エピローグ

第29話 帰還

 ガタンゴトン、ガタンゴトン。

 列車の音を遠くに聞いた気がした。

 土と夜の匂いに、目を覚ます。

 楕円みたいな形をした月が、こちらを見下ろしている。

 つるりとしたその感触を確かめたくて、手を伸ばそうとして。

 そして、気付く。腕を上げることができない。

 腕どころか、身体中が痛くて、怠くて、指一本すら動かせなかった。

 ああ、と。納得の声を出そうとしたけれど、実際には、吐息みたいな喘鳴が漏れただけだった。

 見える世界に道らしき道はなく、ただ木々が生い茂っている。方向感覚が狂わされるような、平坦な景色の中。

 俺は、自分が遭難真っ最中であることを思い出す。

 登山をしたかったわけではない。けれど、終電を逃してしまったものだから。

 山中を徒歩で帰るうちに、足を滑らせこのザマだ。おろし器みたいな斜面を、コロコロ転げ落ちては死にかけている。即死は免れたようだけれど、全身の骨が粉々で裂傷も絶えない。あといくつか、中身が潰れているような気もする。

 本当に、今わの際というかんじだ。

 ならばあの、やたらと濃密で鉄臭い時間は、走馬灯か何かだったのだろうか。

 誰も彼も、何もかもが俺の妄想でしかなくて、狩野幸人なんて本当は存在しなくて。

 「俺を助けに来い」だなんて最期の言葉さえも、夢だったのか。

 参った。

 なんだか急に、胸が痛くなってきた。胸の痛みは伝播するように、全身を蝕んで。涙が止まらなかった。痛くて、痛くて、寂しい。悲しくて堪らない。

 夢の中でも散々だったけれど、こんなに痛いのなら、現実よりかは幾分かマシだったのかもしれない。

 ぐるぐると渦巻く後悔の中。自分で終わらせることすらできずに、ただただゆっくりと近付いてくる死の足音に耳を澄ませて。

 不意に響き渡った甲高い音が、静寂を裂く。

 着信音だった。

 おれの携帯が、非通知からの着信に震えている。

「…………っ、」

 そして同時に、目を細める。

 痛いくらいに強い光が、眼を灼いたから。月光ではない。明らかな人工物の光だ。

「…………圭一?」

 そんな、聞き馴染みのある声に息を呑んだ。

 早鐘を打つ心臓に、昂る内面のまま叫ぼうと口を開く。けれど、声が出ない。声は出ないけれど、代わりに誰かの足音が猛然とこちらへ近付いてくる。途中で転げては、その気配は俺のすぐそばに跪いた。

「圭一!圭一、圭一圭一!よかった、本当に居た…!」

 そして錯乱したように叫んでは、誰かと話し始める。どうやら電話でどこかに連絡しているらしかった。

 話し声が途切れては、再び眩しい光が当てられる。顔を顰めれば、「ご、ごめんね!」という情けない声が降る。

 慌ただしい所作とは別に、そいつはテキパキと俺の体に処置を施した。全身を検分しては、傷口を何かで塞いで、関節を固定して。痛みに呻くけれど、「ごめんね…ごめんね……」と手は止めない。

 そして、複数人の足音が聞こえてきたとき。

 うっすらと開けた視界では、涙に潤んだ黄金が、きらきらと瞬いていた。


 ***



 結果的に言うと、俺はどうにか一命を取り留めた。

 あちらとこちらでは時間の流れの速さが違うらしく、こちらでは、俺が遭難してから4日しか経っていなかったらしい。

 ただあと1,2時間遅ければ、確実に死んでいた……と言うか、生きていること自体驚かれる状態だった。その割には、担当医は「執念ですねぇ」の一言で片付けていたが、アンタそれで良いのか。

 兎にも角にも。今俺の命があるのは、起きるなり警察に連絡し、自らもまた単身で捜索に乗り出した狩野の功績に他ならない。「単身で捜索とか…あんま良くないんじゃないかな……」みたいなことを言えた立場ではない。


「…………入ってこいよ」

 入院6日目。天井を眺めながら言えば、入口の辺りでそいつが肩を揺らすのがわかった。

 ビニール袋を提げたままおずおずと入室してきた青年とは、救助されて以来一度もまともに顔を合わせていなかった。

 単に青年がこちらを避けていたというだけの話だが、俺が不在だったり眠っている間にピンポイントで見舞いにくるその器用さは、賞賛に値する。

「……久しぶり、狩野」

「…………」

「少し痩せたか?」

 茶化すような言葉に、狩野は何か言いたげな表情のまま顎を引いた。

 黙って部屋の隅に立てかけられたパイプ椅子を示せば、渋々と言った様子でそれを引きずって来る。

 俺の枕元に腰かけたのを認めて、「それ、くれるの」と見舞いの品を指す。気まずげに伏せられていただけだった相貌が、やにわに擡げられる。

「…………他に言うこと、あるよね」

「保険には入っとけよ」

「茶化すなよ」

 唸るような声音に、口を噤む。口を噤んで、視線だけを狩野に向ける。伏せられた睫毛の下から、昏い金眼がこちらを見ていた。普段は垂れ気味の眦が吊り上がり、ひたひたと怒気を滲ませている。

「助けてくれてありがとう」

「…………っ、」

「信じてたよ。お前は来てくれるって」

 甲高い音を立てて、パイプ椅子が転がる。狩野が立ち上がったからだ。

「違うだろ!」

 狩野が俺に対して声を荒げるのは、これで2度目だった。黒髪を逆立てて、散瞳した金眼で床を睨む。

「違うだろ、なあ、違うでしょ、圭一」

「おれが間に合わなかったら?お前の理論に少しでも破綻があったら?」

「たまたま上手くいっただけだ。本当に、たまたま。助かる確証なんてどこにもなかった」

「…………分かってるの、死ぬところだったんだよ、お前は。また、おれを────」

 弱弱しい声の合間に、嗚咽が混じる。綺麗な男が、綺麗に泣きながら俺の身体に追いすがっていた。地面に膝をついては、布団に爪を立てる。皴になった敷布団を眺めながら、「ごめん」と呟く。乱れた前髪の隙間から、濡れた瞳が恨めしそうにこちらを見ていた。

「でも、お前は来てくれた」

「だからそれが結果論だって…………!」

「こうしてまた会えた」

 狩野が怯んだように相貌を強張らせる。俺が手を伸ばしたから。手を伸ばして、痩けた頬を指先で擦る。

「お前を傷つけても、命を引き換えにしてでも。俺は、この未来が欲しかった」

 切なげに細められた金眼が、涙を散らす。俺の手を取って、頬を擦りつけて。

「はは。今度は、ちゃんと見える」

「…………ひどい。圭一は、ひどい」

「また、俺と友達になってくれるか?」

 くしゃくしゃになった黒髪を擦ると、狩野の唇が小さく震えた。


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