第五章 花火大会
第12話
週末はちょっと出掛けようとお昼過ぎから連れ出された。
「どこ、行くんですか?」
「内緒」
悪戯っぽく宣利さんが、唇に人差し指を当てる。
おかげで腰砕けになってその場に座り込みそうになった。
表情豊かになった彼は顔がいいせいもあって、こう、……こう。
ちょーっと微笑むだけで周囲の女性だけじゃなく男性も魅了してしまいそうだと自覚してほしい。
今日の街は休日にしても人が多かった。
「なにかあるんですか?」
「え?」
さぞ意外そうに運転しながら宣利さんがちらりと私を見る。
「今日、花火大会があるんだけど、知らない?」
「えっ、あっ」
曖昧に笑って誤魔化した。
そういえば家政婦さんが言っていた……かも。
宣利さんに連れ出されるとき以外、外に出ない生活をしているからなー。
だって、家から一歩も出ないでも、生活できるんだもん。
お散歩も庭が広いから、それで事足りるし。
「花琳」
「はい」
彼の声は呆れるようで、ビシッと姿勢を正してしまう。
「つわりが落ち着いたら、そろそろ外に出ようか」
「……はい」
恥ずかしすぎて穴を掘って埋まりたい。
街で花火大会があるのすら知らないなんて、ヤバすぎる。
とはいえ、セレブの奥様ってなにをしているんだろう
前は……前も資格試験とかの勉強ばっかりしてひきこもり、たまに気分転換でカフェに行くくらいだったな……。
……それにしても花火大会、か。
窓の外、行き交う人々を眺める。
もう夏なのもあって、浴衣の人もたくさんいた。
浴衣は無理でもちょっと行きたかったかも。
ああでも暑い中、半日近くうろうろするのはまた、動きすぎになるよね。
残念。
「少し、歩くか」
「え、いいんですか」
思いがけない提案に、声が弾む。
「ああ。
そのつもりだったし」
宣利さんが港のほうへと車を回す。
そのつもりって本当によくわかっている旦那様で困っちゃう。
近くの駐車場に車を預け、そのへんを散歩する。
港には大きな客船が停泊していた。
あの船から眺める花火はきっと、最高だろう。
「いつかあの船に乗って、花琳と世界一周とか行ってみたいな」
隣に立つ宣利さんが、そっと私の手を握ってくる。
「でも、子供が生まれてある程度、大きくなるまでは無理だよな」
はぁーっと憂鬱そうなため息をつき、彼が促すので歩き出す。
「新婚旅行に行かなかったのが、今になってつくづく悔やまれる」
本当に彼は悔やんでいるようだが、それって私とふたりで旅行に行きたかったってこと……
いやでも、彼が大事なのは子供であって、私は付属品に過ぎないはずだ。
そんなはずはない。
港を望む公園にはたくさんの屋台が出ていた。
私は楽しいけれど、宣利さんはどうなんだろう?
隣を歩く彼をちらりとうかがう。
「ん?」
目のあった彼は不思議そうに私を見下ろした。
「いえ……」
……いいんですか?
とか聞けないし。
こんなところに誘って失敗だったかも……。
「屋台ってちょっと、憧れだったんだよな」
歩きながら私が、人にぶつからないように宣利さんは気遣ってくれた。
「塾の送り迎えをしてくれる車の中から、眺めるだけだったからな。
あれはなんだと尋ねても、倉森の人間が行くようなところではない、ってさ」
おどけるように彼が小さく肩を竦めてみせる。
「だから、来られて嬉しい」
僅かに頬を赤く染め、宣利さんは大きな手で覆うように眼鏡をあげた。
「じゃあ、楽しまないとですね!」
腕を絡ませ、積極的に彼を引っ張って歩き出す。
屋台の定番、たこ焼きとか焼きそばとか食べさせたいけれど、お昼ごはんを済ませて出てきたのが悔やまれる。
「そうだ。
ヨーヨー釣りでもやってみますか」
「いいな」
見えてきた、ヨーヨー釣りの屋台を指す。
金魚はあとのお世話がいるが、ヨーヨーはしばらく楽しめば処分できるからいいだろう。
ふたりでたくさんのヨーヨーが浮かぶプールの前にしゃがむ。
「おじさん、ふたり分」
「えっ、僕が払うよ!」
「いいから」
お金は押し切って私が払った。
宣利さんは下手するとこんなところなのに、一万円札が出てきかねない。
「どっちが先に釣れるか、競争ですよ」
「いいね。
なにを賭ける?」
意外と、宣利さんが乗ってくる。
「そうですね……」
「僕は、花琳からキスしてほしい」
「え?」
思わず、彼の顔を見ていた。
冗談だと思いたいが、彼は笑うばかりで判断がつかない。
「じゃあ、勝負だ!」
「えっ、あっ!」
まだいいともなんともいっていないのに、彼がヨーヨーに向かってこよりについた釣り針を下げていく。
私も焦って、手を動かした。
おかげでぽちゃんと水に浸かり、引っかかったものの途中でこよりが切れてヨーヨーが落ちる。
「僕の勝ちだね」
目を向けると宣利さんが自慢げにヨーヨーを釣り上げていた。
「え、今の、狡いです!」
「狡いもなにも、勝負は勝負だろ」
おじさんにお礼を言って彼が立ち上がるので、私も渋々腰を上げた。
「無効ですよ、無効!」
「あー、あー、聞こえなーい」
完全に彼は私をからかって遊んでいる。
宣利さんってこんなに意地悪だったっけ
「喉乾いてないか
なんか飲むか?」
私は怒っているというのに、彼は笑って話題を変えてきた。
「……かき氷、食べる」
俯いてふて腐れ、握ってきた宣利さんの手を振り払う。
「んー。
これで機嫌直せ」
顔をのぞき込んできた彼は、人混みだというのに一瞬、私と唇を重ねた。
「……人が見てますよ」
顔が熱い。
熱くて熱くて堪らない。
なのに、今度は手を振り払えない。
「別にかまわない」
私の手を引き、彼は歩いていく。
「それでも人前はどうかと思うんですけど」
「そう?」
抗議しながらも口もとが緩む。
私ってこんなにチョロかったっけ?
ううん、チョロくていい。
見つけた、かき氷の屋台の前で宣利さんは足を止めた。
「どれがいい?」
「イチゴ」
「イチゴとブルーハワイ、ください」
今度は私が財布を出すより先に宣利さんが払ってくれたが、懸念したとおり一万円札だった。
そもそも、彼が現金で買い物をしているところを私は今まで見たことがないので、一万円札でも持っているだけ奇跡なのかもしれない。
かき氷を受け取り、立ち並ぶ屋台から少し離れて食べる。
冷たい氷が熱を持つ身体によく染みた。
「けっこう美味しいな」
気に入ったみたいで、にこにこ笑いながら宣利さんはかき氷を食べている。
それはいいがさっきから、彼に向かう視線が鬱陶しい。
そりゃ、こんな高身長でイケメンの男が立っていたら、目を引くのはわかりますよ?
でも、彼は私の旦那様だっていうの。
「ん?」
少しでも彼は私のものだと示そうと、ぴったりと身体を寄せる。
そんな私を宣利さんは怪訝そうに見下ろした。
「ああ」
しかし少し周囲を見渡し、何事かに気づいたらしい。
「花琳」
「はい?」
呼ばれて顔を上げたら、唇が重なった。
「……は?」
瞬間、身体が硬直し、手の中のかき氷が落ちていく。
周囲から、小さく悲鳴の声がいくつも聞こえた。
「あーあ。
汚れちゃったね」
何事もなかったかのように宣利さんはしゃがんで私の足下を拭いているが、さっき私は人前でキスするなと言いましたよね?
言った端からこれですか。
「たーかーとーしーさーんー」
怒りでわなわなと身体が震える。
「だから!
人前でキスするなと先ほど!」
「んー
だって花琳がヤキモチ妬いているみたいだから、僕は花琳のものだってアピールしておいたほうがいいかな、って」
なんでもない顔をして言いながら、彼は私の汚れてしまったワンピースを拭いている。
「で、でも……!」
私の気持ちを見透かされ、ますます顔が熱を持つ。
「これ、落ちないね。
どこかで代わりを買おう」
諦めたのか、ようやく宣利さんが立ち上がる。
「あのさ。
さっきからヤキモチ妬いてる花琳も、恥ずかしくて怒ってる花琳も可愛くて、滅茶苦茶キスしたいんだけど」
そっと耳打ちされ、顔どころか全身が燃えるように熱くなった。
「ここでしていい?」
私の目をレンズ越しに見つめ、その気なのか彼が顎を持ち上げてくる。
妖艶に光る目が私を見ていて、頭の中ではまとまらない考えがぐるぐると回った。
「よ、よくない!」
いっぱいいっぱいになった私は、反射的に宣利さんを突き飛ばしていた。
「残念」
全然そんな様子などなく、彼が歩くように促してくる。
本当にこの人はたちが悪い。
顔がいいとちょっとしたことでもいろいろヤバいんだと自覚してほしい。
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