第28話
そこは、らんかが寝泊まりしていた寝所だった。けれど調度品は、新調したばかひのように綺麗だった。
「樹蘭!」
そして、天蓋付きの大きな寝台に、樹蘭が腰を下ろしていた。寝着を身にまとい、笑顔はなく、冷たい表情で床の一点を見つめている。
(あの衣は、確か初夜の……)
孫雁は寝台に座る樹蘭の名前を呼びかけるが、彼女の耳には届かない。
「これは一体、どういうことだ?」
「恐らく、鏡の力で樹蘭様の記憶を見せられているんだと思います。以前鏡を陛下に見せていただいたときもそうでした」
あのときは、意識だけが鏡に吸い込まれたのだが、全く同じ状況を見せられたのを覚えている。
すると、まだ年若い孫雁が入室し、樹蘭に愛を囁きかける。
だが彼女は孫雁に対して、「妾はあなたを愛しておりません」とばっさり斬り捨て、孫雁が落胆した様子で部屋を出て行った。
(これも、前と同じだわ)
前回この記憶を見たとき、らんかは孫雁の背中を追いかけて行ったため、樹蘭のその後の様子は知らない。
場面が切り替わるような気配もなく、寝台に座った樹蘭が俯いたままの静止画が続く。
その姿を見ていると、しばらくして樹蘭の顔が険しくなり始めた。固く引き結んだ唇が震え出したかと思えば、瞳から雫がぽたり、ぽたりと落ちて、彼女の膝の上の手の甲を濡らしていく。
「申し訳……ありませぬ……。申し訳、ありませぬ。申し訳……っ」
人前で一切笑わず、隙を見せなかった悪女の涙に、らんかと孫雁は思わず顔を見合わせる。
そしてそこに、まだ若い凛凛が寝所の扉を開け放つ。彼女は泣いている主人を見て動揺し、慌てて駆け寄る。
「樹蘭様……!? お泣きになってどうなさったのです? 今夜は後宮での初めての夜でしょう。陛下とお過ごしにはならないのですか?」
「陛下の前で、笑顔を作ることができなかった。妾の心はとうとう……壊れてしまったらしい」
「それはきっと、可愛がっておられた猫を殺されてで精神的に落ち込んでいるせいです。周家を恨む方は多いですが、樹蘭様のように清廉な方ならばきっといつかは、受け入れてもらえるはずです」
「中傷の言葉が届く度、手が震え、吐き気がし、息さえ苦しくなる。妾はそれらを耐え忍べるほど……強くはないのだ」
「樹蘭様……っ」
弱々しい声を絞り出した樹蘭の手を、凛凛がそっと上から包み込むように握る。
「近ごろ……自分の心が、まるで自分のものではないように思い通りにいかぬ。怒りたくもないのに瞬間沸騰するように苛立ち、何もないのに涙が出るほどに悲しくなり……。海の荒波がせめぎ合うように、感情の起伏が激しくなった」
また、常に心が不安感や恐怖心に支配され、時々『お前を殺す』と囁く声が聞こえるようになった。
そして、怒りに任せて思ってもいない言葉で人を傷つけてしまったり、身体が勝手に動いてしまうのだと吐露する。
「皆が言うように、今の妾はまるで――悪女だな」
「そのようなことはございません! へ、陛下に相談いたしましょう。そうすれば何か、良きように計らってくださるはずです」
「その必要はない。そもそも妾は皇后にふさわしくはないのだ。だからいずれ、廃位されるのを待つつもりでいる」
それが、悪女と呼ばれることを甘んじて受け入れた理由なのだと理解した。
「よろしいのですか……? 樹蘭様は陛下のことをお慕いしていらるのに」
「妾はあのお方の足でまといになる存在だ。寵愛を受けようなどと思うのはおこがましいこと。それに……妾にお心をかけていては、とても後宮を追放できぬだろう」
孫雁の寵愛を拒み続ければ、彼の心も離れていき、やがて後宮から追い出すと思ったのだろう。
隣に立っている孫雁は、ぎゅっと拳を強く握り締めていた。らんかは彼のことが心配になり、腕にそっと触れた。
「すまぬが、いつもの薬を用意してくれ。心を鎮めたい」
「かしこまりました」
部屋を出て行く凛凛。
そのあと一瞬、らんかは樹蘭と目が合ったような気がしたが、すぐに場面が切り替わった。
◇◇◇
次もまた、樹蘭の寝所だった。彼女の手には、孫雁の贈り物の壊れた髪飾りが握られている。
そして彼女は、遺体と同じ衣裳を身にまとっており、これが死の夜なのではないかと推測できた。なぜなら、彼女の首には薄桃色の羽衣がくるりと巻かれており、病的なほどに、彼女の表情が暗く冷めていたから。初夜のときよりもずっと。
樹蘭の涙が髪飾りに落ちた刹那、まるで陶器が床に落ちて破片が散るように、樹蘭は光の粒になって離散した。
らんかと孫雁は、ただ絶句して立ち尽くしていた。すると今度は最初の暗闇に戻っていた。
ふたりの目の前に、樹蘭本人が立っていた。
ここまで見せられてきた回想では、終始暗い顔をしていたが、たった今目の前に立っている彼女は、とても穏やかで、優しい顔をしていた。
「――孫雁様」
樹蘭がそっと呼びかけると、孫雁は悲しそうに眉をひそめる。
「すまなかった。私が至らないばかりに、お前が追い詰められていることに気づいてやれなかった。全て私のせいだ」
「どうか、お謝りにならないでくださいませ。妾はただ、弱く、あなたのお傍にいるには未熟だっただけでございます。ゆえに妾は、大変な修行をして再びあなたの元へ参ったのですよ。――宮瀬らんか」
突然名前を呼ばれて、首を傾げるらんか。樹蘭はそっとこちらに歩んできて、らんかの両手を取った。
彼女の手はとても冷たかった。それに、首には痛々しい圧迫痕が残っている。
「なぜそなたが、操魂の術で召還されたか、まだ分からぬか?」
ふるふると首を横に振るらんか。
「――思い出すのだ」
樹蘭につんと額に指先で触れられた瞬間、走馬灯のように樹蘭の人生の記憶が映像として流れて消えた。
何となくどれも、既視感があるというか、自分が経験したことがあるような気がした。
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