだよ」


 笑顔の悪食は、どこか呆れているようだった。

 言い返したいと思いながら、雪蝶は何も言い返すことができなかった。

 悪食の言葉は、核心を突いていたから。


〈高位の存在〉となっても、人間だった頃に存在した微かな正常が、雪蝶の中に残り続けている。どれほど他の部分が壊れていっても、そこだけが中々壊れてくれない。まるで、濁り切った海水の中に密やかに眠り続ける真珠の欠片のように。

 雪蝶は、口角を歪めた。


「……それならお前は、私がどうすればいいと思うのですか?」


 告げられた言葉に、悪食はにこやかに笑う。



「受け入れなよ。本当に欲しいものを手に入れるには、多少の犠牲が伴うことを」



 雪蝶は数度の瞬きの後で、「……簡単に言ってくださいますね」と儚げに微笑った。


「だって、簡単なことだからさ。君は恐れすぎているんだよ、蝶の苦痛を」

「誰のせいだと思っているのですか?」

「僕のせいだって言いたいの? 違うね。君から蝶への、大きすぎる愛が一番の要因だ」


 そう告げる悪食の前に、目玉のソテーが置かれる。

 真っ黒な虹彩が蝶のことを思い出させて、雪蝶はソテーから目を背けた。

 悪食はフォークとナイフを使って、端麗な動作でソテーを切り分け始める。


「たった一度、演じるだけでいいんだよ」

「……演じる?」

「そう。〈階層試練〉において、〈高位の存在〉は大抵参加者から嫌われる。だって僕たちは参加者の異常性を遥かに凌ぐほどの異常者だし、そもそも参加者に伝えることができないと定められている情報――まあ例えば、〈神々〉が〈階層試練〉を娯楽にしているとか――があるから疑念を抱かれやすいしね。まあつまり何が言いたいかというと、君は一度だけ、


 そう考えると楽にならない? と悪食は笑う。


「それにさ。〈高位の存在〉でいることは苦しみを伴うけど、〈神々〉に愛されたままの人間も苦しいよ? 〈並行世界〉は数えるのが億劫おっくうになるほどの膨大さだ。今この瞬間にも、数え切れないほどの蝶が苦しみ続けている。でも、一度〈高位の存在〉となってしまえば、全ての蝶は再構成されて、人間の苦しみから解放される」


 悪食は微笑んだ。お皿の上で、目玉は綺麗にばらばらになっていた。


「……どうせ君のことだ、もう数多の蝶を救ってきたんでしょ? それなら、〈高位の存在〉となった蝶が全てを知ったとき、たった一度の悪役なんて微笑みながら許してくれる。そうして君は――本物の、蝶との永遠を手にするんだ」


 話し終えた悪食は、ソテーを口へと運ぶ。

 雪蝶は暫くの間俯いていた。

 悪食のソテーが最後の一口になった頃、雪蝶はようやく顔を上げる。

 今にも泣き出してしまいそうな微笑みを浮かべていた。


「…………それって、とても甘美な響きですね」


 永遠は美しい言葉だと、雪蝶は思う。

 彼女はそっと、赤色の蝶の髪飾りに優しく手を触れた。

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