第一章 短い結婚生活
第2話
それは、突然やってきた。
「
結婚してくれ!」
仕事が終わり家に帰ってきて、ドアを開けた途端にいきなり父が土下座する。
「……は?」
おかげで理解が追いつかず、間抜けな一音を発して固まった。
「お前には悪いと思っている。
でも、従業員のためなんだ。
頼む、結婚してくれ!」
娘相手に父が、再び床に額を擦りつける。
結婚してくれとは誰と?
「えっと……。
お父さんと?」
「違う!
『
めっちゃ否定されたけれど、あの言いようでは誤解されても仕方ないのでは?
まあでも、冷静に考えれば父親と結婚とかないよね。
しかし私はそこまで、混乱しているのだ。
「なんで私が、TAIGAの御曹司と?」
TAIGAといえば日本どころか世界有数の自動車企業だ。
あまりに巨大な企業が故に、本社工場のある一帯はTAIGAにちなんで大河たいが市などと名前を変えたくらい。
そんな企業の御曹司と、たかが外食チェーンの娘が結婚だなんて考えられない。
「それは……」
「もう!
お父さんも花琳ちゃんもそんなところで話さなくてもいいじゃない」
奥から出てきた母が、おかしそうにころころと笑う。
確かに私はまだ靴を履いて突っ立ったまま、父は玄関マットの上に正座なんて状態でする話ではないだろう。
「ほら、さっさと上がって。
お腹空いてるでしょ?
先にごはんにしちゃいなさい」
「えっ、あっ」
やっと上がり框を上がった私の背中を、母が押していく。
「今日は花琳ちゃんが好きなロールキャベツよ。
チーズのせて焼いておくから、早く着替えてきてねー」
「あっ、うん」
強引に見送られ、自分の部屋へと行った。
いつも空気の読めない母だがこれで一旦、冷静になる時間ができた。
グッジョブだ。
着替えながら少ない情報から状況を整理する。
相手はあのTAIGAの御曹司で、父は従業員のためだと言っていた。
「従業員のため……?」
そこで、なんとなく状況が見えてきた。
きっと会社を立て直すためだ。
だったら、受けてもいい。
いや、父の、会社のためになるんなら、ふたつ返事で引き受けたいくらいだ。
詳しい話を聞いてから、だが。
父が社長をしている外食チェーン『エールタンジュ』グループは戦後、今は亡き曾祖父がおこなった炊き出しから出発している。
当時、我が家は炭鉱経営を核とする財閥家だった。
しかし曾祖父は食うや食わずの人々に心を痛め、私財を投げ打って炊き出しをおこなう。
人々を笑顔にしたい。
その一心だった。
その後、時代の流れで炭鉱も閉鎖し、僅かばかり残った財で曾祖父は食堂を始める。
そこから順調に会社は成長し、今では外食産業でも中核どころになっていた。
それでも曾祖父の理念、「人々をお腹いっぱいにして笑顔にしたい」は受け継がれ、今でも月二回のホームレスの炊き出しや、子ども食堂の支援などおこなっている。
私はそんな会社を誇りに思っていたし、曾祖父の理念を受け継ぐ父を尊敬していた。
しかしここ数年、物価高などで経営が悪化してかなり逼迫した状況なのは知っていた。
私になにかできないか考えていたところだったので、結婚もありだ。
ダイニングへ行くと美味しそうな匂いがしていた。
「もうできるからー」
「ありがとー」
自分でご飯をよそい、席に着く。
「おまたせー」
少しして母が、目の前にあつあつのロールキャベツを置いてくれた。
トマトで煮込んだロールキャベツにチーズをかけて焼いたのは私の大好物だ。
「それでお父さん、さっきの話の続きだけどさ」
「お前、こんな大事な話を食べながら……」
声をかけるとリビングでタブレットを睨んでいた父は渋い顔になった。
「こんな話だからごはん食べながらでもないと聞けないって」
「はぁーっ」
大きなため息をついてかけていた老眼鏡を外してテーブルの上に置き、父はダイニングにいる私の前に座った。
「TAIGAを経営している倉森さんから、うちに話がきたんだ。
お宅のお嬢さんを嫁に迎えたい、話を呑んでくれるなら会社を立て直すだけの融資を約束する、とな」
立て直しが交換条件なのは予想どおりだった。
しかし、私ごときを嫁にもらいたいなどやはり理解できない。
「でも、なんで私なの?
悪いけどうちごときと倉森家では釣りあわない」
「それは……。
うちが元、財閥家だからだそうだ」
「……は?」
よくわからないことを言われ、口に運びかけたスプーンが止まる。
おかげで掬ったロールキャベツがするりと落ちていった。
「えーっと。
お父さん?
もう一回、言ってくれる?」
「だから。
うちが元、財閥家だからだそうだ」
聞き直せばなにか変わるかと思ったが、一言一句なにも変わらなかった。
うちが元財閥家だから?
なんだその理由は。
「わるいけど、元財閥家っていったってもう影も形もないよ?」
「そうだな」
父が、母の淹れてくれたお茶を飲む。
「なのにそんな理由で私が嫁に欲しいと?」
「そうだ」
父は頷いたが、やはりまったく理解ができない。
「なんで?」
「俺も知らん」
いや、父よ。
自分も理由を知らずに我が娘を嫁がせようとしているのか?
「とにかく週末、一度、会って話をしようってことになってる。
いいか」
「いいよ」
父の会社のために結婚するのはやぶさかでもない。
しかし、ジャッジを下すのは話を聞いてからでもいいだろう。
こうして週末、当事者である倉森宣利さんとそのご両親に会ったのだけれど、私を嫁にもらいたい理由はさらに衝撃的だった。
「その。
我が社は私の祖父である
場所はホテルのレストランの個室、食事をしながら話そうとのことだが、実質お見合いだ。
向こうのほうが立場が上なのに、なぜが父親が申し訳なさそうに説明してくれる。
「祖父はその、自分は成り上がり者で、いくら会社が立派になったところで一流にはなれないと卑屈になっておりまして。
一族に上流階級の血を入れねば、と」
父親は完全に恥じ入っているが、その気持ちはわかる。
私だって、あれ? 今って昭和も戦前だったっけ? とか思ったもん。
「それで相手を探しまして、そちらの花琳さんに白羽の矢が立った次第です」
状況は理解したが、まだ謎が残る。
「あのー」
おそるおそる手を上げたら、視線が集中した。
一瞬怯んだが、かまわずに続ける。
「だったら元華族の方とか、財閥でも
うちは十五財閥に名を連ねていたが、それでもかろうじてだと聞いていた。
しかも、もう影も形もない。
上級階級の血を入れたいのなら、四大財閥で戦後解体されたとはいえ、今でも権勢を誇っている家のほうがいいんじゃないだろうか。
「そのー」
なにやら先ほどよりもさらに言いにくそうに父親が口を濁す。
なかなか言わない彼に痺れを切らしたのか、宣利さんが口を開いた。
「私から説明します。
そういう卑屈な曾祖父ですので、上流階級の血を入れたいと言いながら、相手にしてもらえると思ってないんですよ」
父親とは違い、宣利さんははっきりとものを言う。
「それで失礼ながら、もう落ちぶれているそちらの家なら金の力でなんとでもできると思ったのです」
その理由は非常に腹立たしく、カチンときた。
父の会社のためなら結婚してもいいと思っていたが、こんな考えの家に嫁いだって先が思いやられる。
「私自身はこんな老人の妄執による戯言に付き合う必要はないと思っています」
きっぱりと宣利さんが言い切り、ついその顔を見ていた。
賛成だからこそ、ここの場にいるのだと思っていた。
「しかし今、我が社が、当家があるのは曾祖父のおかげです。
感謝も込めてあと僅かな命の曾祖父の、最後の願いを叶え、気持ちよくあの世に旅立ってもらいたい。
そのために失礼を承知でお願いに上がりました」
真っ直ぐに彼が私たちを見る。
レンズの向こうの瞳はどこまでも真剣だった。
「無理を承知でお願いいたします。
どうか私と、結婚してください」
綺麗な角度で宣利さんがお辞儀をする。
それを半ば気圧され気味に見ていた。
理由はいまどきそんな人間がいるんだと驚くものだったし、下に見られているのも腹が立った。
けれど少なくとも宣利さんはバカらしいと思っているようだし、曾祖父を思う気持ちは理解はできる。
だったら。
「結婚したら父の会社を救ってくださると約束してくれますか」
「はい。
十分な融資をおこなわせていただきますし、事業縮小で出る解雇者はできうる限り我が社で引き受けます。
これは口約束ではなく、のちほど正式に書面にいたします」
真面目に宣利さんが頷き、同意だと父親も頷く。
懸念材料がないとはいえないが、それでもこれで一番の心配事は解決しそうだ。
「わかりました。
この結婚、お受けいたします」
倉森家の面々に向かって頭を下げる。
こうして、私たちの結婚が決まった。
帰りの車の中で父に感謝された。
「お前にはすまないことをしたと思っている。
でも、これで従業員が救われる。
ありがとう」
「やだな、お父さん。
これって玉の輿だし、それに宣利さんかなりのイケメンだったから返ってラッキーだよ」
湿っぽくなりそうな空気を笑って吹き飛ばす。
無意識だろうが今日もこのあいだも父は〝会社〟ではなく〝従業員〟と言った。
会社ではなく働く人ファーストな父が誇らしい。
だからこそ、この結婚を決めたのだ。
こうして私は二十五になってすぐ、結婚を決めた。
結婚が決まってすぐの打ち合わせで、宣利さんに言われた。
「曾祖父が亡くなったら離婚する。
君もそのつもりで」
「……ハイ?」
話があると来たカフェ、紅茶を飲みながら首が斜めに傾く。
「曾祖父のためとはいえ僕にとってこの結婚は不本意だし、君もそうだろう?」
「そう……ですね」
お見合いの席で薄々思っていたが、宣利さんは思ったことをはっきりと言うタイプらしい。
「元凶である曾祖父が亡くなれば別れてもなんの問題もなくなる。
だから、祖父が亡くなったら離婚する。
わかったな」
銀縁眼鏡の向こうから、彼が冷たく私を見る。
「わかり、ました」
反対するどころか渡りに船なので頷いた。
しかし、それほどまでにこの結婚は彼にとって不本意なんだ。
短いあいだとはいえ、結婚生活は前途多難そうだな……。
その後、結婚の話はとんとん拍子に進んでいった。
ちょいちょい、私たちの結婚を押した倉森の曾祖父が口を挟んでくるが、苦笑いで流す。
一度、お見舞いに行ったが、ベッドの上で寝たきりになっていた。
まあ、百歳を過ぎればそうなってもおかしくない。
「宣利さんと結婚する、
よろしくお願いします」
「……ふん」
曾祖父は挨拶をした私を一瞥だけして、すぐにそっぽを向いてしまった。
……いや、あなたに望まれたから結婚するんですが?
笑顔が引き攣らないか気を遣う。
「……あの人はいつもああなんだ。
気にするな」
こっそり宣利さんが耳打ちしてくれたが、それでも少し、傷ついた。
結婚式は贅を尽くした絢爛豪華なものだったが、酷く素っ気なかった。
周囲は私たちが政略結婚だと知っているので、仕方ない。
それでもうちの両親はもちろん、倉森のご両親も私を気遣ってくれて嬉しかった。
――ただ。
「……お金目当て」
宣利さんの姉、
披露宴で隣に座る宣利さんをちらり。
結婚式でもそうだったが、にこりとも笑わない。
おかげで誓いのキスはマネキンとでもしているようで、乗り切れた。
この結婚が彼にとっても不本意なものなのはもう承知しているが、一応結婚式なんだから少しくらい笑ったっていいんじゃない?
……などと形ばかりの祝辞を聞きながら心の中で愚痴ってみる。
「なにか?」
スピーチが終わり、拍手が途絶えたタイミングで宣利さんが視線に気づいたのかこちらを見た。
「い、いえ!」
瞬間、目を逸らしてビシッと姿勢を正していた。
かけている銀縁眼鏡と相まって彼の冷たい視線は凍えるようだ。
そうか、これからはこれに付き合っていかなきゃいけないのか……。
いまさらながら、結婚を後悔した。
でも、まあ、そんなに長い期間ではないと言っていたし、我慢しよう。
披露宴のあとはそれらしく、そのまま会場だったホテルに泊まった。
ちなみに、新婚旅行は省略だ。
行ったところでこんな宣利さんとふたりっきりなんて耐えられないので、よかったと思う。
ベッドに座り、隣のベッドを睨む。
……〝夜〟はどうするんだろう?
形だけの結婚だから、初夜とかない気がする。
いやしかし、相手は仮にも男なんだし、くだんの曾祖父からは跡取りを早くと望まれていた。
もう処女でもないし、義務だと思えば割り切れる……かな?
しかしそんな私の気持ちを知らず、あとからやってきた宣利さんはさっさとベッドに入って眼鏡を置き、布団に潜って目を閉じた。
「あ、えと」
しないのかと聞くのもあれだし、聞くと催促しているようで言い出しにくい。
「なんだ?」
不満そうに彼の目が開く。
「その」
私が言いたいことをなかなか言わないからか、彼は若干苛ついているように見えた。
「ああ」
それでもすぐに察してくれたらしい。
「僕は君を抱かない。
どうせすぐに離婚するんだからな。
じゃあ、僕は寝る。
邪魔をしないでくれ」
再び彼は体勢を整え、目を閉じた。
「あ、はい。
おやすみな、さい」
気が抜けてすぐに寝息を立てだした宣利さんを見ていた。
……しないんだ。
しないのならしないほうがいい。
私だって好きでもない人間に抱かれるなんて嫌だし。
それでももしかして私は女として魅力がないんじゃないかと少し、落ち込んだ。
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