第9話

「はい」


「もう!

暑い中、いつまで待たす気?」


宣利さんが鍵を開けた途端、待ち切れなかったのか向こう側からドアが開く。


「すみません、姉さん」


入ってきた典子さんに宣利さんは詫びているが、別に数分も待たせていない。


「あら、花琳さん。

いたの?」


嫌らしくにたりと典子さんの目が歪む。

今からどう獲物をいたぶってやろうかというその目に、背筋がぞくりとした。


「……おひさしぶりです、お義姉さん」


緊張しきってギクシャクと頭を下げる。


「私はあなたを義妹だなんて認めてないんだから、お義姉さんなんて呼ばないで。

気持ち悪いわ」


さも穢らわしそうに彼女は私から目を逸らした。


「申し訳ありません、お……典子さん」


屈辱の気持ちで再び頭を下げる。


「……姉さん」


すぐ横から凍えるほど冷たい声が降ってきて、びくりと身体が震えた。


「花琳が気に入らないのなら、すぐに出ていってもらえますか」


おそるおそる見上げた先では、宣利さんが薄らと笑っている。

仏像のようにとても美しいその笑顔は恐怖を抱かせ、身体の芯から凍りつく。

長い指先は出ていけと、ドアを指していた。


「や、やだ。

冗談に決まってるじゃない。

そんなに怒らないでいいでしょ」


慌てて典子さんは取り繕い、勝手にリビングへと進んでいく。

なにかと態度の大きな彼女だが、それでも先ほどの宣利さんは怖かったようだ。


リビングで典子さんは長ソファーに迷いなく座った。

お茶を淹れに行こうとしたら、宣利さんが止める。


「いいから」


「でも……」


お茶も出さなければさらに典子さんに嫌みを言われる。

けれど宣利さんは行かせてくれそうにない。


「座って」


宣利さんが指したのは、ひとり掛けのソファーだった。

戸惑っていたら自分はスツールを引き寄せて座ってしまう。

もうそこしかあいていないので仕方なく、ひとり掛けのソファーに腰掛けた。


「あら。

宣利を差し置いてあなたがそこに座るの?」


すぐに典子さんが意地悪く指摘してくる。

だから嫌だったのに。


「なにを言ってるんですか、姉さん。

花琳は僕の子供を妊娠しているんですから、この家では僕より立場が上ですよ。

そんなこともわからないんですか」


はぁっとこれ見よがしに、呆れたように宣利さんがため息をつく。

おかげであっという間に恥辱で典子さんは顔を真っ赤に染めた。


「それで。

なんの用ですか」


宣利さんの声は素っ気ない。

というか相手をするのが面倒臭そうだ。


「それよりこの家はお茶も出ないの?」


私へちらりと視線を向け、仕返しだとばかりに典子さんがため息をついてみせる。


「あ、あの」


慌てて立ち上がったものの、宣利さんから目で座れと命じられた。


「招かれざる客に出すお茶はないですよ」


それでも迷っていたら、彼がしれっと言い放つ。

典子さんがなにか言おうと口を開いたが、じろりと眼光鋭く睨みつけ、宣利さんは封じてしまった。


「入れてもらえないからと守衛を恫喝して、大騒ぎ。

我が家の恥をさらすわけにはいかないので入れて差し上げましたが今後、こういうのはやめていただきたい」


「宣利!」


激高した典子さんが怒鳴り、空気がビリビリと震える。

私は頭を押さえつけられた気分になって身を縮こまらせたが、宣利さんは真っ直ぐに彼女を見据えていた。


「誰のおかげでこの家の主になれたと思ってるんだ!」


「誰?

少なくともあなたのおかげではないと断言できますね」


唾を飛ばして怒鳴り続ける彼女とは反対に、宣利さんは涼しい顔をしている。


「そんなに大きな声を出さないでいただけますか。

花琳が怯えて可哀想だ」


気遣うようにそっと、宣利さんは私の手を握ってくれた。


「それとも守衛を呼んで摘まみ出してもらいましょうか」


今すぐそうすると言わんばかりに宣利さんが携帯を手に取る。


「わ、わかったわよ」


それで負けを認めたのか、典子さんは急におとなしくなった。


とはいえ、お茶もなくこの変な場を凌ぐのは至難の業に等しく。

それに少しでもこの姉弟喧嘩……になるのかわからないが、とにかくこの喧嘩から離れたい。


「あの。

私、お茶を淹れてきますね」


そろりと腰を浮かせる。


「だから姉さんにお茶なんて出さなくていいから」


しかしすぐに、宣利さんに止められた。


「いえ。

私が喉が渇いたのでついで……というか」


適当に笑って誤魔化し、立ち上がろうとする。


「じゃあ、僕が淹れてくるから花琳は座ってて。

あ、姉さん。

花琳に不快な思いをさせたら、すぐに摘まみ出すからね」


「あっ……」


私が完全に立つよりも早く、宣利さんは立ち上がってキッチンへ行ってしまった。


……き、気まずい。


典子さんは私をよく思っていない。

結婚はお金目当てだと思われていたし、さらに邪魔だと思っている弟の妻だからそうなる。

一族としても会社としても次のグループCEOは宣利さんに期待が集まっているが、典子さんはそれが気に食わないらしい。


「子供ができたからって復縁を迫るなんて、やるわねぇ、あなた」


先ほど宣利さんが言ったことを理解していないのか、ねっとりと絡みつく声で早速典子さんが嫌みを言ってきた。


「いえ、私から復縁を迫ったわけでは……」


「そんなはずないでしょ。

あの宣利が女に興味を持つはずがないもの」


私の訂正はぴしゃりと典子さんに切って落とされる。


「あなた、宣利がまわりからなんて呼ばれてるか知ってるの?」


ひそひそ話でもするように、彼女は私のほうへ身を乗り出してきた。


「……〝ロボット〟」


囁くように言って私と視線をあわせ、彼女が意味深に目を細める。


「そう呼ばれてるのよ」


顔を離し、典子さんはおかしそうにころころと笑った。


「誰にも無関心、ただ命じられるがままにやるだけ。

ほら、ロボットと一緒じゃない?」


認めたくないが、それは少しわかる。

だからこそ食事をサプリメントで済ませたりしていたんじゃないだろうか。


「それに学生時代も卒業してからも、浮いた噂どころか女に見向きもしない。

ゲイなんじゃないかって話もあったけど、男の影もないし」


つまらなそうに典子さんがため息をつく。


「そんな宣利に子供ができた?

ありえない」


腕を広げ、大仰に彼女が肩を竦める。


「ねえ。

本当にその子、宣利の子なの?」


「失礼ですね。

本当に僕の子供ですよ」


そのタイミングで宣利さんが戻ってきた。

お盆の上のカップからはふくよかなコーヒーの香りがする。


「そんな失礼なことを花琳に言うのなら、姉さんの分はなしです」


テーブルの上にふたつだけカップを置き、残りを彼が下げようとする。


「じょ、冗談に決まってるじゃない!」


慌ててひったくるように典子さんがカップを奪う。

それを見てくすりと小さく笑うなんて、宣利さんは性格が悪い。


「カフェインレスだから安心して飲んで」


そっと私に耳打ちし、ちゅっと頬に宣利さんが口付けしてくる。

しかも典子さんをちらりと見てにやりと笑うんだから、やはり性格が悪い。

おかげで彼女は苦々しげに顔を顰めた。


「ちょっと。

カフェインレスなんてマズいもの、飲ませないでよ」


典子さんはカップを口につけるところだったが、わざとらしく音を立ててソーサーに戻した。


「うちはすべて花琳ファーストなんです。

文句があるなら飲まなくてけっこう」


ばっさりと典子さんを切り捨て、宣利さんはさっさとキッチンへ行ってしまった。


「なんなの、アイツ!

花琳、花琳って!」


典子さんはブチ切れているが、さっきからこれだけ馬鹿にされればその気持ちはわかる。


「ねえ。

あなた、アイツになにしたの?」


「さ、さあ……?」


聞かれても、困る。

反対に私のほうこそ聞きたいところだ。


「それで姉さん。

ここへ来た用はなんですか。

まだこの家に未練がおありで、僕に出ていけと?」


すぐに戻ってきた宣利さんは座った途端、口火を切った。


「そりゃ、この家にまだ未練はあるわよ。

次の当主にふさわしいのは私だし、その私がこの家を継ぐのが当然でしょ?

それをお父様もお祖父様も私が女だからって」


わざとらしく典子さんがため息をつく。

当主になれないのは女だからではなくその性格だからでは?

とは思ったが、黙っておこう。


「でも、家の話は一旦、おいておくわ。

私が当主にふさわしいと認められれば、自ずと手に入るんだし。

それまではあなたに預けておいてあ、げ、る」


わざわざ一音ずつ区切り、上から目線で典子さんがにっこりと笑う。

けれど宣利さんはあきらかに面倒くさそうに小さくため息をついただけだった。


「家の話じゃないなら、なんの話です?」


けれど宣利さんはあきらかに面倒くさそうに小さくため息をついただけだった。


「家の話じゃないなら、なんの話です?」


「そこの女の話よ」


ちらりと典子さんが私へ視線を向ける。


「そこの女とはどなたでしょうね?」


「ひっ」


カップをソーサーに戻した宣利さんににっこりと微笑まれ、典子さんが小さく悲鳴を上げる。

が、その気持ちはよくわかった。


「か、花琳さんの話よ」


気持ちを落ち着けたいのか典子さんはカップを持ち上げたが、その手はカタカタと細かく震えていた。

それはいいが、そんなマズいコーヒーは飲まないんじゃなかったんだろうか。

もう忘れているんだろうな。


「倉森の嫁にふさわしくなるように私が教育してあげる」


温かいコーヒーを飲んで幾分、気持ちが落ち着いたのか彼女は自信ありげに微笑んだ。


「ですから。

必要ないと前に申し上げたと思いますが」


理解していないのかと言いたげに宣利さんがため息をつく。

そんなふうに以前、彼に守られていたなんて初めて知った。

それで一度、典子さんからお招きがあったっきり、二度となかったんだ。


「そうね。

でも、前は〝結婚は短い期間だから〟というのがあったけど、今度はそうじゃないわ」


「でも、必要ないですから」


典子さんは果敢に攻めてくるが、宣利さんにはまったく効いていない。


「必要よ。

大おじい様のお葬式のとき、宣利の嫁は酒も注ぎやしないとおじ様たちに不評だったわ。

それで宣利の反対を押し切ってでも、教育しておくべきだったと後悔したの」


頬に手を当て、物憂げに典子さんはため息を吐き出してみせる。

お葬式のとき、陰でそんなふうに言われていたんだ。

それで宣利さんの顔を潰していたのなら、申し訳ないな……。


「花琳は気にしなくていいよ」


宣利さんの手が伸びてきて、私の手を握る。


「そうさせないために僕の傍に置いていたんだから」


「……え?」


意味がわからなくて彼の顔を見上げる。

目のあった彼は慰めるように軽く手をぽんぽんと叩いて離した。


「それこそ余計なお世話ですよ、姉さん。

僕の花琳をあの前時代の遺物たちにキャバ嬢扱いなんてさたくありませんからね」


典子さんに向き直り、宣利さんが真顔で言い放つ。


「宣利、あなた、おじ様たちに対してなんて失礼な……!」


怒りを露わにし、典子さんは軽くテーブルを叩いた。


「失礼もなにも。

ああいう考えは改めてもらわねば困るといつも言っているのに、全然聞いてくださらないじゃないですか。

おかげでいくつも苦情が上がってきていますし、危うく訴訟に発展しそうになったのはお忘れですか」


「うっ」


宣利さんの指摘で典子さんは喉を詰まらせた。

宣利さんの言い分はわかる。

前に勤めていた会社にも「これくらい軽いスキンシップだろ」とか言ってお尻を叩いてくる役員とかいたもの。


「とにかく。

花琳に嫁教育とか不要です。

話はこれで終わりですか?

ではお引き取りを」


宣利さんは立ち上がり、典子さんを変えるように促そうとしたが。


「お父様とお母様の許可は取っているわ!」


「……え?」


さすがにそれは想定外だったみたいで、宣利さんが固まった。


「父さんと母さんが許可を?」


「そうよ」


ふふんと得意げに鼻を鳴らし、勝ち誇ったように典子さんが笑う。


「私に一任くださったわ」


「……はぁーっ」


額に長い指を当て、痛そうに宣利さんは何度か頭を振った。


「……あなたはまた、父さんたちを脅したんですね」


脅したとはいったいどういうことか一瞬考えたが、すぐに合点がいった。

倉森のご両親はよくいえば優しい人たちだが、悪くいえば気が弱いのだ。

それで典子さんから強引に押し切られたのだろう。


「脅したなんて人聞きの悪い。

快く賛成していただいたわ」


涼しい顔で典子さんはカップを口に運んだが、空だと気づいたのかテーブルに戻した。

しかし先ほど、宣利さんが〝また〟と言っていたのからして、しょっちゅうこうやって自分の意志を押し通しているのだろう。


「僕としてはあなたに花琳を関わらせるのは非常に嫌だし、胎教に悪いので避けたいのですが……」


「なによ、酷いわね」


典子さんは不本意みたいだが、これまでの会話を聞いていた人間なら宣利さんに大賛成するに違いない。


「父さんと母さんの顔は立てないといけませんからね。

そんなわけで、花琳。

僕としては大変不本意だし、本当に嫌なんだけど、姉さんから嫁教育とやらを受けてもらえるかな?」


完全に困り切った顔で宣利さんは私を見ている。

こんな顔をされて嫌なんて言えるわけがない。


「わかりました、いいですよ」


内心は不安しかないけれど、できるだけ安心させるように笑って答えた。


「ありがとう、花琳」


ちゅっと軽く、感謝を伝えるように額へ彼が口付けを落とす。

本当は典子さんのところで嫁教育を受けるなんて嫌だ。

けれど今までの会話で宣利さんが私を凄く守ってくれようとしているのはわかった。

だったら、彼が両親の顔を立てるために苦渋の決断をしたように、私も彼の顔を立てるために承知しよう。


「じゃあ、決まりね。

また追って連絡するわ」


自分の要望が通り、典子さんは満足げな顔で帰っていった。

面倒なことになったとは思うが、仕方ない。

でも私はまだ、知らなかったのだ。

これが地獄の始まりだって。


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