九話 過去の記憶

第10話

墨汁を垂らしたような真っ暗な夜空。

 日本にいたころは、街の灯りが邪魔して隠れていた星々の真の煌めきがそこにある。


「……綺麗。……手が届きそう……」


 日本にいたころより、星が近くに感じる。らんかは暗い夜の空にぐっと手を伸ばした。

 手すりに手を乗せて、そっと瞼を閉じる。絹素材の贅沢な白の寝間着が風に揺らいだ。


 らんかは血色が良く程よい膨らみの唇で呟いた。


「お父さん……」



 ◇◇◇



 らんかは、国民的女優だった。

 子役時代から数多くのドラマやCMに出演し、高校生になって恋愛映画の主演に抜擢され、子役から女優への転換に成功した。


 父は優しい人だった。らんかの芸能活動を手放しでいつも応援してくれていたし、目に入れても痛くないくらいに可愛がってくれた。


「らんかの肩揉みは上手いなぁ。プロになれるぞ」

「本当? それじゃ、女優から転職しようかな」


 父はらんかを叱るようなことはなく、どんならんかの一面も肯定し、寛容で優しい人だった。

 父が大企業に務めていたため、経済的にも恵まれた家庭で育ってきた。母は子育てにも抜かりはなく教育熱心で、らんかは幼少のころか無為の時間を持て余すことなく、ピアノ、バレエにダンス、声楽といった習い事をした。

 

 高校に上がって女優として芸能活動に勤しんでいたころ、父が変貌していった。

 いつも温和だった彼が、感情の起伏が激しくなり、突然癇癪を起こしたり、普通ではないくらいに気分が落ち込んだりを繰り返していた。

 それまでになかった散財癖がつき、突然不動産を購入したり、興味もなかった株に手を出して巨額の借金をこしらえた。それだけではない。猜疑心が強くなり、幻覚や幻聴の症状にも悩まされるようになって、見えない何かに怯え出した。


「俺は監視されている……! 盗聴器とカメラを早く探してくれ! 早く……!」

「監視!? そんなこと誰もしてないよ。ここには私しかいないから、大丈夫だよ」

「怖い、誰かが俺を殺そうとしてるんだ、怖い、助けてくれ……っ」

「お父さん……」


 父の変化にらんかと母は困惑した。父を精神科に連れて行くと、長ったらしい病名がいくつか付けられた。原因は仕事のストレスだったのだが、責任感が強い彼は、頑なに仕事を辞めようとはしなかった。


 冬のみぎり。雪が降る寒い日。ドラマの撮影中のらんかの元に、母から電話が掛かってきた。


「らんか……っ。どうしよう……お父さんが……っ! お父さんが家で倒れていて……」

「…………え?」

「早く来て。らんか! とにかく早く……病院に、早く……っ」


 電話越しで、母が泣いているのが分かった。後にも先にも、こんな母の動揺した声を聞いたのは、このときの一度だ。

 らんかはこの一通の電話で、人生における絶望を初めて思い知った。


「分かった。すぐに行くから。お母さん、落ち着いて? 急いで行くから……。どこの病院? ……うん。東病院ね。うん……また後で」


 あまりにも衝撃的な出来事たった。通話を切り、らんかは真っ黒なスマートフォンの画面を眺めながらしばらく放心していた。全身から血の気が引き、頭が真っ白になる。

 自分がどこに立っているのかもよく分からなかった。

 誰かに許可を取るわけでもなく、仕事を放り出して撮影スタジオを飛び出していた。


 当時のらんかはすでにに世間での知名度は高く、街中を歩いているとそれだけで注目を集めた。


(どうしよう……マスク忘れちゃった……)


 休日ということもあり、あっという間にらんかの周りに人集りができる。


「宮瀬らんかさんですよね!?」

「え!? 本物だ! 俺超好きなんだけど! やば、顔ちっさ! 人形みたいだわ」

「きゃあっ、超可愛い! 早くスマホ! インスタのストーリー上げよ!」

「らんかちゃん握手してください! いつも応援してます!」


 悲鳴に近いような歓声も、掛けられる言葉も、らんかの耳も通り抜けていく。

 大勢のファンに囲まれ、行く手を阻まれて立ち往生。らんかはこのとき、正常に思考できる精神状態ではなかった。

 らんかは、その場に力なくへたり混んだ。


「お父さん……」


 父との思い出が、頭の中を巡っていく。

 らんかが病院に着いたとき、父はすでに息を引き取っていた。



 ◇◇◇



 数日後。らんかは淑妃、楊 麗明が暮らす東之宮へと足を運ぶことにした。按摩師のふりをして。


 内之宮の宮殿の私室、鏡台の前。

 服の内側に布を入れて中肉体型にし、按摩師の装いをする。そして、瞼や目の下に陰を、額や口角に皺を描き込んでいく。眉毛には白髪を混ぜて、毛を逆立てた。

 らんかが化粧を施す様子を見て、凛凛がその技量を感心した様子で見ていた。


「今の私、いくつに見える?」

「そ、そうですね……。五十代ほどに見えます」


 らんかは鏡台を眺めながら、満足気に口角を上げる。


「我ながら、完璧な仕上がりね」

「あの……その格好は一体……」

「按摩師よ。それもただの按摩師じゃない。――皇族に頼られるほど、街で評判の按摩師」

「はぁ……」


 凛凛はいぶかしげに眉を寄せた。

 これから会う麗明は、男勝りで、刺繍や楽器よりも、弓や剣といった武芸を好む女性だ。近ごろは鷹狩りによく出かけているとか。


(武芸を嗜むってことは、力が強いってことよね。だとしたら、抵抗する樹蘭様の首を絞め殺すことも容易いはず。怪しいわ! めちゃくちゃ怪しい!)


 らんかは腕を組みながらうんうんと頷く。

 そして、腰痛持ちで、慢性的な凝りに悩まされている。

 妃の身体に触れるということで、熟練の女性の按摩師として、孫雁の仲介で行くことになった。すでに彼に根回しはしてもらっており、彼が雇った按摩師の講師に三日間やり方をみっちり教えてもらった。


(麗明様は武術の達人みたいだし、絶対に皇后だと知られないようにしなきゃ。もし変装がバレて怒らせでもしたら――ひっ)


 剣ですぱっと首を跳ねられる図が頭に思い浮かび、背筋に冷たいものが流れる。

 顔面蒼白になりながら、両腕で身体を守るように抱いた。


 絶対に正体を悟られないように気をつけ、麗明から話を聞き出さなくては。そう決心しながら、仕上げの白粉を肌に叩きつける。


「――よし。完成」


 親しみのある、中年の按摩師が完成した。らんかはそっと刷子はけを置いた。

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