七話 捨てられた髪飾り

第8話

西之宮を訪ねたその夜、探し物をするために、政務を行う本殿へと足を運んだ。らんかが召喚されたのは確か、孫雁の執務室だったはず。


(執務室に行けば――まだあの鏡が置いてあるかもしれない)


 この世界に呼び出されたとき、らんかの目の前に不思議な鏡が現れた。

 鏡に吸い込まれて、気がついたら召喚されていたのだが、鏡を直接調べれば帰る方法が何か分かるかもしれない。


「それで、あのときは――」

「――はは、それは誠に災難であったな」


 本殿は大勢の人の出入りがある。付き人もなく皇后がふらふらと出歩いていたら大騒ぎになるので、宦官の格好のまま来た。

 しかし、麗しい謎の宦官が孫雁の執務室に侵入していることが、まかり間違っても本人の耳に入らないように、できるだけ姿を見られないように気をつける。孫雁はすぐに宦官とらんかを結び付けるだろうから。


 官吏たちが廊下で立ち話をしていたので、角に隠れて去るのを待った。早くどこかへ行かないかと思いながら話を盗み聞きしていると、ひとりの男の口から、樹蘭の話題が出た。


「例の事件で、皇后陛下は体調を崩し、伏せっていらっしゃるそうだ」

「監察医が誤診したということは、ほとんど瀕死の重症だったのだろう? それに胸を七箇所も刺されたのだ。回復までしばらくかかるだろうな」

「夜中の奇声がぴたりと止まったと女官が喜んでいたよ。少し前までは、癇癪を起こすと朝まで激しく暴れることもあったらしいが。いつまた始まるか分からんがね」


 ふたりはそうして噂してから、その場を離れて行った。隠れていたらんかは、そっと影から出る。今彼らが話していた内容は、凛凛から聞いたことがない話だった。


(夜中の奇声に、朝まで大暴れ……? そんな話、聞いてないわ。本物の樹蘭と私に矛盾が起きちゃうじゃない)


 それにしても、何に腹を立てたのか、夜中に発狂するとは本物の悪女はやはり格が違う。らんかは手を顎に添えながら、今後の演技の参考にしようと考えた。



 ◇◇◇



 孫雁の執務室に到着し、格子戸をほんの少しだけ開けて中を覗き見る。


(誰もいない)


 よかった、これでこっそりあの鏡を探せる。無駄足にならずに済んでよかったと安堵しつつ部屋の中に足を踏み入れる。


 いかにも高級感のある調度品が配置された、厳かな雰囲気の部屋。

 らんかがここに操魂の術で召喚されたときには、白い布で覆われていた祭壇が鎮座していたが、今はその代わりに品のいい文机が置かれている。


 らんかは文机のところまで行って、座椅子を退かし、引き出しを引いた。紙や筆といった文字を書くための道具がしまってあるだけで、取り立てて怪しいものはない。

 三段の引き出しを全て確認してみたが、仕事に使うものしか見つからなかった。引き出しを閉めて、座椅子の位置も元通りにする。


 次に目に留まったのは、格子造りの円型の飾棚。緻密な模様が描かれた壺に菊が活けられており、その横の区切られた場所に分厚い書物が並んでいる。その上の段には、小さめの鏡が。らんかはそらを手に取って肩を落とした。

 この鏡は、操魂の術で使われたものと明らかに別のものだ。片手で拳を作って、こんこんと叩いてみるが、反応はない。上にかざしたり、下にかざしたり、角度を変えながら観察してみるが、やはり反応はない。


「なんだ、これはただの鏡ね」


 なんの変哲もないことにがっかりしたあと、鏡面に付いた指紋を袖口で拭き、また元の場所に置く。ことんっと物音が立ち、誰かが気づいていないかと慌てて辺りを見渡し、肩を竦める。


(……まるでこそ泥の気分)


 そして今度は、並んでいる本をひとつひとつ手に取って、頁をめくって確認する。

 術にまつわる情報が得られればと思ったが、仕事関係の資料ばかりだった。


 不自然に膨らんでいる書を見つけて引っ張り出してみたら、中から何かが落ちて床に転がった。


 きん……という金属が部屋の中に響き渡る。落ちたものをひょいと拾い上げれば、それは女物の髪飾り――の半分だった。どこかで落としたのか、半分が欠けている。

 金の台座に大きな紅玉が嵌っていて、細かな装飾が施されている。また、雫の形の小さな紅玉がいくつも垂れ下がっていて、ちらちらと揺れながら繊細な輝きを放つ。


「綺麗……」


 見事な一品に、思わず感動を口にしたそのときだった。


「――そこで何をしている?」

「……!」

「どうやら私の執務室にが入ったようだな」


 すぐ背後で、聞き覚えがある声がした。肩をびくと跳ねさせ、恐る恐る振り返ると、孫雁が怖い顔をしてこちらを見ていた。


「えっと……その……そうです厠! 厠を探していて!」

「嘘をつくな」

「だからその……道に迷って……」

「――本当は?」


 圧をかけるように見下ろされて、らんかは観念する。


「ひっ、ごめんなさい! 操魂の術で使われた鏡はないかと物色していました!」


 正直に物色していたことを白状すれば、彼は忌々しそうに眉をひそめ、こちらに手を伸ばした。


(叩かれる……!?)


 まさか、体罰でもする気ではないかと身を竦め、ぎゅっと目を閉じる。

 ――こつん。


「あいたっ」

「残念だったな。李家に伝わる家宝を、人の出入りがあるこの部屋に置きはしない。あの鏡は李家の血を引く人間には割れないまじないがかかっているが、それ以外の人間なら壊すことができるからな」


 彼はらんかの額を指先で軽く弾き、手から髪飾りを取り上げた。

 彼の顔を見上げながら、おずおずと尋ねる。


「怒って……いませんか?」

「別にこの程度では怒ったりしない。ただ、次から入室には許可を取れ」

「は、はい。すみません」


 注意されてらんかが少しだけ反省していると、彼は言った。


「術には代償がかかるから、他にお前を帰す方法がないか考えている。……何やら、何万人もの人間が、お前の帰りを待ち望んでいるらしいからな?」

「あ、その顔、絶対嘘だと思ってますね……! 本当ですから。何万人どころか、何百万人の人が私のことを知ってくれているんですよ」


 日本にいたときに女優をしていた、と話したが、どうやら彼はらんかが売れない女優なのに見栄を張っていると思っているらしい。

 いつもは表情の機微に乏しいのに、らんかをからかうときは口角が上がっている孫雁。


「ふ。そうか」


 そして今、完全に鼻で笑われた。ネット環境とスマートフォンさえあれば、らんかの実績を証明できるのに。それができないのが非常に残念である。

 彼は嘘つきを見るかのようにすぅと半眼を浮かべた。


「夢が叶うといいな」

「絶対それ馬鹿にしてますよね!?」


 本当に、心の底から残念である。孫雁は文机の奥の座椅子に腰を下ろし、髪飾りを引き出しにしまった後に、仕事をし始めた。

 文机を挟んだ向かいにらんかはちょこんと座り、彼の流麗な筆跡で文字が綴られるのを眺めていた。


「徳妃の元へ行って、何か収穫はあったか?」

「ひとまず、翠徳妃が美男子がお好きなことはよく分かりましたけど。なんていうか、彼女を放っておいて後宮の風紀は大丈夫なんですか? 取り締まった方がよいのでは」

「宦官との間に子を成すことはできないから、血統を混乱さえさせなければよい。そもそも、後宮を統括するのは皇后の仕事だ」

「ああ……それで規律が緩くなったんですね。理解しました」


 樹蘭は後宮統括という重要な仕事を放棄していた。そのおかげで、後宮内で問題が頻発していたそう。後宮の責任者である樹蘭が、率先して風紀を乱す悪女ではどうしようもない。


 翠花に襲われかけたことを思い出して、背筋に冷たいものが流れる。


「翠花様は色んな意味で自由奔放な方でしたが、悪い方には思えませんでした。皇帝陛下が樹蘭様を愛していることも知っていて、その上で妬む感情もないようでしたし。彼女には……樹蘭様を殺す動機が見えませんでした」


 ――今のところは、と付け加える。たった一度会ったきりでは分からないことの方が多いだろう。また宦官の姿をして彼女に会いにいくかどうかは……要検討だ。

 けれど、後宮の雰囲気を知るという意味では有意義な時間だった。


「これに懲りたら、今後は部屋で大人しく――」

「次は、淑妃様のところへ行ってきます」

「…………は?」


 性懲りもないことを言うらんかに、孫雁は呆れたような反応を返した。


「淑妃は警戒心が強い。美しい宦官の姿で籠絡することはできないぞ」

「同じ手は使いませんよ。何かいい案はありませんか? 私なら、どんな役もできますよ」


 文机に頬杖を着いて、彼の顔を見上げる。彼は煩わしそうにしつつも、按摩マッサージ師がいいだろうと提案した。按摩師は、身体を指圧して刺激を与え、筋肉の懲りを解す仕事だ。


 事前に孫雁からもらった資料によると、淑妃麗明レイメイは、武芸を嗜むような豪胆な妃だった。

 彼女は気さくでざっくばらんな性格だが、自分のことはあまり話したがらないらしいので、樹蘭の話を聞き出すのは容易ではないだろう。

 そして、万年腰痛に悩まされている。


「私から彼女に、『腕利きの按摩師がいる』とでも言って紹介すれば、簡単に接触できるだろう」

「え、いいんですか?」

「ああ。樹蘭のために動いてくれているんだ。このくらいの協力はする。思いのほか、お前は役に立つ駒になりそうだからな」

「駒……」


 いちいち偉そうなのが腹立たしい。

 按摩師のふりをして麗明に近づくことが決まったところで、らんかは小さく挙手した。


「あのぅ。私、按摩師の勉強とかしたことないんですけど」

「何とかしておけ」

「何ともなりませんけど」

「…………」


 すると孫雁は、面倒くさそうに眉をしかめ、筆をことんと置いた。


「書でも講師でも、必要なものは用意してやる。用が済んだならさっさと出て行け。それともなんだ。――私に構ってほしいのか?」

「暇なので」

「私は忙しい」


 見て分からないのか、と目で圧をかけてくる彼。そんな彼を、らんかはじっと見つめる。


「……なんだ?」

「いや……仕事でずっと下を向いてたら身体が凝ったりしないのかなって」

「まぁ、あちこち凝っているな」

「それじゃあ、手を出してください」

「手……?」


 孫雁は疑いつつも、言われるがままに片手をこちらに差し出した。

 その手に触れる寸前で、らんかはぴたりと手の動きを止めた。そういえば以前、髪についた糸埃を取ろうとして、勝手に触れるなと苦言を呈されたのだった。


「練習台になってほしいので、触れても? さっき、必要なものは用意するとおっしゃいましたよね」


 彼は少しのためらいのあと、触れることを承諾した。

 そっと両手で彼の手を包み込み、両方の親指の腹を使って彼の手のひらを揉みほぐしていく。


「どうですか? 意外と上手いでしょう?」

「ああ、悪くはない」

「小さいとき、よく父の手や肩を揉んでいたんです。らんかは揉みほぐしの天才だ……って褒められたんですよ?」

「単純な奴め。煽てられて、いいように使われていたんだな」

「その言い方やめてください」


 憎らしさ据え置きの孫雁。彼は意地悪なことを言ってらんかをからかうことがある。けれどこういう小競り合いも、案外嫌ではなく、むしろ心地がいい。

 孫雁の手はらんかよりふた周りも大きくて、長い指は節ばっている。男性の手だった。


「父は優しい人でした。数年前に他界しましたけど」

「……慕っていたのだな」

「はい」

「ずっと……とても後悔しているんです。私は父に、何もしてあげられなかったから」


 誰にも打ち明けたことがなかった父の喪失について、なぜか彼に打ち明ける。

 伏し目がちな表情に憂いが乗ったのを、孫雁は見逃さなかった。


「少なくともお前の愛情は届いていたはずだ。人を失ったときの自己嫌悪や後悔は、誰しも経験する。そしてそれは、時間が解決してくれるものだ。お前の父はきっと、お前が嘆き悲しむより、毎日を幸福に生きることを望んでいるのではないか?」


 彼の言葉が、らんかの胸に染みる。憎らしいことばかり言うくせに、どうしてこういうときの声は優しいのだろう。触れる手は温かくて、父の死で凍っていた心の深いところが溶かされていくよう。


「ありがとう。――あなたにも、同じ言葉を贈りたいです」


 それは、樹蘭を喪ってまもない彼に。

 ふいに、らんかの脳裏に、先ほど書物の間から落ちてきた髪飾りが思い浮かんだ。


「……あの髪飾りは、樹蘭様に贈るためのものですか?」


 上級妃には、それぞれを象徴する宝石がある。樹蘭は紅玉だった。

 孫雁は少し間を開けてから答える。


「贈ってすぐに壊され、突き返されたんだ」


 彼が樹蘭に、あの髪飾りを送ったのは、彼女が後宮に入ってすぐのことだった。彼女は受け取って早々、こんなものはいらないと打ち捨てた。

 そして、片割れだけが孫雁の手に残った。


「捨てることもできず、あの場所にしまっていた。お前が見つけるまで忘れていたがな」


 そう言って苦笑する彼は、傷ついているように見えた。

 うっとりしてしまうほど、綺麗な髪飾りだった。孫雁が樹蘭を想って選んだのだろう。髪飾りを捨てられたときの彼の気持ちを考えると、胸が痛くなる。


(樹蘭様は皇帝陛下が心底お嫌いだったのね。陛下はそんなに……悪い人じゃないと思うけどな)


 不本意だが、孫雁に少しずつ心を許している自分がいる。父の死を打ち明けたのは彼が初めてだった。


 こんなに綺麗な髪飾りをもらえたなら、らんかは喜んで毎日着けていただろう。

 たとえ気に入ってなくとも、くれた相手の気持ちを踏みにじることはしない。そんな風に心の中で思った。

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